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寿桂尼物語 第1章 東への花嫁 第七話 婚礼の儀

本作は、石田源志による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

 駿府の空は、まるで清められたように晴れ渡っていた。

 朝の光が館の瓦を照らし、庭の白砂に眩い反射を返す。町中では早くから太鼓と笛の音が鳴り、紅白の幕が風に揺れている。

 この日、駿河は国を挙げての祝いの日を迎えていた。

 桂子は御所の奥で、身支度を整えていた。深雪が髪を結い、志乃が衣を調える。白い衣に淡い紫の唐衣。都から持参した、最も格式高い装束だった。

「姫さま、お美しゅうございます」

 深雪が目を潤ませて言った。

「ありがとう、深雪」

 桂子は微笑んだ。鏡に映る自分の姿は、もう都の桂子ではなかった。今日から、今川の妻となる。その覚悟が、顔に表れている。

 志乃が扇を手渡した。

「姫さま、お時間にございます」

 桂子は深く息を吸い、立ち上がった。


 広間には、家臣たちがずらりと並んでいた。

 朝比奈泰熈が最上座に控え、岡部親綱・葛山氏元らが列を成す。その顔には、期待と緊張が入り混じっている。今川家にとって、この婚礼は単なる祝事ではない。都との繋がりを得ることで、家の格式が上がり、領国の安定が図られる。それが家臣たちの願いだった。

