寿桂尼物語 第八章 断たれた継承 第四話 名を持てぬまま
本作は、石田源志による戦国歴史小説
今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
大事は、たいてい小さく始まる。
いきなり倒れるわけではない。 いきなり誰もが顔色を変えるわけでもない。
食が少し細る。 薬を戻す。 顔色が一日だけ悪い。
そういう小さなことで始まる。 だから人は、しばらく見過ごす。
見過ごすというより、まだ大事にはしたくないのだ。 大事と名をつければ、場がその重さに引かれる。 引かれれば、他のものまで傾く。 今川の館は、いま傾けてよい時ではなかった。
寿桂尼は、その朝もまず彦五郎の薬の椀を見た。
薬は半ばほど減っていた。 飲みきってはいない。 だが、まったく手をつけぬ日よりはましだった。
そういう見方をするようになっている時点で、もうよくないのだと寿桂尼は知っていた。
彦五郎は子ではない。 もう元服していてよい年である。 にもかかわらず、まだ名が立たない。
名が立たないということは、家の線が一本、宙に浮いたままだということだ。
氏親が生きていた頃、家の線はいつも氏親が引いた。 引いた線は、動かなかった。 今は違う。 彦五郎の線だけが、まだ引けていない。
引けていない線は、見ている者に何かを思わせる。 口にはしない。 だがそこへ目が寄る。 目が寄る場所は、やがて弱いところになる。
「まだ、外へは」
寿桂尼が言うと、深雪はすぐに頷いた。 「出しておりませぬ」
「そうなさい」
今は、言葉を増やすほど弱くなる。
*
氏輝は、出立の前に寿桂尼のもとへ来た。
前へ出る者の顔になっている。 部屋へ入るなり、まず寿桂尼を見た。 それから、その背後にある気配を量るように、一瞬だけ視線を止めた。
「彦五郎は」
短い。 だが、避けなかったのはよかった。
「まだ、大事とは申せませぬ」
少し間を置く。
「ただ、名を立てられるほどには」
そこで止める。 それで十分だった。
氏輝は、少しだけ視線を落とした。 意味は分かっている。 元服していてよい年に達しながら、まだ名が立たない。 それが家の内でどう見えるかも、氏輝には分かっていた。
「侍医は」
「言葉を薄くしております」
「それはよくないな」
「薄い言葉が続きます時は、たいてい、まだ名をつけたくないのでございましょう」
氏輝は、そこでようやく息を吐いた。 短い息だった。 崩れぬように吐く息だ。
「その時は、その時にございます」
寿桂尼は言った。
「今は、北で崩れておらぬ顔を見せていただくほうが先にございます」
「母上は、こういう時でも順を違えぬな」
「違えますと、あとで二つとも落とします」
「分かった。北へは出る。ただし、こちらの報せは遅らせるな。薄い言葉のままで済ませるな」
弟のことを気にしていないわけではない。 だが、今はそれを前へ出しすぎない。 その分け方は悪くなかった。
*
氏輝が発ったあと、寿桂尼は朝から二つの部屋を行き来していた。
ひとつは政所。 ひとつは彦五郎の部屋。
そのあいだの廊は妙に長く感じられた。
政所では、国の順が決められる。 彦五郎の部屋では、家の線が見られる。
氏親が生きていた頃、この廊を行き来する必要はなかった。 氏親が外を持った。 寿桂尼は内を持った。 家の線は、氏親がいるだけで引かれていた。
今は、外も内も、家の線も、すべてこちらが持たねばならない。 持ちながら、廊を歩く。 廊が長く感じられるのは、持つものが増えたからだった。
昼過ぎ、侍医が再び脈を見た。
脈を取る手が長い時は、よいことが少ない。
「いかがにございます」
「弱うございます」
今度は薄くなかった。 そこが重い。
「熱は」「高くはございません」 「食は」「進みませぬ」 「気は」
侍医は答えなかった。 答えぬことで、十分だった。
寿桂尼は、そこでようやく目を閉じた。 泣くほどではない。 まだその段ではない。 だが、名がつき始めている。 それが分かった。
「まだでございます。内に置きます。ただし、目は増やしなさい」
*
夕刻、北からの報せが戻った。
氏輝、無事に着く。 向こうはまだ兵を濃く見せず。
良い報せとも、悪い報せとも言えない。 ただ、次の紙を待たせる。
奥では、彦五郎がまた薬を戻した。
寿桂尼は、政所へ戻る前に一度だけ彦五郎の寝顔を見た。
穏やかだった。 穏やかだからといって、安んじてよいとは限らない。 弱い者ほど穏やかに見えることがある。
元服していてよい年である。 それなのに、まだ彦五郎のまま眠っている。
この子に名を立てさせてやれなかった。
氏親がいれば、とは思わない。 だがこういう時だけ、ふと思う。 氏親がいれば、彦五郎の名をどう立てたか。
そこまで思ってから、寿桂尼は廊へ戻った。 思うだけで足りる。 思った先まで行けば、政にならない。
*
夜、寿桂尼は帳面に短く書いた。
――北、まだ火にあらず。 ――内、細る。 ――名、いまだ立たず。
「名を持てぬまま」
深雪に問われて、寿桂尼はそうだけ言った。
深雪は黙った。 その一言が、いちばん重いと分かったのだろう。
「名、いまだ立たず」だけは、政の言葉のままにしておけない重さがあった。
名を持てぬまま、という言葉は、彦五郎だけの話ではない。 名を立てさせてやれなかった、という話でもある。
それは帳面の外にある言葉だった。 帳面の外に置いたまま、今夜も廊を歩く。
寿桂尼は帳面を閉じた。 閉じたということは、次が始まるということだ。
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
本文の連載は note版 にて公開しています。
設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




