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寿桂尼物語 第五章結び目を置く 外伝 第八話 岡の口

本作は、石田源志による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

一 

浜名の風は、海の匂いと草の匂いを混ぜて運ぶ。

泰能はその匂いを、港の匂いだと思った。

港の匂いは、銭の匂いではない。

――人の気配の匂いだ。

宇津山の石を見に行く。

そう命じられている。

だが泰能は、石の出来不出来を見に来たのではなかった。

「門」の目の置き所と、報の通し所を決める。

そしてもう一つ――口だ。

岡。

入江の奥に、舟が寄る。

浅い水でも動ける小舟が寄る。

陸路が詰まるとき、こういう口が息を継ぐ。

息を継げる口がある国は、刃を急がずに済む。

泰能の後ろに、泰長がいる。

若い。

だが目が落ち着いている。

泰能は、時茂の目を思い出す。

構を先に置く目だ。

二 

「ここが口か」

泰長が小さく言った。

問いではない。

確認でもない。

「形に見える」ときの声だった。

入江の先に、社がある。

鳥居は古く、木は太い。

この社が、口の蓋になっている。

「踏めば、こじれる」

泰能は言った。

「だが避ければ、塞がれる。――踏まずに通す順が要る」

社前には、人がいた。

町の者のようで、町の者ではない。

武の匂いを隠し、隠しきれていない歩き方。

迎えは深く名乗らなかった。

名を立てれば、面子が燃える土地だ。

ここでは役目が先に立つ。

「八幡の宮司がお待ちだ」

「舟のことは舟手が」

「社前の締めは年寄が見ている」

弓を張る音が、境内の奥から聞こえた。

弦が鳴る音は、狩りの音ではない。

「見せる武」の音だ。

三 

社前に通されると、境内は広かった。

広いということは、集まれるということだ。

集まれるということは、組めるということだ。

八幡の宮司が現れ、丁寧に頭を下げた。

だが目は丁寧ではない。

目は距離を測っている。

この距離の測り方は、武家のそれに近い。

泰能は先に言った。

こちらの立場を大きく言えば、相手の面子が燃える。

燃えた面子は、口を塞ぐ。

「城を奪いに来たのではない」

「社を動かしに来たのでもない」

「口を、詰まらせない順を置きたい」

宮司は黙った。

黙るのは拒みではない。

値を測る沈黙だ。

そこで泰能は、わざと「祭り」を先に出した。

祭りは面子を守る。

面子が守られれば、話が通る。

四 

「流鏑馬があると聞く」

泰能の言葉に、周囲の空気が一度だけ変わった。

誇りが触れられたときの変化だ。

泰長が、目を上げた。

若い者は、誇りに反応する。

だが泰長は声を出さない。

その沈黙が、構の匂いだった。

宮司が言う。

「はい。この地では武の神として、命を守る神としても信仰が深うございます」

泰能は頷いた。

勝つための武を語れば、交渉は戦になる。

守るための武を語れば、交渉は順になる。

「ならば、踏まぬ」

泰能は言った。

「社の務めを壊さぬ」

「だが、口を塞がれるのも困る。舟が寄れぬ口は、国の息を止める」

ここで泰能は、札の話を出す。

「取る札」ではない。

「通す札」だ。

五 

「通す札を置く」

泰能は言った。

「舟が寄る日と、寄せぬ日を先に決める」

「祭りの日は、寄せぬ」

「寄せる日は、社前の順に従う」

「従った舟は、止めない」

宮司が目を細めた。

「止めない」という言葉が効いたのだ。

止められる側は、止めないと約束されるだけで呼吸が戻る。

年寄が低く言う。

「従う舟ばかりではありますまい」

「勝手が出れば、社前が荒れます」

泰能は短く答える。

「勝手は出る」

「だから最初から勝手を前提にして形を置く」

「形があれば、勝手は国を壊さずに済む」

年寄の目が、わずかに動いた。

動いたのは驚きではない。

納得だ。

六 

境内の端に、馬場があった。

祭りのために整えられた道は、いざというとき、そのまま兵の道になる。

若者が馬を引き、弓を持った男が跨る。

矢が放たれ、的が鳴る。

拍手が起きる。

拍手は祝いだが、同時に「見せる合図」でもある。

泰長が泰能の横で言った。

「小さいが……強いな」

泰能は答えなかった。

答えの代わりに、境内の外――入江を見る。

舟が寄る場所は、いつも争いの芽を持つ。

芽は小さい。

だが放っておけば、国の息を止める。

泰能はここで、泰長にだけ言った。

教えるのではない。

見せる。

七 

「城は石で出来る」

泰能は言った。

「だが口は、人の誇りで閉まる」

「誇りを折らずに通すのが、構えだ」

泰長は頷き、何も言わずに袖の内で覚えるような仕草をした。

書かない。

だが覚える。

それが後に城主になる者の癖だと、泰能は思った。

帰り道、泰能は巻紙を取り出し、駿府へ送る文を整えた。

掛川へ渡す分と、駿府へ直に届く分。

二通。

門の国には、息の道が二つ要る。

泰能は書く。

「岡、社前の筋、通しの札にて調整可」

「祭礼(流鏑馬)あり。八幡の宮司の面子を立てれば口は開く」

「入江は物流の口となる。有事には口の封鎖が起こり得るため、順を先に置くべし」