 外より入ってきた春風が、香の煙を揺らした。

 奥の襖が開くと、そこに桂子の姿が現れる。

 白い衣に淡い紫の唐衣。都の風をそのまま纏ったような姿だった。その優雅さに、広間がしんと静まり返った。

 家臣たちの目が、一斉に桂子に注がれる。

 これが都からの姫か。その美しさと品格に、誰もが息を呑んだ。桂子は静かに歩を進め、氏親の向かいに座した。

 氏親はすでに座していた。

 若き当主として、堂々たる振る舞いである。黒い直垂に烏帽子を戴き、背筋を伸ばして座っている。その脇には母・北川殿が控え、静かに頷く。

 今日この日、都からの姫が正式に"今川"の名を戴く。

 それは政と家の安定を意味する、大きな節目だった。


「三献の儀、これより始めます」

 朝比奈の声が響く。

 朱塗りの杯が二人の前に置かれ、桂子が最初に手を伸ばした。薄紅の唇が、酒面をわずかに濡らす。その所作は優雅で、都の作法そのものだった。

 続いて氏親が杯を取る。

 視線が交わる。

 短い一瞬だったが、そこに確かな絆が生まれた。桂子の目には覚悟があり、氏親の目には信頼があった。二人は言葉を交わさずとも、互いの決意を理解していた。

 杯が三度交わされる。

 その度に、二人の間の距離が縮まっていく。最初は遠かった視線が、三度目には柔らかく重なった。

 儀式が進む中、広間の奥で一人の男が立ち上がった。

「伊勢宗瑞、口上仕る」

 ざわめきが一瞬にして収まる。

 鎧直垂の上に薄羽織を纏い、老練な目が二人を見据えていた。五十を過ぎた男だが、その姿には衰えがない。むしろ、研ぎ澄まされた刃のような鋭さがあった。

 彼こそ、氏親の伯父にして、伊豆・相模を治めつつある伊勢盛時――のちの世が「北条早雲」と呼ぶ男である。


「この婚儀、まことにめでたく。都の血脈と駿河の志、ここに結ばれること、まこと天下のため、悦ばしきことにございます」

 その声は低く、力強かった。

 桂子は盛時を見つめた。この男が、氏親を支え、今川家を支えている。その存在感は圧倒的で、ただ立っているだけで場を支配していた。

 氏親は深く頭を垂れ、「伯父上の言葉、胸に刻みます」と静かに応えた。

 その声の裏には、政治の重みが確かにあった。この婚礼は個人の幸せだけではない。今川家の未来、駿河の安定、そして戦国の世を生き抜くための戦略なのだ。

 盛時は笑みを浮かべ、杯を掲げた。

「では、皆の者、杯を!」

 家臣たちが一斉に杯を掲げる。その声が広間を満たし、外の太鼓の音と重なった。

 だが、盛時の目の奥には、駿河の未来を見据える鋭さが宿っていた。この婚礼が成功するかどうか、桂子がこの地に根を張れるかどうか。それを見定めようとしている。

 桂子はその視線を受け止めた。

 怯まず、ただ静かに見つめ返す。盛時の唇がわずかに動き、小さく頷いた。


 やがて楽が始まる。

 琴と笛の調べの中、家臣らは杯を重ね、広間は笑いと祝詞に包まれた。桂子の侍女・深雪が琴を奏で、志乃は後ろに控えて警護の目を光らせる。

 深雪の指が琴の糸を弾く。

 その音色は優雅で、都の香りがした。家臣たちは静まり返り、その音に聞き入った。武家の者たちにとって、これほど洗練された音楽は初めてだった。

 桂子はその音に合わせ、そっと扇を開いた。

 都では舞わぬような静かな所作。けれど、それはこの地に新しい風を運ぶ舞だった。扇が揺れ、袖が流れる。その動きには、都の雅さと、武家の凛とした美しさが共にあった。

 氏親は黙ってその姿を見つめていた。

 妻となる女性が、こうして家臣たちの前で舞う。その姿に、氏親は深い感銘を受けていた。桂子は都から来たが、ただ華やかなだけではない。この地に根を張り、共に生きようとしている。その決意が、舞に表れている。

 舞が終わると、広間に静寂が訪れた。

 やがて、朝比奈が声を上げた。

「姫君、まことに見事にございます!」

 家臣たちが一斉に拍手した。その音が広間を満たし、外の町にまで響いた。


 夜、篝火が灯る。

 外では町人たちが踊り、子らの声が遠くに響く。桂子は庭に出て、灯りの波を見つめた。

 町中が祝いに沸いている。その光景を見ていると、自分がこの国の一部になったのだと実感した。

「この国が、私の歩む場所……」

 呟きは風に溶けた。

 その視線の先で、盛時が月下に立っていた。篝火の光が、その横顔を照らしている。

「……桂子殿」

 声が届く。

 桂子は振り返った。盛時がゆっくりと近づいてくる。

「都は遠い。だが、あなたの志は、この地に根を張るでしょう」

 その声には、試すような響きがあった。だが同時に、期待も込められている。

 桂子は微笑を返す。

「ならば、花が咲くまで、耐えてみせましょう」

 盛時の目が細まった。

「……良い答えだ」

 小さく頷き、闇に溶けた。その足音が遠ざかり、やがて消える。

 桂子は再び空を見上げた。

 月が明るく輝いている。都で見た月よりも、澄んで見えた。


 その夜、駿府の空には、かつてないほど多くの灯が揺れていた。

 それは、ひとつの国が新たな時代を迎える光だった。

 桂子は御所に戻り、窓辺に立った。町の灯を見つめながら、深く息を吸う。

 志乃と深雪が傍に寄り添った。

「姫さま、本当にお美しゅうございました」

 深雪が涙ぐんで言った。

「ありがとう。二人がいてくれたから、ここまで来られました」

 志乃が静かに言った。

「姫さまは、もう今川の御方にございます」

「ええ」

 桂子は頷いた。

「これから、この国を支えていきます」

 三人は無言で手を取り合った。

 長い旅を経て、ここに辿り着いた。そして今日、新しい人生が正式に始まった。

 外で太鼓が鳴る。

 祝いの音は、夜更けまで続いた。桂子は目を閉じ、その音に身を委ねた。

 明日からは、今川の妻として生きる。

 駿河の空の下で、この国を支えていく。

 その覚悟が、静かに胸に満ちていった。

 都を発ってから幾日。

 血を見て、泥にまみれ、海を渡り、ついにこの地に根を張った。

 桂子は窓を開け、夜気を吸い込んだ。

 遠くで篝火が揺れ、町の灯が瞬いている。

 ――わたしは、ここで生きる。

 その決意を胸に、桂子は静かに窓を閉じた。

 駿府の夜は、祝福の光に包まれていた。


第一章 完


本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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