表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/66

寿桂尼物語 第八章 断たれた継承 第四話 名を持てぬまま

本作は、石田源志による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

大事は、たいてい小さく始まる。

いきなり倒れるわけではない。 いきなり誰もが顔色を変えるわけでもない。

食が少し細る。 薬を戻す。 顔色が一日だけ悪い。

そういう小さなことで始まる。 だから人は、しばらく見過ごす。

見過ごすというより、まだ大事にはしたくないのだ。 大事と名をつければ、場がその重さに引かれる。 引かれれば、他のものまで傾く。 今川の館は、いま傾けてよい時ではなかった。

寿桂尼は、その朝もまず彦五郎の薬の椀を見た。

薬は半ばほど減っていた。 飲みきってはいない。 だが、まったく手をつけぬ日よりはましだった。

そういう見方をするようになっている時点で、もうよくないのだと寿桂尼は知っていた。

彦五郎は子ではない。 もう元服していてよい年である。 にもかかわらず、まだ名が立たない。

名が立たないということは、家の線が一本、宙に浮いたままだということだ。

氏親が生きていた頃、家の線はいつも氏親が引いた。 引いた線は、動かなかった。 今は違う。 彦五郎の線だけが、まだ引けていない。

引けていない線は、見ている者に何かを思わせる。 口にはしない。 だがそこへ目が寄る。 目が寄る場所は、やがて弱いところになる。

「まだ、外へは」

寿桂尼が言うと、深雪はすぐに頷いた。 「出しておりませぬ」

「そうなさい」

今は、言葉を増やすほど弱くなる。

     *

氏輝は、出立の前に寿桂尼のもとへ来た。

前へ出る者の顔になっている。 部屋へ入るなり、まず寿桂尼を見た。 それから、その背後にある気配を量るように、一瞬だけ視線を止めた。

「彦五郎は」

短い。 だが、避けなかったのはよかった。

「まだ、大事とは申せませぬ」

少し間を置く。

「ただ、名を立てられるほどには」

そこで止める。 それで十分だった。

氏輝は、少しだけ視線を落とした。 意味は分かっている。 元服していてよい年に達しながら、まだ名が立たない。 それが家の内でどう見えるかも、氏輝には分かっていた。

「侍医は」

「言葉を薄くしております」

「それはよくないな」

「薄い言葉が続きます時は、たいてい、まだ名をつけたくないのでございましょう」

氏輝は、そこでようやく息を吐いた。 短い息だった。 崩れぬように吐く息だ。

「その時は、その時にございます」

寿桂尼は言った。

「今は、北で崩れておらぬ顔を見せていただくほうが先にございます」

「母上は、こういう時でも順を違えぬな」

「違えますと、あとで二つとも落とします」

「分かった。北へは出る。ただし、こちらの報せは遅らせるな。薄い言葉のままで済ませるな」

弟のことを気にしていないわけではない。 だが、今はそれを前へ出しすぎない。 その分け方は悪くなかった。

     *

氏輝が発ったあと、寿桂尼は朝から二つの部屋を行き来していた。

ひとつは政所。 ひとつは彦五郎の部屋。

そのあいだの廊は妙に長く感じられた。

政所では、国の順が決められる。 彦五郎の部屋では、家の線が見られる。

氏親が生きていた頃、この廊を行き来する必要はなかった。 氏親が外を持った。 寿桂尼は内を持った。 家の線は、氏親がいるだけで引かれていた。

今は、外も内も、家の線も、すべてこちらが持たねばならない。 持ちながら、廊を歩く。 廊が長く感じられるのは、持つものが増えたからだった。

昼過ぎ、侍医が再び脈を見た。

脈を取る手が長い時は、よいことが少ない。

「いかがにございます」

「弱うございます」

今度は薄くなかった。 そこが重い。

「熱は」「高くはございません」 「食は」「進みませぬ」 「気は」

侍医は答えなかった。 答えぬことで、十分だった。

寿桂尼は、そこでようやく目を閉じた。 泣くほどではない。 まだその段ではない。 だが、名がつき始めている。 それが分かった。

「まだでございます。内に置きます。ただし、目は増やしなさい」

     *

夕刻、北からの報せが戻った。

氏輝、無事に着く。 向こうはまだ兵を濃く見せず。

良い報せとも、悪い報せとも言えない。 ただ、次の紙を待たせる。

奥では、彦五郎がまた薬を戻した。

寿桂尼は、政所へ戻る前に一度だけ彦五郎の寝顔を見た。

穏やかだった。 穏やかだからといって、安んじてよいとは限らない。 弱い者ほど穏やかに見えることがある。

元服していてよい年である。 それなのに、まだ彦五郎のまま眠っている。

この子に名を立てさせてやれなかった。

氏親がいれば、とは思わない。 だがこういう時だけ、ふと思う。 氏親がいれば、彦五郎の名をどう立てたか。

そこまで思ってから、寿桂尼は廊へ戻った。 思うだけで足りる。 思った先まで行けば、政にならない。

     *

夜、寿桂尼は帳面に短く書いた。

――北、まだ火にあらず。 ――内、細る。 ――名、いまだ立たず。

「名を持てぬまま」

深雪に問われて、寿桂尼はそうだけ言った。

深雪は黙った。 その一言が、いちばん重いと分かったのだろう。

「名、いまだ立たず」だけは、政の言葉のままにしておけない重さがあった。

名を持てぬまま、という言葉は、彦五郎だけの話ではない。 名を立てさせてやれなかった、という話でもある。

それは帳面の外にある言葉だった。 帳面の外に置いたまま、今夜も廊を歩く。

寿桂尼は帳面を閉じた。 閉じたということは、次が始まるということだ。



本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