「宇津山は門の耳。岡は門の口。耳と口を同じ型で結ぶ」

そして余白に、小さく添えた。

誰に見せるでもない字だ。

「泰長に見せる。構は継がせるべきものなり」

八 

巻紙を結び、泰能は空を見上げた。

風は高い。

だが風が高いほど、門構えは要る。

泰長が馬を引きながら小声で言った。

「泰能様。門は……外を止めるためだけではないのですね」

泰能は答えなかった。

答えの代わりに、入江を一度だけ振り返った。

口は静かだった。

静かだが、確かに息をしている。

石を積む前に、順を積む。

順を積む前に、誇りを折らない。

それがこの国の門構えだ。

泰長は、その背中を見ていた。

見ていたが、何も言わない。

言葉にしなくても、伝わる。

伝わったものは、消えない。

消えないまま、構として残る。

九 

浜名の風が、また吹いた。

風は海の匂いを運ぶ。

運ばれた匂いは、入江に届く。

入江に届いた匂いは、舟を呼ぶ。

舟が来れば、口が開く。

口が開けば、国が息をする。

泰能は、その順を頭の中で整えた。

整えたまま、馬を進める。

泰長が後ろを歩く。

歩きながら、時々振り返る。

振り返るのは、何かを確認しているからだ。

確認しているのは、道ではない。

構だ。

構が見えたとき、若者は育つ。

泰能は、それを知っていた。

知っているから、言葉を減らす。

減らした言葉の分だけ、泰長が自分で考える。

考えた分だけ、構が身につく。

十 

駿府に戻ると、泰能は政所へ向かった。

向かったが、すぐには入らない。

入る前に、息を整える。

整えた息で、報告を短くする。

短い報告は、現場が荒れていない証だ。

泰能は襖を開けた。

桂子が座していた。

帳面を開いている。

泰能は膝をつき、短く言った。

「岡の口、通す札にて調整できます」

桂子は顔を上げない。

顔を上げないが、筆が止まる。

止まったのは、言葉を正確に受け取るためだ。

「祭礼は」

「流鏑馬にございます。八幡の宮司の面子を立てれば、口は開きます」

桂子は頷いた。

「社前を踏まず、口を塞がれず」

「はい」

泰能は短く答える。

桂子は帳面に一行書いた。

――岡、通す札。祭礼(流鏑馬)を尊重。社前の面子を立てる。

書き終えてから、桂子は顔を上げた。

「泰長殿は」

泰能は答えた。

「構を見せました」

桂子の目が、わずかに動く。

「見せた、ですか」

「はい。教えるのではなく、見せました」

桂子は、その言葉を受け止めた。

受け止めてから、小さく頷く。

「それでよろしゅうございます」

泰能は、深く頭を下げた。

頭を下げたまま、言う。

「宇津山は、門の耳になります」

「岡は、門の口になります」

「耳と口を結べば、国は言葉を失いません」

桂子は筆を置いた。

「ありがとうございます」

その言葉は短かった。

短いが、重い。

重さは感謝の重さだ。

泰能は、その重さを受け取った。

受け取ったまま、政所を出た。

十一 

廊下で、泰長が待っていた。

待っていたが、声をかけない。

声をかけないのは、言葉が要らないからだ。

泰能は、泰長の横を通り過ぎた。

通り過ぎながら、一言だけ言った。

「おまえは、よく見ていた」

泰長は、深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

泰能は立ち止まらない。

立ち止まれば、言葉が増える。

言葉が増えれば、構が薄れる。

泰能は歩き続けた。

歩きながら、思う。

構は、教えるものではない。

見せるものだ。

見せたものは、消えない。

消えないまま、次の代へ渡る。

渡った構は、国を保つ。

泰能は、それを信じていた。

十二 門の国

その夜、泰長は一人、部屋にいた。

窓の外を見る。

月が出ている。

月の光が、庭を照らす。

泰長は、今日のことを思い返した。

岡の入江。

八幡の社。

流鏑馬。

そして、泰能の言葉。

「城は石で出来る」

「だが口は、人の誇りで閉まる」

「誇りを折らずに通すのが、構えだ」

泰長は、その言葉を何度も反芻した。

反芻するたび、言葉が深くなる。

深くなった言葉は、胸に刻まれる。

刻まれた言葉は、消えない。

泰長は立ち上がった。

立ち上がったまま、月を見る。

月は静かだ。

静かだが、確かに光っている。

光は、誰かを照らす。

照らされた者は、道を見つける。

泰長は、その道を見つけた気がした。

気がしただけかもしれない。

だが、その気がしたことが大切だった。

泰長は、深く息を吸った。

吸った息を、ゆっくりと吐く。

吐いた息が、部屋に広がる。

広がった息は、やがて消える。

消えても、呼吸は続く。

国も、同じだ。

門が立ち、口が開き、耳が聞く。

そうして、国は息を続ける。

泰長は、その息を感じた。

感じたまま、目を閉じた。

明日からまた、学びが続く。

構を学ぶ日々が。

だが、学ぶことは苦ではない。

学ぶことは、国を保つことだ。

泰長は、それを信じた。


(外伝 第八話 了)



本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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