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寿桂尼物語 第九章 花倉の乱 第三話 届かぬ網

本作は、石田源志による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

 遅れるものには、二つある。足の遅いもの。それは仕方がない。雨でぬかるみ、川が増せば、人も馬も思うようには進まぬ。だがもうひとつ、わざとではない顔をして遅れるものがある。それは道のせいにはできても、道だけのせいではない。寿桂尼は、その違いを知っていた。

     *

 義元の名が置かれて三日が過ぎた。館は静かだった。静かであることが、そのまま従いではないと知ったうえで、それでも静けさを保っている。乱れはない。だが、よく整った朝ほど、小さな綻びは目立つ。

 最初の綻びは、寺からの使いだった。来るはずの僧が来ない。半日ほど遅れ、ようやく着いたかと思えば、口上は短く、言葉の継ぎ目に妙な空きがある。いつもなら添えてくるはずの話がない。逆に、言わずともよいことだけが丁寧に整っている。

 寿桂尼は、それを聞いてすぐには何も言わなかった。深雪に紙だけを受け取らせ、僧はそのまま帰した。

 義元は、その場に同席していた。僧が下がると、ようやく口を開く。

 「遅れたことを、責めぬのですか」

 寿桂尼は、すぐには義元を見なかった。先ほど僧が置いていった文をひらき、その墨の濃さと乾き具合を見ている。

 「責めるべき遅れならば、責めます」

 「では、今のは違うと」

 「違います。今のは、責めれば深く潜る遅れにございます」

 義元は言葉を返さなかった。まだよく分からぬ。遅れは遅れではないか、と若い心は思う。だがここでは、見えている形が、そのまま中身ではない。

 雪斎が一歩遅れて入ってきたのは、その直後だった。入るなり、寿桂尼の前にある文へ目を落とす。

 「寺筋にございますか」

 寿桂尼は頷く。

 「はい」

 「遅うございましたな」

 「半日ほど」

 「それだけ遅れて、ようやくこれにございますか」

 義元は、そのやり取りに少し苛立った。言葉が少なすぎて、何を見ているのかが分からない。

 「ただ遅れただけではない、と?」

 雪斎は義元へ向き直る。

 「ただ遅れたのであれば、道を語ります。道を語らず、遅れの理由ばかりを整えるのは、別のものが遅れておる時にございます」

 義元は少し眉を寄せた。

 「別のもの」

 寿桂尼が、その問いを引き取る。

 「心、と申せば曖昧に過ぎます。ですが、向き、と申せば少し近うございます」

 義元は、そこでようやく二日前の欠席者たちを思い出した。病。道の不具合。使者の遅れ。どれも表向きは立つ。だが立つことと、真であることは違う。

 深雪が、次の文を運んでくる。今度は別の寺筋であった。中身は短い。しかも、先ほど届いた文と、妙なところで似ている。用心深く、何も言っていない。だが、何も言わぬことによって、かえって何かを隠している気配がにじむ。

 寿桂尼は、二つを並べて見た。

 「似すぎております」

 「ええ」

 「手が入っておりますか」

 寿桂尼は首を横へは振らなかった。縦にも振らない。

 「そこまでは申せませぬ。ですが、網の目が二つほど、急に同じ鈍り方を見せております」

 義元はその言葉に顔を上げた。

 「網、と申されましたか」

 寿桂尼は頷く。

 「寺は祈るためだけの場ではありませぬ。人が集まり、文が通り、報せが流れます。言葉は、館からだけ出るものではない。寺を通って広がるものも多い」

 義元はそこで、ようやく少しだけ背筋が寒くなった。刀の届かぬ場所で、人と文と噂が行き交う。そこが鈍るということは、見えぬところで何かが立ち止まり始めているということだ。

 「敵に回った、と」

 義元は言った。若い当主の言葉としては、やや早かった。

 寿桂尼はすぐに首を振る。

 「そこまで申してはなりません。敵であれば、切れます。切れぬものだからこそ、厄介なのです」

 雪斎が、そこで初めて少しだけ長く口を開いた。

 「寺は、人より先に向きを変えぬことがございます」

 義元がそちらを見る。

 「向きを変えぬ?」

 「はい。人が騒げば、寺はまず静まろうといたします。静まりながら、どちらへ傾くかを見ます。そのあいだ、文は遅れ、口は慎み、報せだけが細くなります」

 それは雪斎だからこそ言える言葉だった。寺の中の理屈を知っている。祈りの場が、同時に人と情報の溜まる場でもあると知っている。

 寿桂尼は、その説明をそのまま受けた。

 「ええ。今はまだ、反いたと見るには早うございます。ですが、鈍っております」

 義元は黙った。鈍る。敵ではない。だが従ってもいない。その半端さが、かえって怖かった。刀なら見える。兵なら数えられる。だが、遅れる文と短くなる口上は、見えぬまま国を冷やす。

