寿桂尼物語 第五章 結び目を置く 第五話 預ける窓
本作は、石田源志による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
一
駿府の庭は白かった。
雪ではない。
砂を入れ替えたばかりの白だ。
白は隠さない。
踏めば足跡が残る。
座れば衣の影が伸びる。
決めたことは、必ず形になる。
政所の端に、数枚の紙が伏せられていた。
寺領の名。
山の名。
街道の名。
港や銭とは違う。
数では測れないが、放っておけば必ず詰まる紙だ。
桂子は帳面を開いた。
硯に水を落とす音を、あえて立てる。
深雪が黙って墨を磨る。
言葉より先に、部屋の温度を整える。
氏親は座していた。
紙を見ていない。
庭の白を見ている。
決裁の前の目だ。
「桂子」
短い呼び方だった。
「芳菊丸を、寺へ預ける」
空気が止まる。
反対ではない。
"そこへ打つか"という間だ。
桂子は帳面の端を押さえた。
指に力が入る。
子が熱を出した夜、布団を押さえた癖と同じだった。
母の感覚が、政に割り込もうとする。
桂子は息を一つ落とし、それを胸の奥へ押し戻す。
二
「……預け先は」
桂子の喉が一拍遅れた。
「臨済で、よろしゅうございますか」
氏親はすぐには答えない。
庭の白に視線を戻す。
その一瞬で、桂子は悟る。
――決まっている。
氏親は頷いた。
葛山氏広が一歩出る。
「殿。芳菊丸は――」
氏親は視線だけで止めた。
ここで家督の話を始めれば、政所は軍議になる。
桂子が言う。
「氏輝様が継がれることは、揺るぎません」
言い切る。
言い切らなければ、噂が走る。
「ですが国は、一つの手では回りません」
桂子は目を上げた。
「回す手、結ぶ手が要ります」
「そのために、窓を増やします」
氏広の眉がわずかに動く。
三
桂子は続けた。
「兄上お二方は、すでに寺におられます」
深雪の手が、一瞬だけ止まる。
「ひとりは律宗の寺」
「ひとりは曹洞宗――花倉の寺」
桂子は、そこで言葉を切った。
教義は出さない。
意味も添えない。
ただ一行。
「同じ道に置かぬよう、宗派を違えました」
それで足りた。
氏親が静かに息を吐く。
吐く前に、息を一つ整える。
整える時間が、以前より長い。
桂子は、それを見逃さなかった。
「槍は端を守るが、内までは届かぬ」
氏親が言う。
桂子が受ける。
「窓があれば、内が通います」
「通えば、刃の出る順が変わります」
氏親は頷いた。
そして名を出す。
「伊勢宗哲」
誰も説明を求めない。
武家の血にあり、僧であり、城にも陣にも立ち続けた男。
桂子は、その名を聞いて息を整えた。
整えてから、記憶を辿る。
――春の霞の中で出会った少年。
菊寿丸。
十五にして、理と情を語った少年。
あの少年が、今は宗哲と名乗っている。
四
桂子の心に、あの日の景色が浮かんだ。
香積寺への道。
氏親と氏広、そして菊寿丸と四人で歩いた春の道。
「理を立てて人を見失えば、それもまた愚」
菊寿丸が言った。
「私は血を継ぐ者ではありません。ただ、理を学び、人を見る者でありたいのです」
あの少年は、伊勢の家を継がなかった。
だが、伊勢の国を支えた。
刃を背負わない者だからこそ、前に出られる。
桂子は、その意味を今、理解した。
氏広が言う。
「……宗哲は、戦を避けたわけではない」
「避けていない」
氏親が肯いた。
「だが、家を背負う刃は持たぬ」
「だから前に出られる」
桂子は帳面に視線を落としたまま言う。
「負けても、家は終わりません」
「終わらぬ者は、踏み込めます」
氏親は頷いた。
それでも、まだ一手ある。
間を置いて、もう一つ名を出す。
「雪斎――太原雪斎」
政所の空気が変わる。
今川の席には、まだない名。
桂子は顔を上げなかった。
五
「庵原の出だ」
氏親が言う。
「学はある」
「だが、招けば来る男ではない」
氏広が言う。
「殿。雪斎は、こちらの人間では――」
「だからだ」
氏親の声は短い。
「身内の言葉は、身内を甘やかす。外の言葉は、形だけを残す」
桂子が続ける。
「招かず、預けます」
へりくだる形になる。
だが、縁はその形でしか結べない。
「芳菊丸を"渡す"のではない」
氏親が言う。
「刃を背負わせぬ道を、選ばせる」
桂子の胸の奥で、母が静かに首を振る。
否ではない。
惜しみだ。
夜更けに寄る眉。
紙を破りたがる指。
叱られた後の悔しさ。
それらを、寺へ置く。
桂子は、芳菊丸の顔を思い浮かべた。
幼い。
まだ何も知らない顔。
だが、その目には何かがある。
――あの日、菊寿丸の目に見た光と同じものが。
