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寿桂尼物語 第八章 断たれた継承 第六話 取りすぎぬ戦

本作は、石田源志による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

勝つ時ほど、足を見失いやすい。

押せている時、人はつい先を見たくなる。 もう一城。 もう一押し。

そう思った時に、だいたい形は崩れる。

寿桂尼は、駿府で北からの紙を見ながら、そのことを思っていた。

最初の紙は、万沢の手前でこちらが押し返したことを告げていた。 次の紙は、北条勢が側面から圧をかけ、武田方が思うように伸びられぬことを告げた。 三通目では、甲斐の口が一つ閉じたとあった。

悪くない。 むしろ、かなり良い。 だが良い報せほど、あとが難しい。

     *

「北条もよく動いております」

昼過ぎ、氏広が政所へ入って言った。 「甲斐方は、息がつけませぬ」

寿桂尼は、その言葉を受けながら、胸の内で一つ確かめた。

北条が動いている。 今回の戦で、北条は今川と連動した。 その背景に、娘がいる。

北条へ嫁がせた娘が、縁として機能している。 縁は、兵より先に道を開く。 動く理由があるから、氏綱は甲斐へ圧をかけた。

「縁は兵より長い」と氏輝に言った言葉が、今日の戦で形になっていた。

娘を北条へ出した時、効き方は後でしか分からなかった。 今日、その縁が甲斐で効いた。

寿桂尼は、その一事を帳面には落とさなかった。 落とせば、娘の名が政の言葉になる。 ただ、胸の内に置いた。

     *

その日の夕刻、氏輝からの紙が届いた。

――押し返した。 ――向こうはなお退かぬ。 ――こちらも押せる。 ――ただし、取る戦にあらず。

寿桂尼は、その最後の一行で目を止めた。 よい。 ここで「あと一押し」と書かぬところがよい。

言葉が人に入る時、人はそれを自分の言葉として使う。 今の一行は、氏輝の判断として出ている。 借り物ではない。

寿桂尼は、その一行を胸の内で一度だけ受けた。 帳面には落とさなかった。 落とせば、褒めることになる。 褒めれば、次で油断する。

氏広も、同じところで目を止めた。 「分かっておられますな」

「甲斐を取るつもりで踏み込めば、深くなります。深くなれば、東も西も薄くなる」

今川に必要なのは、甲斐を呑み込むことではない。 武田に、今川はまだ崩れていないと見せること。 そのためには、勝ちに乗って取りすぎてはならない。

翌朝、雪斎が口を開いた。 「押せる時ほど、取りすぎてはなりませぬ」

「甲斐を取れば、守る場所が増えます。今は、勝つことより、崩れておらぬと見せることのほうが先にございましょう」

氏広が低く頷いた。 「そのとおりにございますな」

全部を語らない。 だが、場の順だけは切って見せる。 雪斎はその使い方のほうが生きる。

     *

数日後、北条側の動きに変化が出た。

関東の動きが、氏綱の足を引いた。 長く甲斐へ張ることが難しくなった。

次の紙は、氏輝自身のものだった。

――押せる。 ――だが、ここまでとする。 ――甲斐は取らぬ。 ――顔は立った。

よい。 勝っている時に引く。 これは若い当主には難しい。 そこで止まるのは、弱いからではない。 順を見ているからだ。

「顔は立った、にございますか」

氏広が少しだけ口元をゆるめた。 「殿らしい」

北条が引いた。 娘を嫁がせた縁が、今回は確かに働いた。

娘は、今ごろ何を思っているか。 北条の中で、どういう日々を送っているか。

寿桂尼は、その問いを帳面には落とさなかった。 落とせる言葉ではなかった。

     *

だが、館の内は別だった。

彦五郎は、その日も起きていた。 起きている。 そこがまだ残酷だった。 座れてしまう。 言葉も返せる。 だから、まだ"大事"とは言い切れない。

「弱うございますか」

侍医は頭を下げた。 「はい」

「北は、ようございましたのに」

深雪が静かにそう言った。

「外がようございましても、内は別にございます」

寿桂尼は言った。

     *

氏輝が戻ったのは、その翌々日だった。 押し、見せ、引くところで引いた者の顔だった。

「甲斐は取らぬ」

「それでよろしゅうございます」

「そう言うと思った」

「お聞きになるまでもございません」

氏輝は少しだけ笑った。 それから視線を奥へやった。 「彦五郎は」

「細っております。まだ、名を立てるには」

氏輝は、小さく息を吐いた。 北で引き際を決めた男の息とは、少し違う。 こちらは、順で決められぬことの息だった。

     *

夜、寿桂尼は帳面に書いた。

――北、顔立つ。 ――されど、内を救わず。 ――縁、今日は働けり。

三行目は少し迷った。 娘の名を出すほどではない。 だが残しておきたかった。

縁を結んだことは正しかった。 今日、それが証明された。

だが証明された日に、別の子が細っている。

縁を結べる娘が一人いて、縁を結べぬまま細っている者が一人いる。 同じ母から生まれた子が、こういう形で並ぶことがある。 政として正しい形が、家の内では痛い形になることがある。

それが今の今川の形だった。

寿桂尼は帳面を閉じた。 閉じたということは、次が始まるということだ。



本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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