 義元はふと、自分がこの三日間で受けてきた小さな変化を思い返した。廊で目が伏せられる。声が一拍遅れる。返事が短くなる。それも、鈍り、だったのか。自分に向けられるものの中にも、同じ種類の半端さがあった。怒るべきことではないのかもしれない。だがそれが何なのかを知らぬまま受けていたことが、今になって少し恥ずかしかった。

     *

 その日のうちに、もう一つ小さな異変があった。館へ届くはずの僧が、途中で引き返したという。病の者を見舞うため、と道中で言ったらしい。それ自体は咎めようのない理由だった。だが、その僧が本来持ってくるはずだった文は、どこへも届かなかった。

 義元は、今度は自分から言った。

 「失われたのであれば、書き直させればよろしい」

 寿桂尼は頷きかけて、わずかに止めた。

 「そう申せるうちは、まだ浅い遅れにございます」

 義元は口を閉じた。咎められたのではない。だが、自分がまだ見える形でしか物を捉えていないのは分かった。

 雪斎が、障子の外の気配を聞くように少し目を伏せる。

 「抜けがございますな」

 それだけ言った。だがその一言で、寿桂尼は今見えているものの形をはっきり受け取ったようだった。

 「ええ。網に、抜けがございます」

 寿桂尼は机の上の文を重ねた。並べてみると、どれも短く、似たように整っていて、どれも同じだけ何かが足りない。

 「名が置かれました。すると今度は、名へつながる道が、ひとつずつ量られます。来る者を見るのと同じように、来ぬ文も、遅れる使いも、短くなる口も、見ねばなりません」

 そこで義元は、二話の座と今の文が、同じ話の裏表なのだと気づき始めた。座は埋まっていた。だが揃ってはいなかった。文も届いている。だが、つながってはいない。館の中で起きていることは、もう館の中だけのことではない。寺を通り、道を通り、誰かの口を経て、外でも同じように薄く広がり始めている。

 義元は、その沈黙の中で何か言おうとした。言葉を探した。だが、出てこなかった。鈍り。抜け。届かぬ文。それらの向こうにあるものの名を、まだ自分の言葉では言えない。見えてはいる。だが、摑めていない。摑めぬまま、どう動けばよいかも分からない。

 それが今の自分の限界だと、義元はその時初めて、はっきりと自覚した。頭で分かったことが、まだ手足になっていない。二話で学んだ骨が、まだ体に入っていない。その自覚は、悔しさよりも、冷たいものとして胸へ落ちた。

 雪斎が、最後に一度だけ言った。

 「細いところほど、よう鳴ります」

 寿桂尼は頷いた。

 「ええ。太い綱は、切れる時まで黙っております。細い糸ほど、先に鳴ります」

 義元は、その言葉を深く覚えた。戦とは、太い綱が切れる時に始まるものではない。その前に、細い糸がいくつも鳴る。それを聞けるかどうかで、館が館であり続けるかどうかが決まる。聞けるようになりたい、と思った。言えるようになりたい、とも思った。だが今日は、まだそこに届いていない。

     *

 その夕刻、深雪がまた一つの紙片を運んできた。花倉の名は、まだそこにはない。だが寺筋の鈍りと、道の遅れと、口上の短さが、みな同じ方角へ細く流れ始めている。寿桂尼はその方角を見ていた。義元はまだ、そこに何が立つかを知らない。雪斎は、名のない抜けの形に、すでに強い関心を向けている。

 網はまだ破れてはいない。だが、届くべきものが届かぬ時、破れはいつも見えぬところから始まる。

 義元はその夜、部屋へ戻ってから、しばらく何もしなかった。言葉にならないものを、言葉にしようとして、できないまま夜が深くなった。それが今日、自分が学んだことのすべてだった。分かったことより、まだ分かっていないことの方が、ずっと多かった。



本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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