寿桂尼物語 第五章 結び目を置く 第六話 帳面を太くする
本作は、石田源志による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
一
帳面は、朝の光を吸って白く光っていた。
白砂の庭よりも、こちらの白のほうが重い。
庭の白は踏めば崩れるが、紙の白は、崩せば黒く残る。
桂子は、筆を置いたまま帳面を見ていた。
那古野――その二文字が、帳面の中央で沈んでいる。
遠国。
それだけで、金は軽くなる。
距離は、銭の重さを削ぐ。
氏親は、帳面を見ていない。
だが、この場で最も正確に数字を受け取っているのは、この男だ。
氏親は、数字を記憶しない。
流れとして受け取る。
葛山氏広が、短く口を開いた。
声は、当主にのみ向けられる。
「普請は、軽くはありませぬ」
高いとは言わない。
無理だとも言わない。
「軽くない」――それが、政所で許される限界の言葉だった。
朝比奈泰能が続ける。
「那古野は駿府の外」
「金の道は、細くなります」
氏親は頷かない。
否定もしない。
聞くだけだ。
桂子は、帳面の余白を見る。
削る話ではない。
太らせる話だ。
二
沈黙が落ちる。
数字が、数字のまま息を詰める時間。
この沈黙が長引けば、誰かが「削る」と言い出す。
それを言わせないための、次の一手が要る。
桂子は、氏親を見た。
氏親は息を一つ整えた。
整える時間が、以前より長い。
長いが、まだ声は出る。
「金をつくる」
短い。
相談ではない。
誰も顔を上げない。
問いは、用意されていない。
「寺と商を呼べ」
それだけで、帳面の位相が変わった。
削減ではない。
調達だ。
桂子は、ここで初めて筆を動かす。
呼ぶ先を書く。
寺社。
商家。
名は書かない。
名を書けば、条件が先に立つ。
いま要るのは、金の名ではなく、流れだ。
三
やがて政所に、人が入る。
僧衣と町着。
どちらも、当主を見る。
氏親は前置きをしない。
「那古野に城を置く」
理由は語らない。
語れば、値が上がる。
城を置く理由など、この場の誰もが分かっている。
「金を借りる」
恵みではない。
取引だ。
桂子は、帳面を開いたまま当主の横に立つ。
返す形は、すでに整っている。
氏親が言う。
「返しは、港からだ」
商人の目が、一度だけ動く。
港――それは、銭に変わる言葉だ。
「水揚げ」
「関銭」
「道が太れば、返しは細らぬ」
沈黙が落ちる。
商人は、すぐには頷かない。
頷けば、足元を見られる。
僧もまた、黙る。
黙ることで、値を測っている。
四
僧が、静かに問う。
「担保は」
氏親は、間を置かず答えた。
「阿部だ」
その名が出た瞬間、空気が変わった。
説明は要らない。
阿部金山。
金そのものではない。
底だ。
氏親は、ここで初めて一歩だけ踏み込む。
「阿部の金は、掘り尽くされぬ」
「掘る手があれば、だ。掘る手を絶やせば、底は底のまま眠る」
「国が痩せても、底は残る」
それ以上は言わない。
言い過ぎれば、値が上がる。
桂子は、その瞬間に線を引く。
年限。
割合。
港ごとの返済配分。
帳面の数字が、流れに変わる。
商人は、帳面を見る。
僧は、帳面を見ない。
どちらも、同じものを見ている。
返るか、返らぬか。
五
氏親は続ける。
「普請は、那古野今川に任せる」
駿府が握らない。
それが、遠国に金を出す条件だ。
「土地のことは、土地の者が知っている」
「人の癖も、道の癖もだ」
駿府のやり方を押し付けない。
それは、信頼ではない。
摩耗だ。
商人の一人が、初めて小さく息を吐いた。
僧が、ゆっくりと目を閉じる。
沈黙が、重さを失う。
桂子は、ここで初めて口を開く。
当主にのみ。
「帳面は、太くなります」
結論ではない。
形だ。
氏親が短く言う。
「よい」
それで終わる。
納得も、不満も、書かれない。
帳面は閉じられる。
那古野の空白は、もはや空白ではない。
金は動く。
国も、動く。
桂子は筆を置き、静かに息を整えた。
息を整えながら、思う。
これは戦の話ではない。
国を延ばす話だ。
延ばすために、金を借りる。
借りた金は、返す。
返すために、港を整える。
港が整えば、道が太る。
道が太れば、国が保たれる。
六
政所を出ると、桂子は廊下で立ち止まった。
立ち止まったまま、庭を見る。
白砂が、午後の光を返している。
美しい。
だが、その美しさの下に、重さがある。
重さは、金の重さだ。
借りた金は、いつか返さねばならない。
返せなければ、国が詰まる。
詰まれば、港が止まる。
港が止まれば、道が細る。
桂子は、その順を頭の中で確認した。
確認したまま、深く息を吐く。
深雪が、静かに近づいた。
「御台様……」
桂子は答えなかった。
答えられない。
答えれば、不安が形になる。
深雪は、何も言わずに桂子の隣に立った。
二人は、しばらく庭を見ていた。
風が吹く。
砂が、わずかに動く。
動いた砂は、すぐに整えられる。
桂子は、その白を見つめた。
見つめながら、思う。
氏親は、殿が倒れた後のことを考えている。
考えているから、金を動かす。
