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寿桂尼物語 第五章 結び目を置く 第四話 氏豊誕生と那古野養子入り

本作は、石田源志による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

生まれた子は、静かだった。

泣かぬわけではない。

ただ、声が短い。

声が短い子は、強いか、早く諦めるか、そのどちらかだと、桂子は知っている。

氏豊――竹王丸。

その名が帳面に記されるのは、もう少し後になる。

桂子は、産室から少し離れた部屋で子を抱いていた。

抱いているが、胸に寄せてはいない。

寄せれば情が動く。

情が動けば、視線が曇る。

この子は、当主の子だ。

だが、正室の子ではない。

桂子は、その事実を受け入れていた。

受け入れているが、胸の奥に何かが引っかかる。

引っかかるのは、嫉妬ではない。

――複雑さだ。

母として見れば、この子は愛しい。

正室として見れば、この子は距離を置くべき存在だ。

御台所として見れば、この子は国の駒になる。

桂子は、どの目で見るべきかを決めかねていた。

決めかねたまま、子の顔を見る。

小さな顔。

まだ目も開かない。

だが、その小ささが、やがて国を動かす。

桂子は、その予感を持っていた。

祝いは簡素だった。

酒は出たが、歌は短い。

杯が回るのも、二巡まで。

誰も「めでたい」とは言わない。

「よかったな」とだけ言う。

言葉が軽いのは、位置が重いからだ。

桂子は、その空気をよく知っていた。

知っているから、何も言わない。

廊下の向こうで、氏親の声がした。

低く、短い。

祝いの声ではない。

政の声だ。

「尾張からだ」

その一言で、部屋の空気が変わる。

祝いの場は、簡単に畳まれた。

畳まれる速さは、慣れの証だ。

桂子は子を乳母に預け、袖を整えた。

腹の奥が、まだ重い。

だが、その重さは今は関係がない。

政所には、すでに紙が並んでいた。

尾張――那古野。

熱田の喉。

海の道の結び目。

第二話で描かれた線が、ここで現実になる。

氏親は立っていた。

座らない。

この話は、決める話だからだ。

桂子は、政所の端に座った。

座ったが、帳面はまだ開かない。

開くのは、氏親の言葉を全て聞いてからだ。

「那古野今川からだ」

氏親が言う。

「養子を望む、と」

桂子は、帳面を開く前に、一度だけ目を伏せた。

伏せたのは祈りではない。

言葉を正確に受け取るための癖だ。

「理由は」

桂子の声は平坦だった。

氏親は紙を叩かない。

紙を叩くと、感情が混じる。

「名だ」

「名と、責だ」

それだけで十分だった。

那古野は、今川の筋を名乗るには細い。

だが、熱田の前に立つには、太くもある。

桂子は、その意味を理解した。

理解したが、顔には出さない。

顔に出せば、場が揺れる。

氏親が続ける。

「俺が見届けられるのは、ここまでかもしれぬ」

桂子の手が、わずかに止まる。

氏親は、自分の終わりを見ている。

見ているから、次を準備する。

それが、この男のやり方だった。

桂子は、氏親を見た。

見たまま、次の言葉を待つ。

氏親は息を一つ整えた。

整える時間が、以前より長い。

長いが、まだ大丈夫だ。

だが「まだ」がいつまで続くのか、桂子には分からない。

「……竹王丸を、という話になりますか」

桂子は、そう言うまでに一拍置いた。

氏親が言わせていることを、分かっているからだ。

氏親は否定しない。

肯定もしない。

ただ、言った。

「置く」

置く。

継がせるではない。

送り込むでもない。

置く。

桂子は、その言葉を帳面の端に書き、すぐ消した。

この言葉は、まだ外に出してはいけない。

「庶子です」

桂子は事実だけを置く。

氏親は頷いた。

その頷きは、迷いではない。

承知の印だ。

「だからいい」

酷い言葉だ、と誰もが思った。

だが言ったのは氏親だ。

言葉の酷さを、氏親が背負った。

「正室の子なら、尾張が重くなる」

「庶子なら、責だけを負わせられる」

冷たい言葉だった。

だが、冷たいのは言葉ではない。

立場だ。

桂子は、袖の内で指を折った。

折るのは数ではない。

気持ちだ。

この子を、那古野へ送る。

送れば、海の道が繋がる。

繋がれば、国が保たれる。

だが、この子は生まれたばかりだ。

生まれたばかりの子を、遠国へ送る。

桂子は、母ではない。

御台所だ。

御台所として、この決断を受け入れる。

受け入れるが、胸の奥に何かが残る。

残るものを、桂子は名付けなかった。

名付けてはいけない。