六
桂子は筆を取り、帳面に書き付けた。
――芳菊丸、臨済の寺へ預け置き。
――律宗・曹洞宗に並び、道を分ける。
――伊勢宗哲の例に倣い、背負わぬ刃を持たせる。
――雪斎(庵原)への筋を通す。
文字はまっすぐだった。
まっすぐであるほど、母の手は震える。
氏広が問う。
「殿、家中は――」
「納得させるのが政だ」
氏親の声は低い。
低いが、息が一つ余計に要った。
桂子は、それを見逃さなかった。
氏親は、自分の時間を知っている。
知っているから、急ぐ。
急ぐから、言葉が短くなる。
桂子が最後に一言だけ添える。
「急がぬ者がいれば、国は持ちます」
氏親は深く頷いた。
「詰まりは、先に抜く」
白い庭に風が走る。
窓があれば、風は折らない。
桂子は帳面の端に、小さく書き添えた。
――ただ、無事であれ。
墨が乾く前に帳面を閉じる。
母の首振りを、誰にも見せないまま。
七
政所を出ると、桂子は廊下で立ち止まった。
立ち止まったまま、庭を見る。
白砂が、午後の光を返している。
美しい。
だが、その美しさが今日は少し冷たく見えた。
深雪が、静かに近づいた。
「御台様……」
桂子は答えなかった。
答えられない。
答えれば、母になる。
深雪は、何も言わずに桂子の隣に立った。
二人は、しばらく庭を見ていた。
風が吹く。
砂が、わずかに動く。
動いた砂は、すぐに整えられる。
整えられた砂は、また白く静かに広がる。
「深雪」
桂子が小さく言った。
「私は、母でしょうか」
深雪は、少し黙ってから答えた。
「……御台様は、母でもあり、御台所でもあられます」
桂子は首を振った。
「母であれば、子を手放しません」
「ですが、御台所であれば……」
桂子は言葉を切った。
切ったまま、庭を見続ける。
深雪が静かに言った。
「御台様がお決めになったことは、国のために正しいことでございます」
桂子は、その言葉を受け止めた。
受け止めたが、胸の奥に何かが残る。
残るものを、桂子は名付けなかった。
名付けてはいけない。
八
その夜、桂子は一人、部屋にいた。
深雪が茶を淹れ、静かに置いた。
桂子は茶を見た。
見たが、手に取らない。
窓の外で、風が吹いた。
庭の松が揺れる。
揺れる影が、部屋の壁に映る。
桂子は、その影を見つめた。
見つめながら、思う。
氏豊を那古野へ送った。
芳菊丸を寺へ預ける。
円を吉良へ嫁がせた。
子を、次々と手放している。
手放すたび、母が死ぬ。
死んだ母の代わりに、御台所が残る。
桂子は、茶を手に取った。
取ったまま、湯気を見つめる。
湯気が、静かに立ち上る。
「これでよいのでしょうか」
桂子は呟いた。
答えは返らない。
返らないまま、桂子は茶を一口飲んだ。
温かい。
だが、その温かさが今夜は少し冷たく感じられた。
桂子は、茶を置いた。
置いたまま、窓の外を見た。
夜の庭が、静かに広がっている。
白砂が、月を返している。
美しい。
だが、その美しさが遠い。
遠くて、届かない。
九
桂子は立ち上がった。
立ち上がったまま、庭を見続ける。
見続けながら、思う。
母は、子を守る。
だが、御台所は、国を守る。
国を守るために、子を手放す。
手放した子は、国を支える。
支える子は、いつか帰ってくるのか。
桂子には、分からなかった。
分からないまま、桂子は目を閉じた。
閉じた目の奥に、子の顔が浮かぶ。
円の顔。
氏豊の顔。
芳菊丸の顔。
みんな、小さな顔。
小さな顔が、遠くへ行く。
遠くへ行って、戻らない。
桂子は、目を開けた。
開けたまま、深く息を吐いた。
吐いた息が、暗闇に消える。
消えた息は、戻らない。
政は続く。
母も続く。
続くために――預ける。
桂子は、その言葉を胸に刻んだ。
刻んだまま、布団に横になった。
横になったが、すぐには眠れない。
目を閉じても、子の顔が浮かぶ。
浮かんだ顔が、消えない。
消えないまま、桂子は目を閉じ続けた。
やがて、眠りに落ちた。
浅い眠りだった。
だが、眠りは眠りだ。
明日からまた、政が始まる。
子を預ける政が。
だが、国は止まらない。
止まらないことが、子を守る。
桂子は、それを信じた。
(第五話 了)
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
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「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




