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寿桂尼物語 第七章 若き座の試練 第四話 北のざわめき

本作は、石田源志による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

北から来る紙は、音が違う。

那古野からの紙は、港の匂いがする。 だが北から来る紙は違う。 山の紙だ。 風が乾いている。 人が動く前の、土の匂いがする。

寿桂尼は、その紙を受け取ったとき、まだ開く前から、あまり良い内容ではあるまいと思った。

良い報せほど紙は軽い。 悪い報せは、開く前から少しだけ重い。

寿桂尼は紙を机に置いたまま、すぐには開かなかった。 開けば形になる。 形になれば、場が動く。 動かす前に、ひと息だけ間が要る。

間を置くことで、紙は報せから政になる。

     *

やがて氏輝が入ってきた。

「北か」

紙を見る前に言った。

氏輝は席に着き、紙を取る。 読んでいるあいだ、顔色は変わらなかった。 だが、最後の行にかかったときだけ、目が少し止まった。

「まだ戦ではない。だが、静かではない」

それで十分だった。

甲斐筋で、馬の動きが少し増えている。 人の出入りも、普段より多い。 大軍ではない。 だが、小さな動きほど先に出る。 大きな兵は、いつでもあとから来る。

「試しているのでございましょう」

寿桂尼が言った。

「こちらの目が、どこまで届くかをな」

氏輝は頷く。

葛山氏広が入ってきて、紙を短く読み終えた。 「近いですな」

近いとは、距離のことではない。 迷いのことだ。 向こうが、まだ踏み切ってはいない。 その迷いがこちらに近い、ということだ。

氏輝は言う。 「近いなら、先に押さえるか」

若い。 答えが先に出る。

「殿」

寿桂尼が言う。

「押さえる、というのは兵でございましょうか」

「他に何がある」

「兵で押さえれば、向こうも兵で返しましょう。まだ火になっておりませぬものを、こちらから火にすることはございますまい」

氏広が低く言った。 「では、何で押さえます」

「形でございましょう」

寿桂尼は答える。

「境にいる者が、いつも通りに務めていること。道が止まっておらぬこと。札が通ること。そういう形が先に見えれば、向こうはまだ様子を見るほかございません」

氏輝は、すぐには頷かなかった。 「弱く見えぬか」

「揺れていないことが見えれば、それだけで強く見える場もございます」

氏広が頷いた。 「なるほど」

氏輝は紙をもう一度見た。 「泰能には、まだ動くなと伝えるか」

寿桂尼は少しだけ考えた。

「"まだ"と申しますより」

寿桂尼は言った。

「"崩すな"のほうがよろしゅうございましょう」

氏輝が視線を上げる。 「違うのか」

「まだ動くな、では待つ話になります。崩すな、であれば守る話になります」

氏広が小さく息を吐いた。 「守る話なら、泰能も受けやすい」

氏輝は、しばらく黙っていた。 それから言った。 「なら、北にも南にも、同じ顔を見せるか」

寿桂尼は少しだけ目を細めた。 兵か否か、ではなく、国の見え方で考え始めている。

「那古野も、掛川も、同じように崩さぬ。口を動かし、道を止めず、兵は急に見せない」

寿桂尼はそこで短く頷いた。 「よろしゅうございます」

「殿。今ひとつ要るものがございます」

氏輝は少し考えたあと、言った。 「寺か」

「はい。道の端にいる者は、兵より先に風を知ります。寺が静かなら、道もまだ静かにございます」

氏輝はしばらく黙っていた。 つなげている黙り方だった。

「海、陸、寺。父上は、どこも分けては見ていなかったな」

「分ければ、切れます。結べば、切れにくい」

「那古野も、掛川も、寺も、同じ話か」

「さようにございます。今川の国を、どこで切らせぬかの話にございます」

その一言で、氏輝の目が少しだけ変わった。

     *

人が引いたあと、寿桂尼は帳面に短く落とした。

――北は、火ではない。 ――だが、風は来ている。

書いてから、筆を置いた。

風はまだ火ではない。 だが風を甘く見れば、火は一気に広がる。

氏輝は今日、一つだけ覚えた。 兵が入れば、形が動く。 だが形が動く前に、言葉が動く。 言葉が動く前に、風が来る。

風を聞けるかどうかで、館が館であり続けるかどうかが決まる。

寿桂尼は帳面を閉じた。 閉じたということは、次が始まるということだ。




本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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