寿桂尼物語 第七章 若き座の試練 第二話 若き家督
本作は、石田源志による戦国歴史小説
今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
第二話 若き家督
座は、人を育てる。 育てるが、急には育たない。
この日、朝比奈泰能が駿府へ入った。
寿桂尼は、その報せを受けたとき、ようやく来たかと思った。
泰能が来るということは、東がまだ今川を見ているということだ。 見限っていない。 だが、見限るかどうかを量っている。
その量り方の中に、氏輝が置かれる。
寿桂尼は、評定の間へ入る前に、ひとつだけ帳面に落とした。
――泰能、入る。今日は量られる日。
*
泰能は弔意を短く述べ、すぐに実務へ入った。
「東は、今のところ変わりございませぬ。ただ――」
「ただ?」
「静かすぎますな」
評定の間の空気が、わずかに張った。
寿桂尼は、その張り方を見た。 泰能の言葉が効いたのではない。 氏輝が、すぐに返せなかったからだ。
泰能は続ける。 「いちばん面倒なのは、黙る者にございます。上がどう動くか、どこまで目が届いているか、それを見ようとする者が、今は増えておりましょう」
氏輝はそこで口を開いた。 「なら、見せておけばいい」
若さが出た。 答えは違っていない。 だが言葉が少し真っ直ぐすぎる。
泰能は否定せず、わずかに寿桂尼のほうを見た。 「今は、どちらを見せるべきかと」
寿桂尼は口を開いた。 「今は、兵よりも政にございましょう」
「道が荒れておらず、市が立ち、訴えが滞らず、書付が届く。それだけで"まだ崩れておりませぬ"という形になります」
氏輝は何も言わなかった。 母と泰能のやり取りを、そのまま一度受け止めている。 それだけでも成長だった。
やがて泰能が、一枚の書付を差し出した。 「掛川にて、少し面倒な訴えがございました」
城下に近い村の境をめぐる争いだった。 氏親の死を機に、一方が言い立て始めたものだ。
氏輝が書付から顔を上げた。 「この程度のことで、わざわざ持ってきたのか」
泰能は動じなかった。 「この程度のことだからこそにございます」
「小さな争いは、誰かが"今なら押せる"と思った時に起こります。これは土地の争いに見えて、今川の目がどこまで届くかを試しているのです」
寿桂尼は、ここで口を添えた。 「今は、ひとつの裁きが、そのまま国の顔になります。小さな争いだからと軽く扱えば、軽く見られましょう」
氏輝は書付を見下ろしたまま言った。 「なら、先例どおりに裁くしかないな」
泰能が、そこでわずかに口元を緩めた。 寿桂尼は見逃さなかった。
泰能は今日、氏輝を折るために来たのではない。 折れるかどうかを見に来た。 折れなかったから、口元がわずかに動いた。
*
評定が終わり、人が引いたあと、氏輝は少し不機嫌そうに廊を歩いた。
庭を見渡せる渡りで、ようやく足を止める。 「私の言い方が悪かったか」
「少し」
氏輝は苦笑した。 「やはりか」
「筋は違っておりませんでした。ただ、泰能殿が持ってこられたのは土地の話ではなく、人の心の話でございました」
「分かってはいる」
「ええ。ですから、お答えもまた、国の見え方のほうへお返しになると、なおよろしゅうございました」
しばらくして、氏輝が言う。 「泰能は、私を試したのか」
「少しは」
「今の泰能殿は、どこまで任せられるかを見ておられます」
氏輝はそこで、はっとしたように目を上げた。 「任せられないと見れば?」
「ご自身で動かれるでしょう」
「掛川が、か」
「はい。駿府が揺らげば、掛川は掛川で構えを強くいたします。できることならそうさせぬほうがよろしゅうございましょう」
氏輝は黙った。
今川は一枚岩ではある。 だが、その岩にも継ぎ目はある。
寿桂尼は、その継ぎ目の話を、氏親にしたことがあるかを思い返した。 したことはない。 する必要がなかった。 氏親は、継ぎ目を継ぎ目として見せなかった。
今は違う。 継ぎ目から話す必要がある。 それが今の仕事だった。
「今日の私は、まだ足りなかったな」
「足りぬ、とお思いになられるのは結構にございます」
一拍置く。
「けれど、それを顔にお出しになってはなりません。今後は、足りぬことにお気づきでも、まずは座を崩されませぬよう」
氏輝は苦い顔をした。 「釘を刺すな」
「刺しておきませんと、次で困ります」
少し間を置いて、寿桂尼は言葉を和らげた。 「もっとも、今日の評定で殿が崩れなかったことは、ようございました」
氏輝が寿桂尼を見る。 「褒めているのか」
「珍しいことでございましょうか」
「珍しい」
氏輝は、今度は少し自然に笑った。
*
その夜、寿桂尼は帳面に短く落とした。
――泰能、今日は折れず。次もまた来る。
墨が乾く前に、次を置く。
――氏輝、まだ細い。だが折れてはいない。
氏親の時代なら、この二行は要らなかった。 氏親がいれば、泰能は量る前に黙った。
今は書く。 書いて、次の足場にする。
灯が揺れた。 油が減ってきた。
深雪を呼ぼうとして、やめた。 もう少しだけ、この暗さの中にいたかった。
泣くのは、まだ先でよい。 だが今夜だけは、灯が細くなるまで、ここに座っていてもよかった。
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
本文の連載は note版 にて公開しています。
設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




