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寿桂尼物語 第1章 東への花嫁 第四話 陸の道(くがのみち)

本作は、石田源志による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

第四話 陸のくがのみち

________________________________________

 湊の夜は、潮と煙の匂いが混じっていた。

 桂子は借りた宿の奥で、寝具の上に身を横たえても、なかなか眠れなかった。船の揺れがまだ体に残っている。目を閉じれば波の音が蘇り、床が揺れているような錯覚に襲われた。

 壁の向こうから、波が岩に砕ける音が聞こえた。

 規則的でありながら、どこか不穏な響き。都では聞いたことのない音だった。京の夜は静かで、聞こえるのは虫の音か、遠くの鐘の音だけだった。だがここでは、自然そのものが声を上げている。

 志乃は外で見張りに立ち、深雪は灯の傍で小さく経を唱えている。

 その声は震えていた。旅の緊張が続いていた。京を発ってから、いくつもの夜を越えたが、この浜の夜ほど「遠くに来た」と感じたことはなかった。

 桂子は寝返りを打ち、薄い壁を見つめた。

 木の節が影を作り、灯火に揺れている。その影を見ていると、父の顔が浮かんだ。几帳の奥に座し、静かに娘を見送った父。あの時の顔には、何が込められていたのだろう。

 ――血の品格。

 その言葉の意味が、ようやく形を持ち始めている。それは美しさや優雅さだけではない。泥にまみれても、血を見ても、波に揺られても、自分を見失わないこと。中御門の娘として、誇りを保ち続けること。

 桂子は目を閉じ、深く息を吸った。

 明日からは、また陸路だ。最後の山を越えれば、駿河に入る。

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 翌朝、空は重く曇り、風が湿っていた。

 出立の支度を終えるころ、ぽつぽつと雨が落ちはじめた。桂子は輿を捨て、馬に乗る。婦人鞍の下で馬の体温が伝わってくるのが、妙に頼もしかった。

 生き物の温もり。それは都の輿にはなかったものだった。馬は首を振り、軽くいななく。桂子はその首筋を撫で、静かに言葉をかけた。

「よろしくね。もう少しだけ、わたくしを運んでください。」

 馬は耳を動かし、まるで答えるように小さく鼻を鳴らした。

「今日の道はぬかるみましょう」

 志乃が言う。

「山をひとつ越えれば、駿河の領に入ります」

 その声には、わずかな安堵があった。長い旅がようやく終わりに近づいている。だがその前に、最後の試練が待っている。

 行列はゆっくりと、ぬかるむ山道を登った。

 雨は次第に強くなり、木々の葉を打つ音が響く。道は泥濘となり、馬の足が沈む。深雪の裾は泥で重くなり、歩みが遅れた。

 兵部少輔が先頭を行き、時折振り返って列の様子を確認する。護衛の兵たちは黙々と歩き、その顔には疲労の色が濃い。だが誰も弱音を吐かない。今川家の使者として、最後まで務めを果たすという誇りがあった。

________________________________________

 やがて、小さな沢を渡るとき、深雪が足を滑らせて倒れた。

 水が跳ね、裳裾が泥に沈む。文箱が地面に落ち、深雪は悲鳴を上げた。

 志乃がすぐに腕を取ったが、その手つきは厳しかった。

「油断なさいませ。ここでは一歩が命を分けます」

 深雪は唇を噛み、涙をこらえた。

 泥にまみれた姿は、もう都の侍女ではなかった。裳は破れ、髪は乱れ、顔には泥がついている。だがその目には、諦めではなく、悔しさがあった。

「申し訳ございません……」

「謝る必要はありません」

 桂子は馬上からその光景を見下ろし、静かに言った。

「立てますか、深雪。」

「はい……姫さま」

 深雪は志乃の手を借りて立ち上がった。文箱を拾い、泥を拭う。その手が震えている。

 桂子は胸の奥が痛んだ。

 ――都でなら、この二人は出会うこともなかった。

 ひとりは剣を握り、ひとりは筆を握る。育ちも役目も違う二人が、同じ泥の中で支え合っている。それは都の秩序では考えられない光景だった。だが今、三人は同じ道を歩んでいる。

「深雪」

 桂子は馬を近づけた。

「あなたが一緒にいてくれて、わたくしは心強い。泥にまみれても、あなたはわたくしの大切な人です。」

 深雪の目に涙が浮かんだ。だが今度は、悲しみではなく、感謝の涙だった。

「姫さま……」

「さあ、参りましょう。もう少しです。」

________________________________________

 山を越えるころ、雨はようやく止んだ。

 雲の切れ間から光が射し、濡れた木の葉が輝いていた。水滴がきらきらと光り、まるで宝石のように見える。桂子は馬を止め、後ろを振り返った。

 遠く、海が見えた。

 さきほどまで船で渡った水の色が、かすかにきらめいている。あの海を越えて、ここまで来た。都からどれほど遠くに来たのだろう。距離だけではない。心の距離も、確実に遠ざかっている。

「姫さま」

 志乃が声をかけた。

「駿河の山が見えます」

 桂子は前を向いた。

 霧の向こうに、緑の山々が連なっている。その奥に、駿府がある。今川氏親が待つ城がある。まだ見ぬ夫、まだ知らぬ国、まだ始まらぬ人生。

 桂子は頷いた。

 風が変わり、草の匂いが濃くなった。雨上がりの土の匂い、木々の匂い、そして遠くから漂う花の香。駿河の風は、遠江や伊勢とも違う、独特の温かさがあった。

 深雪はまだ裳裾を絞っていたが、もう泣いてはいなかった。

 その横顔には、諦めではなく、前を向く決意があった。志乃もまた、深雪を見守るような優しい目をしている。二人の間に、言葉にならない絆が生まれていた。

 雨のあとには、道が残る。

 それがどんな泥であっても、踏まねば先へは行けぬ。桂子は心の中でそう呟いた。

 父の言葉が、ようやく腑に落ちる。

 血の品格とは、困難に折れないこと。汚れを恐れず、前に進むこと。そして、共に歩む者を大切にすること。それが中御門の娘として、今川の妻として、持つべき誇りなのだ。

________________________________________

 桂子は馬の腹を軽く蹴った。

 駿河の空の下へ向かい、行列は再び歩みを進めた。

 道は下り坂になり、木々の間から平野が見え始める。田畑が広がり、村の屋根が点在している。煙が上がり、人の営みが感じられる。

 兵部少輔が馬を寄せた。

「姫さま、まもなく駿河の領に入ります。この先、安倍川を渡れば駿府はすぐにございます。」

「分かりました。」

 桂子は静かに答えた。

 胸の高鳴りを抑え、背筋を伸ばす。もう桂子ではない。これから先は、今川の妻だ。

 志乃と深雪が、桂子の両脇に並んだ。

 三人は無言で前を見つめる。長い旅を共にした三人の姿は、もう都を出た時とは違っていた。泥にまみれ、疲れ果て、だが確かに強くなっている。

 やがて、道標が見えた。

 「駿河国 駿府まで三里」

 桂子はその文字を見つめ、深く息を吸った。

 もう戻ることはできない。だが戻る必要もない。新しい人生が、この先に待っている。

「参りましょう」

 桂子の声は、凛として響いた。

 行列は駿河の道を進む。雨上がりの空に、薄く虹が架かっていた。

________________________________________

第五話へ続く


本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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