寿桂尼物語 第1章 東への花嫁 第六話 初対面の儀
本作は、石田源志による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
一
門の向こうは広い庭だった。
白砂が敷き詰められ、松と竹が植えられている。その奥に、堂々とした館が見えた。入母屋造りの屋根、黒い壁、朱塗りの柱。武家の格式が漂っている。
桂子は深く息を吸った。
志乃と深雪が後ろに控え、朝比奈泰熈が先導する。白砂を踏む音だけが、静かに響いていた。
駿府の町がざわめいていた。
春まだ浅い風が吹きぬけ、道の両側に並んだ人々の衣をはためかせる。都からの姫が来る――その噂は早くから駿河一円に広まり、町人も農民も、見物に押し寄せていた。
朝比奈泰熈は、先ほどまで馬上で列の進みを確かめていた。鎧の胸には今川の紋。顔は厳しいが、瞳には誇りがあった。
この婚儀は、駿河の新しい時代を開く。
伊勢盛時(北条早雲)も、母北川殿も、皆が待ち望んだ「安定」の始まりだった。今川家は力を持ちながらも、まだ朝廷との繋がりが弱かった。都の血を迎えることで、家の格式が上がり、領国の安定が図られる。それがこの婚儀の意味だった。
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二
列の中ほどに、金糸を織り込んだ牛車があった。
桂子はその中で静かに息を整えていた。遠い道のりで疲労はあったが、心は不思議に静かだった。
京を離れて以来、何度も不安に襲われた。
血を見、泥にまみれ、海を渡り、雨に打たれた。その度に、都の優雅な暮らしが遠ざかっていった。だが同時に、自分の中に何かが育っているのを感じた。
強さ、というべきか。
それとも覚悟、というべきか。
けれど、今日だけは違う。
――ここで、私の役目が始まる。
桂子は膝の上で手を組み、目を閉じた。父の顔が浮かび、母の声が蘇る。そして志乃と深雪の顔。長い旅を共にした二人の姿。すべてが、この瞬間のためにあったのだと思えた。
牛車が館の前で止まる。
白砂の上に、静かな靴音が降りた。門前には武士たちがずらりと並び、頭を垂れている。その整然とした姿は、今川家の統制の厳しさを物語っていた。
その奥、敷地の最も奥に、若き当主が立っていた。
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三
今川氏親。
鎧直垂の上から直衣をまとい、黒漆の烏帽子を戴く。その姿には、京の貴族に通じる品位があった。武家でありながら、公家の作法を学んでいることが一目で分かった。
しかし、その目は京の公家とは違う。
多くを見て、なお沈黙する者の目だった。戦場を知り、政治を知り、人の生き死にを知る者の目。そこには冷たさではなく、深い思慮があった。
桂子は一歩前に進み、深く頭を下げた。
「遠路よう参られた。桂子殿」
静かに発せられた声に、桂子は顔を上げる。
「恐れ入ります。駿河の風、都と違い清しゅうございます」
わずかな微笑。
その言葉に、氏親の頬がわずかに緩んだ。堅い表情の中に、人間らしい温かさが滲む。それを見て、桂子の胸の緊張が少しだけほどけた。
朝比奈が進み出る。
「殿、都より姫君、無事ご到着にございます」
「うむ。皆の労に感謝する」
その一言で、家臣らは一斉に頭を垂れた。
氏親の言葉は短いが、重みがあった。無駄なことは言わず、必要なことだけを口にする。それが氏親の流儀なのだと、桂子は直感した。
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四
氏親は一歩前へ出ると、桂子に近づいた。
その距離は、ほんの二歩。
桂子は、初めて彼の瞳を真正面から見た。そこには威圧も驕りもなく、ただ静かな強さがあった。
――この人は、都を知らぬのではない。
けれど、都を見限った人。
桂子の胸の奥に、言葉にならぬ共鳴が走った。都の華やかさでは覆い隠せぬ、現実の重さ。その重みを、この男は知っている。
朝廷の権威は衰え、公家は力を失い、戦乱が続く。その中で生き抜くには、美しい言葉だけでは足りない。刃と知恵と、そして覚悟が必要だ。氏親はそれを理解している。
だからこそ、都の血を求めたのだ。
力だけでは国は治まらない。文化と格式が必要だ。それを理解しているからこそ、桂子を迎えたのだと分かった。
「これより、そなたは我が家の一員となる」
「はい。命の限り、御家をお支え申し上げます」
短い言葉のやり取りの中に、互いの決意が交わされた。
それは政略の儀式ではなく、二人の"覚悟"の契りだった。桂子は都の娘として、氏親は駿河の当主として、この国を共に支えていく。その約束が、言葉にならぬまま交わされた。
氏親は小さく頷き、一歩下がった。
「御所を用意してある。まずは旅の疲れを癒されよ」
「ありがとうございます」
桂子は再び深く頭を下げた。
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五
外では、町の太鼓が鳴り響く。
春の風が駿府の屋根瓦を渡り、桜の蕾を震わせていた。桂子はそっと外の音に耳を澄ます。
その音は、都にはなかった――
戦乱の国を生きる者たちの、息づかいの音だった。
力強く、荒々しく、だが確かに生きている。その音が、桂子の胸に響いた。ここは都ではない。だがここには、生きる力がある。
志乃と深雪が傍に寄り添う。
「姫さま、お疲れではございませんか」
深雪が小さく囁いた。
「いいえ」
桂子は微笑んだ。
「むしろ、ようやく着いたという安堵がございます」
志乃が頷いた。その目には、主への深い敬意があった。
「姫さまは、強くおなりになられました」
「二人がいてくれたからです」
桂子は二人の手を取った。
「これからも、ずっと一緒にいてください」
深雪の目に涙が浮かんだ。志乃は黙って頷いた。
三人は無言で手を握り合った。長い旅を終え、新しい場所に立っている。その実感が、ようやく湧いてきた。
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六
朝比奈が案内する。
「姫君、こちらへ」
館の奥へと進む。廊下は広く、磨かれた板が光っている。壁には絵が飾られ、花が活けられている。武家の館でありながら、文化的な香りがあった。
やがて、一つの部屋の前で立ち止まった。
「ここが姫君の御所にございます」
襖が開かれると、広い部屋が現れた。
畳が敷かれ、几帳が立てられている。窓からは庭が見え、松の緑が目に鮮やかだった。都の屋敷ほど雅ではないが、清潔で整っている。
桂子は部屋に入り、窓辺に立った。
庭の向こうに、駿府の町が見える。屋根が連なり、煙が上がっている。遠くに山が見え、空が広がっている。
この景色が、これから自分の見る景色なのだ。
桂子は深く息を吸った。
都の香ではなく、駿河の風。それを胸いっぱいに吸い込む。
――わたしは、ここで生きる。
この国を、この人々を、そして氏親を支えていく。それが中御門の血を引く者としての誇りであり、今川の妻としての務めだ。
外で鳥が鳴いた。
春の訪れを告げるような、清らかな声だった。
桂子は微笑み、窓を閉じた。
新しい人生が、今、始まった。
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第七話へ続く
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
本文の連載は note版 にて公開しています。
設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




