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寿桂尼物語 第七章 若き座の試練 第一話 喪の政

本作は、石田源志による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

第一話 喪の政

人が死ぬと、館は広くなる。

広くなったのではない。 埋めていたものが消えた。

氏親がいた座が空く。 空いた座は、ただの場所ではない。 そこから出ていた言葉が、止まった。 短い言葉が。怖い言葉が。 場を切る言葉が。

寿桂尼は、その沈黙の重さを、まず帳面に落とした。

――氏親公、御逝去。

墨が乾く前に、次を置く。

――館、止めるな。

止めるな、と書いたのは、止まりかけているからだ。 止まりかけているものは、書いて押さえる。 書かなければ、流れていく。

     *

飯尾が来たのは、香がまだ館に残っているうちだった。

曳馬の男だ。 境目を預かる者は、喪を喪として受け止める。 だが同時に、喪が外へどう響くかを考える。 両方を一度に持てる者だけが、境目に座れる。

深雪が通す前に、寿桂尼はすでに顔を作っていた。 悲しみを消すのではない。 悲しみを、今日使える形に変えておく。

飯尾は弔意を述べた。 言葉は短い。飾らない。 短い弔意ほど、信用できる。 長い弔意は、言葉の中に別のものを隠す。

氏輝は座にいた。 若い。 隠しようがない。 だが逃げてはいない。 それでよかった。 逃げないだけで、今日は足りる。

飯尾が顔を上げた。 「曳馬、ならびにその先々、今のところ大きな動きはございませぬ。されど――」

少し間を置く。

「御屋形様ご逝去の報せが広がれば、境目の空気は変わりましょう」

氏輝は、すぐに口を開いた。 「曳馬は備えを解くな」

声は若い。 真っ直ぐすぎる。 だが間違っていない。

寿桂尼は、その「真っ直ぐすぎる」を、帳面の端に置いた。 声に出さない。 出せば、氏輝が立たない。

氏輝は続ける。 「ただし、こちらから騒ぐな」

良い。 前半で止まらなかった。

「小さな揉め事も見落とすな。だが、勝手に広げるな」

言い切ったあと、わずかに間が空いた。 間が空くのは、まだ言葉が足りないと感じているからだ。 足りないと感じられるだけ、前より育っている。

寿桂尼は、そこで口を添えた。 「飯尾殿」

飯尾が目を向ける。

「まず道と市を乱さぬよう、お伝えなさいまし」

一拍置いて。

「人の往来が荒れますと、噂のほうが先に広がります」

さらに一拍。

「今は大きな火より、小さな火のほうが厄介にございます」

飯尾が頭を下げる。 「承知仕りました」

寿桂尼は続ける。 「喧嘩も、勝手な仕返しも、お止めなさい」

一拍。

「喪を見て人が浮き足立つ時ほど、筋を違えてはなりません」

座の端で、老臣がほんの少しだけ息を吐いた。 聞こえた。 寿桂尼も聞いた。 聞こえないふりをする。

これまで顔の利く者が情で収めてきたことが、これからは筋で止められる。 面白くない者は出る。 今日はその最初の日だった。

帳面に落とす。

――喪の政、第一日。道と市、乱さぬこと。小さな火を先に見よ。

     *

人払いののち、氏輝は少しだけ肩の力を抜いた。

寿桂尼は、すぐには声をかけなかった。

氏親は、人払いのあとも緩まなかった。 緩む必要がなかった。 場を離れても、場の続きを生きていた。

氏輝は違う。 張った糸を、人の前では切らずに保つ。 それで今日は十分だった。 だが切らずに保つには、どこかで少しだけ緩む時が要る。

その時間を、寿桂尼は奪わない。

やがて氏輝が言った。 「飯尾は悪くない」 「ええ。遠江の空気をよく見ております」 「今日は、これでよかったのか」

問いに迷いが混じる。 それでよかった。 迷わない当主は、成長しない。

「ようございました」

そのうえで、続ける。

「ただ、殿」

氏輝が寿桂尼を見る。

「言葉は、もう半歩だけ柔らかくなさったほうがよろしゅうございます」

氏輝は少し苦く笑う。 「強すぎたか」 「強い、というより、早うございます」

寿桂尼は声を崩さない。

「仰る筋は違っておりませぬ。けれど、飯尾のような者は、持ち帰る言葉の角まで見ております」

氏輝は黙る。 黙り方は悪くない。

「その角が立ちますと、向こうで余計な緊張を招きましょう」

氏輝が言う。 「母上は、いつもそこを見る」 「殿のお言葉が、どう届くかを見ております」

しばらく沈黙があった。

氏輝が言う。 「今日、あの言葉を入れた」 「喧嘩も、勝手な仕返しも許さぬ、と」 「嫌う者がいる」

