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寿桂尼物語 第七章 若き座の試練 第五話 都の影

本作は、石田源志による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

駿府には、都の者の歩き方がある。

足音が違う。 近づく前から分かる。

武の者は畳を踏む。 都の者は、畳の上に重さを落とさない。 落とさないまま、座の中心へ来る。

寿桂尼は、その足音を久しく聞いていなかった。 聞いていなかったが、忘れてはいない。 身体が覚えている。

中御門の庭で聞いた音は、遠くへ来ても消えなかった。

今川へ来て、氏親の座に並んで長い年月が経つうちに、その空気は遠くなった。 遠くなったが、消えてはいない。 消えていないからこそ、今日この足音が聞こえた瞬間に、別の自分が動いた。

政所の自分ではない。 中御門の庭にいた自分だ。

寿桂尼は、その動きを帳面の外へ置いた。 今日ここで必要なのは、中御門の娘ではない。 今川の台所として、都の者をどう迎えるかを考える者だ。

「京より、お着きにございます」

深雪が静かに言った。

     *

来たのは、公家そのものではない。 その前に立つ者。 宿を見、道を見、人の出入りを見て、座る場所を量る者だ。

都の者は、いきなり本体では来ない。 先に影を寄こす。 影で町を量り、場の匂いを見て、それから本体が動く。

氏輝が政所へ入ってきた時には、すでに場の空気が少し変わっていた。 「京か」 短く言う。

使者が通された。 言葉は低い。姿勢は柔らかい。 だが柔らかいまま、こちらの空気を崩さない。

弔意がまず述べられた。 遅すぎぬ弔意。 ちょうどよい時に届く言葉は、それだけで技になる。

氏輝はそれを受けた。 返す言葉が短い。 短いが、急ぎすぎない。

使者は続けた。 「都にては、駿府のこと、近ごろことのほかよく聞こえております」

氏輝は言った。 「何が聞こえている」

真っ直ぐすぎる。 問いとしては悪くない。だが少し早い。

使者はその速さに動じない。 「道にございます」

それだけだった。

寿桂尼は、その一言の置き方を受けた。 氏親が置いたものが、都ではもう「道」として見えている。 よいが、それだけでは足りない。 都の者は、見えるものの先に、住めるかどうかを見る。

「道が聞こえているのでしたら、まだ結構にございます」

寿桂尼が言った。

「都では、道が通る町に人が寄ります。寄った人が留まれれば、縁になります」

使者は、ようやく少し笑った。 そこから先の言葉は、本題だった。 「駿府には、都の方々がしばし留まることはできましょう」

留まる。 住む、ではない。 その差は大きい。

「留まると、住むの違いは何になります」

氏広が短く問うた。

「匂いにございます」

寿桂尼は答えた。

「道が通っていても、座が荒く、言葉が届かなければ、都の者は根を下ろしませぬ。どの寺を宿とするか。誰が最初に会うのか。そこまで含めて形を置いておかねば、町は"使える"に留まります」

一拍置いた。

「"住める"にはなりません」

氏輝は少し考えてから言った。 「なら、まず町を見直すか」

「どこから」と氏広が問う。

寿桂尼は待った。 ここで先に言えば、また氏輝の答えにはならない。

氏輝はしばらく机の上の紙を見た。 それからようやく言った。 「寺だな」

今度は良かった。

「旅の者はまず寺へ寄る。都の者も、最初に落ち着く場所が要る」

「よろしゅうございます」

寿桂尼は頷く。

「ただ、整えるのは道だけではございません。人の顔もにございます。都の方々をお迎えする顔が、毎度違いますと、町の格が定まりませぬ」

氏輝は言った。 「母上が見るほうが早いな」

「今は、でございましょう」

「いずれは殿がご覧になりませぬと」

氏輝はそこで、少しだけ笑った。 「また釘を刺す」

「刺しておきませんと、都の方々は笑ってはくださいません」

使者は、その返しに初めて口元をゆるめた。

     *

夕刻、深雪が寺を見回って戻った。

「留まることはできましょう。ただ、住むには、まだ少し騒がしゅうございます」

それで十分だった。

氏輝に伝えると、短く問う。 「荒いか」

「さようにございます。道は通っております。けれど、都の者が根を下ろすには、もう少し形が要ります」

氏輝は少し長く黙った。 「都の者が来ることは、そんなに大きいか」

「大きゅうございます」

寿桂尼は言った。

「兵は、来ればその日だけでございます。けれど、都の者が住めば、縁が残ります。縁が残れば、言葉が残ります。言葉が残れば、格が残ります」

少し間を置いた。

「格は、兵より長うございます」

氏輝は、ゆっくりと息を吐いた。

「父上は、そこまで見ていたのだな」

「氏親様は、道を結ばれる方にございました。海も、陸も、寺も、都も」

氏輝は苦笑した。 「私はまだ、そこまで一度に見られぬ」

「一度にご覧になる必要はございません。切らずに持っておられれば、それでよろしゅうございます」

氏輝は、しばらく黙っていた。 やがて言う。 「町も整える。寺を決める。座る顔も決める」

少し間を置く。

「都の者が、二度来てもよいと思うようにする」

寿桂尼はそこで初めて、短く頷いた。 「よろしゅうございます」

     *

その夜、寿桂尼は帳面に書いた。

――町を整える。 ――寺を宿とし、顔を定める。 ――都の影を、駿府に留める。

書いてから、筆を置いた。

氏親は、都の縁を政として使った。 格が落ちれば、人が寄る。 人が寄れば、道が太る。 道が太れば、国が持つ。

その連なりを、氏親は言葉にしたことがなかった。 ただ、そうした。

今は、言葉にしながら形にしていく。 氏輝が「二度来てもよいと思うようにする」と言った。 その言葉は、氏親が所作で見せたものと、遠くはない。

遠くはないが、まだ同じではない。 同じになるまで、言葉にしながら渡していく。

それが今の仕事だった。

寿桂尼は帳面を閉じた。 閉じたということは、次が始まるということだ。



本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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