寿桂尼物語 第1章 東への花嫁 第五話 駿府入(すんぷいり)
本作は、石田源志による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
第五話 駿府入
一
雨のあと、空は澄み、山の端がくっきりと見えた。
桂子たちは、ぬかるんだ坂道を下りながら、前方にひろがる光景に息をのんだ。低い屋根が幾重にも重なり、その向こうに海がかすむ。川が町を貫き、橋が架かっている。煙が立ち上り、人の営みが見える。
それが、駿河の都――駿府の町だった。
京とはまるで違う景色だった。瓦の色も、屋根の高さも、道の広さも。だがそこには、確かに人が生き、国が息づいている気配があった。武家の都。今川家の本拠。そしてこれから、自分が生きる場所。
昨日までの旅路が、すべてこの一日のためにあったように思えた。
海を渡り、雨を越え、血を見て、泥にまみれ、いまようやく「着く」場所が見えている。桂子は馬上で深く息を吸った。胸が高鳴り、同時に静かな覚悟が満ちていく。
深雪が小さく声をかけた。
「姫さま……美しい町でございますね」
「ええ」
桂子は頷いた。
「ここが、わたくしたちの新しい都です」
二
やがて、行列の先に槍の穂が光った。
太鼓の音が山にこだまし、旗の影が動く。風にはためく旗には、今川家の紋が描かれている。それを見た瞬間、桂子の背筋が自然と伸びた。
志乃が馬首を上げて告げた。
「迎えの兵でございます」
列を組んで現れたのは、鎧をまとった五百余の武士たちだった。
その統制は見事で、一糸乱れぬ動きをしている。槍の穂が陽光を弾き、馬の足音が地を打つ。その威容は、今川家の力を如実に示していた。
その中央に、一人の白鬚の男がいた。
黒漆の鎧をまとい、馬上で静かに一礼する。その顔には深い皺が刻まれ、幾多の戦場を生き抜いた者の風格があった。だが目は穏やかで、威圧するような冷たさはない。
「今川家宿老、朝比奈泰熈にございます。我が主、今川氏親公のご命により、姫君をお迎えに上がりました」
声は低く、よく通った。桂子は馬上から、深く頭を下げた。
"今川氏親"――
その名は、都でも聞いた。駿河と遠江を治める守護大名。武威に優れ、文化を愛し、都との繋がりを重んじる人物だと。けれど、今この声で呼ばれたそれは、ただの名前ではなかった。
遠い婚儀の約束が、現の形をもって胸に迫る。
この先の門の奥に、その人がいる。まだ見ぬ夫。自分の人生を共にする男。桂子は唇を噛み、鼓動を抑えた。
三
朝比奈は馬を下り、行列に歩み寄った。
その動きには威圧も高慢もない。まるで風が流れるように自然だった。近くで見ると、その目には深い優しさがあった。桂子は、この老将が主君を深く敬愛していることを感じ取った。
「姫君の輿をご用意しております」
その一言で、すぐに従者たちが動いた。
立派な輿が運ばれてくる。黒漆に金の装飾が施され、幔幕は深紅に染められている。都の輿とは違う、武家の格式が感じられた。
桂子は馬から降り、輿に乗り換えた。
深雪が裾を整え、志乃が外側に立つ。二人の顔には緊張があったが、同時に達成感もあった。長い旅を終え、ついに目的地に着いたのだ。
太鼓が鳴り、行列は再び進みだした。
今度は今川家の兵が先導し、中御門家の従者がそれに続く。京と駿河の行列が一つになり、壮麗な隊列を作っている。
四
町の入り口には、人の波ができていた。
男たちは道端に膝をつき、女たちは簾の陰から顔をのぞかせる。子どもたちが花を持って走り出し、役人に叱られて戻る。香の煙が漂い、どこからか笛の音が聞こえた。
町全体が、この輿入れを祝っているようだった。
桂子は輿の簾を少し上げた。
幾百もの目が、自分を見ている。その視線の重さに、喉がかすかに鳴った。都では、誰かの影に隠れて生きてきた。父の娘として、中御門の姫として、ただ静かに暮らしてきた。
けれど今、誰もが自分を見上げている。
期待の目、好奇の目、祝福の目。様々な視線が交錯する中で、桂子は自分の立場を理解した。
――これが「妻」となるということなのか。
一人の女として生きるのではなく、今川の妻として、この国の人々と共に生きる。その重さが、ずしりと肩に乗った。
「志乃」
小さく呼ぶと、志乃は静かに頷いた。
彼女の顔には緊張も誇りもあった。自分が仕える姫が、これほど多くの人々に迎えられている。その事実が、志乃にとっても誇らしいのだ。
深雪は少し涙ぐみながら、後ろを歩いていた。
その涙は悲しみではなく、感動だった。都を離れ、血を見、泥にまみれた旅の果てに、こうして祝福されている。それが深雪には、奇跡のように思えた。
五
駿府の町は、思っていたより広く、活気に満ちていた。
店の軒には塩、布、茶、陶器が並び、行商人の声が遠くで響く。鍛冶屋の音、機織りの音、子どもの笑い声。町は生きていた。
都とは違う生命力。それは洗練されていないかもしれないが、力強く、温かかった。
桂子は簾を閉じ、胸の内でつぶやいた。
――この地で、わたしは生きていく。
この人々と共に、この国を支えていく。それが今川の妻としての務めであり、中御門の血を引く者としての誇りでもある。
行列が止まった。
正面には朱塗りの門がそびえていた。その前で、朝比奈泰熈が再び膝を折り、深く礼をした。
「ここよりは、今川の御門にございます」
その声には、重みがあった。この門の向こうが、桂子の新しい人生の始まりだという意味が込められていた。
六
桂子は輿から降り、足もとを確かめながら一歩を踏み出した。
紅の幔幕が風に揺れ、白い砂が光る。門の両脇には松が植えられ、その緑が目に鮮やかだった。空は青く澄み渡り、雲一つない。
その光の中で、桂子は目を閉じ、ゆっくりと息を吸った。
都を出てから、幾度の空を見ただろう。京の空、近江の空、鈴鹿の空、伊勢の空、遠江の空、そして駿河の空。そのすべてが、この門へと続いていた。
父の顔が浮かんだ。母の手の温もりが蘇った。都の屋敷の廊下、庭の梅、笙の音。すべてが遠くなった。だがそれは失われたのではなく、心の奥に刻まれた。
桂子はもう一度、深く一礼した。
志乃と深雪が、その両脇に立つ。三人は顔を見合わせ、小さく頭き合った。言葉はいらなかった。長い旅を共にした三人には、すでに深い絆があった。
そして、静かに門をくぐった。
第六話へ続く
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
本文の連載は note版 にて公開しています。
設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