「おります」

寿桂尼はすぐに答えた。 答えを和らげない。 和らげれば、次で同じことを問われる。

「それでも言うしかないのか」 「はい」

一拍置く。

「今は、お顔を立てて収めるより、筋を違えぬことのほうが大事にございましょう」

氏輝は机の上の書付に目を落とした。 寺からの使僧が一人。 市のもつれが一件。 村同士の用水争いが一件。

氏親が死んだその日から、小さな揉め事が増え始めている。 試されている。 どこまで今川の目が届くかを。 誰の顔で収めるかを。 何の筋で動かすかを。

寿桂尼は、その試し方の細さを、帳面の端に落とした。

――小事、増ゆ。試しの形なり。

墨が乾く前に、次を置く。

――筋で受けよ。顔で収めるな。

氏親なら、この一行を書く必要はなかった。 氏親が場にいれば、試そうとする者は先に怯んだ。 今は違う。 書いて、形にして、押さえていくしかない。

寿桂尼は筆を置かなかった。

「上が弱ったと見れば、人は勝手に動きます」

声は静かだった。

「古い恨みや欲は、そういう時に顔を出すものでございます」

氏輝は書付から目を離さない。 「筋を通せば、不満は出る」 「さようにございます」 「なら、恨まれもする」

そこはまだ若い、と寿桂尼は思う。 不満と恨みをひとつにしている。

「不満は出ましょう」

声をやわらかくする。

「けれど、筋が通っていれば飲み込ませることはできます」

氏輝が顔を上げる。 「恨みは違うのか」 「違います」

きっぱりと言った。

「曖昧に済ませた時のほうが、あとで深く残ります。情で丸く収めたつもりでも、残るものは残ります」

氏輝はそこで、小さく息を吐いた。 「父上も、そうして嫌われたのだろうな」 「ええ。でも、おやめにはなりませんでした」 「やめれば、国が持たないからか」 「さようでございます」

外では風が強くなっていた。 板戸がどこかで小さく鳴る。

氏輝は障子の向こうを見たまま言った。 「なら、駿府だけは止められないな」 「止めるわけにはまいりません」

氏輝はようやく、少しだけ肩の力を抜いた。 「……やるしかないか」 「はい」

少し間を置いてから、一つだけ釘を刺す。 「ただ、お急ぎになりすぎませぬよう」

氏輝がわずかに眉を動かす。 「急いでいるように見えるか」 「少し」

寿桂尼は淡く言った。 「若さにございます」

氏輝は苦笑した。 「それは直せぬな」 「すぐには」

一拍置く。

「けれど、抑えることはできます」

     *

夜が更け、館の灯がひとつずつ落ちていく頃、また報せが上がった。

市での売り場をめぐる小競り合い。 村方の用水争い。 寺の宿所の扱いに関する相談。

どれも評定にかけるほどの大事ではない。 奉行や代官で収められる。

だが寿桂尼には、それが重かった。

氏親が死んでも、喧嘩は死なない。 むしろ喪の時ほど、人は勝手に動く。 上が弱ったと思えば、草の下に潜んでいた恨みや欲が、少しずつ顔を出す。

奉行のひとりが言った。 「こういう時こそ、顔の利く者に間へ入ってもらえば早う済みましょうが」

寿桂尼は書付から目を上げなかった。 「早く済めば、それでよいわけではございません」

一拍置く。

「その場だけ丸く収めましても、同じ火はまたつきます」

さらに一拍。

「今は、誰がどう動いたかを残すことのほうが大事にございます」

男は頭を下げた。

夜半、廊の向こうで低い声がした。 「喪の中にまで書付、書付と……」

寿桂尼は足を止めなかった。 聞こえないふりをした。

聞こえないふりもまた、政だ。

今ここで咎めれば、言葉は消える。 だが思いは沈む。 沈んだものは、のちに別の理屈の顔をして浮かび上がる。 ならば今は、どこにそういう空気が溜まり始めているのかを見るべきだった。

人は法そのものに逆らうのではない。 法によって、これまで利いていた顔が利かなくなることに逆らう。

寿桂尼は、その声の方角を帳面には落とさなかった。 落とせば、相手の名になる。 名を残せば、それだけで後に引く。

代わりに、別の一行を置いた。

――顔で収める者、まだおり。当分続く。見ておけ。

氏親なら、書く必要のない一行だった。 氏親が座にいるだけで、そういう者は先に黙った。

今は書く。 書いて、見て、ゆっくり押さえていく。

それが今の今川の政だった。 それが、寿桂尼が主役になった最初の夜の、帳面の形だった。



本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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