「築城の話が、避けられません」

桂子は、感情を押し込んで言った。

「那古野に城を置くなら、銭が要ります」

氏親は、そこで初めて座った。

決断が、次の段に移った印だ。

「分かっている」

「だから、今日だ」

今日――祝いの日。

祝いの日に、銭の話をする。

それが、氏親という当主だ。

葛山氏広が一歩前に出た。

顔は祝いの顔ではない。

帳面の顔だ。

「殿、遠国です」

「駿府の銭を、尾張に流せば、不満が出ます」

氏親は言い切る。

「出る」

「だから、隠さぬ」

桂子は、ここでようやく帳面を開いた。

隠さない。

その代わり、形にする。

「那古野築城は、"国の城"ではありません」

桂子は言った。

「今川の"道の城"です」

氏親が、桂子を見る。

補強を待つ目だ。

「熱田の喉を支えるための城」

桂子は続けた。

「海の道の結び目」

「武の城ではなく、帳面と札の城になります」

氏親は、短く言った。

「よい」

それが、決裁だった。

桂子は、帳面に一行を書いた。

――那古野、築城を許可。

――資は国より出す。

――普請と運用は、那古野今川に委ねる。

書き終えたとき、帳面がわずかに重く感じられた。

紙の重さではない。

置いた名前の重さだ。

この子は、国のために生まれた。

そう決めたのは、氏親だ。

桂子は、その決断を、帳面に残しただけだ。

帳面を閉じる前に、桂子は一行だけ加えた。

――竹王丸、那古野今川へ養子入り。

墨が乾くのを待たずに、桂子は筆を置いた。

置いた筆が、静かに墨を返す。

政所を出るとき、桂子は一度だけ振り返った。

祝いの場は、もう無い。

あるのは、決まった未来だけだ。

子の泣き声が、廊下の奥から聞こえた。

短い声だ。

桂子は足を止めない。

立ち止まれば、母になる。

今は、御台所でいる。

桂子は、廊を歩き続けた。

歩きながら、思う。

氏親は、次の代を準備している。

準備しているということは、自分の終わりを見ているということだ。

桂子は、その終わりを認めたくなかった。

認めたくないが、準備はする。

準備しなければ、国が止まる。

桂子は、深く息を吸った。

吸った息を、ゆっくりと吐く。

吐いた息に、重さがある。

重さは恐れではない。

覚悟だ。

その夜、桂子は一人、部屋にいた。

深雪が茶を淹れ、静かに置いた。

「御台様……」

桂子は茶を見た。

見たが、手に取らない。

「深雪」

「はい」

「私は、正しいことをしているのでしょうか」

深雪は、少し黙ってから答えた。

「……御台様は、国のために正しいことをなさっておられます」

桂子は首を振った。

「国のため、ですか」

「では、母のためには」

深雪は答えなかった。

答えられない。

桂子は、茶を手に取った。

取ったまま、湯気を見つめる。

湯気が、静かに立ち上る。

「母であれば、この子を手放しません」

桂子は小さく言った。

「ですが、御台所であれば、手放します」

「どちらが正しいのか、私には分かりません」

深雪が、桂子の隣に座った。

「御台様は、両方でおられます」

「だから、苦しまれるのです」

桂子は、茶を一口飲んだ。

温かい。

温かさが、喉を通る。

「この温かさが、いつか冷めるのですね」

桂子は呟いた。

「冷めたとき、この子はどこにいるのでしょう」

深雪は、何も言わなかった。

言えることが、ないからだ。

桂子は、茶を置いた。

置いたまま、窓の外を見た。

夜の庭が、静かに広がっている。

白砂が、月を返している。

美しい。

だが、その美しさが今夜は少し遠く見えた。

桂子は立ち上がった。

「休みます」

深雪が頭を下げる。

「おやすみなさいませ」

桂子は、布団に横になった。

横になったが、すぐには眠れない。

目を閉じると、子の顔が浮かぶ。

小さな顔。

まだ目も開かない顔。

その顔が、遠くへ行く。

那古野へ。

海の向こうへ。

桂子は、目を開けた。

開けたまま、天井を見つめた。

天井は、何も語らない。

ただ、そこにあるだけだ。

桂子は、深く息を吐いた。

吐いた息が、暗闇に消える。

消えた息は、戻らない。

戻らないまま、桂子は目を閉じた。

明日からまた、政が始まる。

子のいない政が。

だが、国は止まらない。

止まらないことが、この子を守る。

桂子は、それを信じた。

信じたまま、眠りに落ちた。


(第四話 了)


本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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