金が動けば、国が保たれる。
保たれた国は、氏親がいなくても回る。
桂子は、その意味を理解した。
理解したが、胸の奥に何かが引っかかる。
引っかかるのは、不安ではない。
――寂しさだ。
七
桂子は帳面を閉じた。
閉じたということは、次が始まるということだ。
金は動き始める。
那古野の普請も始まる。
だが、その先に何があるのか。
桂子には、まだ見えなかった。
見えないまま、桂子は部屋に戻った。
部屋に戻ると、帳面を開く。
今日書いた文字が、紙に並んでいる。
寺社。
商家。
阿部。
港。
すべて、金の流れを示す言葉だ。
桂子は、その最後に一行だけ加えた。
――金は動く。殿亡き後も、国が回るように。
墨が乾くのを待たずに、桂子は帳面を閉じた。
閉じたが、胸の奥に何かが残る。
残るものは、不安ではない。
予感だ。
氏親の時間が、残り少ないという予感。
桂子は、その予感を押し込んだ。
押し込んだまま、立ち上がる。
(場面転換)
八
駿府に戻った紙は、薄かった。
紙が薄いとき、現場は荒れていない。
荒れていれば、紙は重くなる。
言い訳が増え、行が増える。
桂子は、硯に水を落とさなかった。
先に音を置く必要がないと判断したからだ。
差し出された書状の端に、名があった。
――三浦忠正。
三浦の庶流。
軍功で前に出る家ではない。
目附として数を見、言葉を削る役目を担う男。
氏親が、紙を取った。
読む前に、折り目を一度伸ばす。
癖ではない。
癖に見せた確認だ。
「忠正か」
名を呼ぶだけで、誰も口を挟まない。
その名は、現場を騒がせぬために送った名だった。
九
氏親は、淡々と読み上げた。
「――那古野普請、基礎石据えまで順調」
声に感情はない。
感情が混じるのは、問題が起きたときだ。
「材は尾張側より調達」
「駿府よりの口出しは控えられている」
桂子は、その一文に目を伏せた。
「控えられている」という書き方は、忠正らしい。
従っているとも、反発していないとも書かない。
ただ、余計な摩擦がないことだけを示す。
氏親が続ける。
「普請人足、港筋よりの手配あり」
「支払いは即金を避け、港水揚げ分より充当」
そこで、初めて場の空気が動いた。
商人と寺社から引き出した金が、約束どおり動いている。
朝比奈が、短く息を吐いた。
「……回っているな」
葛山は、まだ黙っている。
黙っているときの葛山は、疑っているときだ。
十
氏親は、最後の行を読んだ。
「――斯波方、異議なし」
「ただし、港利について注視あり」
それだけだった。
誰も、斯波の名を口にしない。
遠州を争った名だ。
だが今、この場で刃を思い出す者はいない。
桂子は、そこで初めて顔を上げた。
誰も見ていない。
御台を見る必要がない段階だからだ。
氏親が、紙を畳んだ。
「争う気は、ない」
それだけ言った。
誰に向けた言葉でもない。
判断を空気に置いただけだ。
葛山が、短く言う。
「油断は出来ませぬ」
当主にだけ向けた声。
桂子には向けない。
それが、この国の型だ。
氏親は頷いた。
「油断はするな」
「だが、縛るな」
桂子は、その二語を帳面の端に置いた。
結論ではない。
形だ。
十一
朝比奈が続ける。
「利を絡めれば、静かに保てます」
「港を通す限り、敵意は立たぬ」
氏親は否定しない。
否定しないかわりに、言葉を削る。
「利は、道具だ」
道具、と言った。
味方とも敵とも言わない。
それで十分だった。
桂子は、忠正の報告書をもう一度見た。
現場の混乱は書いていない。
事故も、揉め事も、書けたはずだ。
書かなかった。
書かなくて済む形を、先に置いたからだ。
桂子は思う。
この普請は、城を建てる話ではない。
返せる金を作る話だ。
港が動き、銭が戻り、その銭でまた、国が呼吸する。
十二
氏親が、立った。
「予算は、ここまでだ」
誰も反論しない。
反論が出る形では、そもそも呼ばれていない。
「普請は、那古野に任せる」
「口は出すな」
「帳面だけは、駿府に戻せ」
桂子は、その言葉をそのまま書いた。
整えもしない。
補いもしない。
当主の言葉は、削らない。
氏親は、最後に一言だけ付けた。
「金は、逃がすな」
「刃も、逃がすな」
それで終わりだった。
誰も立たない。
誰も御台を見ない。
桂子は、帳面を閉じた。
帳面が閉じられたということは、この話が次へ進んだということだ。
那古野の城は、まだ形になっていない。
だが、金はすでに動いている。
利も、視線も、港を通って行き来している。
桂子は思う。
――城は、遅れてもよい。
――道が先に通れば、国は折れない。
その一行は、帳面には書かない。
書かないからこそ、次が生きる。
(第六話 了)
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
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本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




