寿桂尼物語 第八章 断たれた継承 第八話 順へ戻る
本作は、石田源志による戦国歴史小説
今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
夜が明けても、館は泣かなかった。
深い喪ほど、声になりにくい。 声になれば、まだ流せる。 流せぬものは、館の柱や廊の角に沈んで、ただ重さだけを残す。
氏輝が逝った翌朝、駿府はその重さの中にあった。
寿桂尼は、まだ暗いうちに起きていた。 眠ったかどうか、自分でもよく分からない。 順を失った一夜を、そのまま身の内に置いていただけだった。
帳面は、もう机の上に開かれていた。 昨夜の字が乾いている。
――順、今夜のみ失う。
最後の一行を、寿桂尼はしばらく見た。
他人の字のように見えた。 だが他人ではない。 昨夜の自分だ。
「氏輝」と名で呼んだ。 「置いてゆかぬでください」と言った。
あれは確かに自分だった。 あれがあってよかった、と今朝は思う。 氏輝は「ようやく」と言った。 見たかったものを見た顔だった。
だとすれば、あの一夜は無駄ではなかった。 ただ、今日からはまた戻す。
寿桂尼は、最後の一行からようやく目を離した。
「氏広殿、雪斎殿、承芳様を。静かに」
声はもう整っていた。 昨夜の裂けた声は、館のどこかへ沈んでいる。 今はもう使わない。
*
承芳は十六だった。 昨夜までと同じ顔でいてよい年ではない。 だが、一夜で別人になれる年でもない。
部屋に入った承芳は、まず寿桂尼を見た。 次に氏広を見、そして雪斎の背をひとつだけ追った。 まだ若かった。 だが若いままでいてよい場でもなかった。
崩れていない。 まだ、壊れてはいない。 それで十分だった。
「昨夜のことは、もう皆、ご存じにございます」
氏広が低く言った。 「館を静めております」
「ようございます。今朝はまだ、外へ大きくは流しませぬ」
「黙すのは、崩れぬためにございます。隠すためではございません」
承芳は、そのやり取りを黙って聞いていた。 雪斎もまた、何も言わない。 ここで先に僧が言葉を取れば、順が乱れる。 それを知っているから黙っている。
「まだ、何も急がなくてよろしゅうございます」
承芳は、そこでわずかに顔を上げた。
「急げば、形が荒れます。今はまず、館が館であるように保つほうが先にございます」
「承りました」
声は若い。 だが昨夜より少し低かった。
人は一夜で育たない。 けれど一夜で、もう幼くは戻れなくなる。
*
朝が上がるにつれ、館の音が少しずつ戻ってきた。
障子の開け閉め。 廊を渡る足音。 一度切れた綱を、まだ手探りで結び直している音だった。
順へ戻るとは、悲しみを消すことではない。 悲しみを持ったまま、また並べ直すことだ。
「東は、清康亡きあと、また乱れましょう」
「ええ。乱れますが、それで吉田が戻るわけではございません」
雪斎が短く口を開いた。 「外は、また形を探し始めますな」
東は、清康の死で静まるのではない。 新しい形を探してまた揺れる。 ならば今川は、その揺れのあいだに、自分の形を崩さぬことが要る。
昼前、氏輝の死が家中に伝えられた。
誰も声を荒げなかった。 承芳は、その報せが広がっていく気配を、座したまま聞いていた。
備えとして置いた者が、意味を帯びてしまった顔だった。
「承芳様。今は、まだお言葉を多くなさらぬほうがよろしゅうございます。今はまだ、座においでなさいませ」
「……はい」
承芳を立てるのではない。 まず座へ置く。 急げば荒れる。 荒れれば、次の乱は館の中から始まる。
次の乱。
その言葉が、寿桂尼の胸の内で一度だけ止まった。
今川の次の当主を、望まぬ者もいる。 氏親の血は、承芳だけが引いているのではない。 恵探もまた、氏親の子だ。 花倉に、その名はある。
今はまだ静かだ。 だが静かな時ほど、動こうとする力は見えにくい。
*
夕刻、寿桂尼はようやくひとりになった。
手は、昨夜より揺れない。 揺れないことが、かえって少し冷たかった。
「今夜は、お休みになられますか」
「無理でございましょう」
深雪も、ほんの少しだけ目を伏せた。 慰めはいらない。 ただ、同じことを知っている者が一人いれば足りる。
寿桂尼は、白い紙に短く書いた。
――氏輝、逝く。 ――館、まだ沈まず。 ――承芳、なお座に置く。 ――順、戻る。
「館、まだ沈まず」という二行目が、今夜はいちばん重かった。
まだ、という一字が重い。 これから沈もうとする力が働くということだ。
承芳が座にいる。 雪斎がその横にいる。 だが恵探もまた、氏親の子だ。 花倉に、その名はある。
今はまだ静かだ。 だが来る前に、承芳が線を引ける者にならねばならない。 雪斎が、その線を支えられる者にならねばならない。
今日から、その時間が始まった。
寿桂尼は帳面を閉じた。 閉じたということは、次が始まるということだ。
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
本文の連載は note版 にて公開しています。
設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




