寿桂尼物語 第五章 結び目を置く 第三話 銭が詰まる
本作は、石田源志による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
駿府の朝は、蔵の匂いがする。
米の匂いと紙の匂いが混ざって、政所の空気になる。
桂子は、その匂いが薄くなる日を恐れていた。
米が減るからではない。
米が"動かなくなる"からだ。
動かなくなる理由は、戦よりも静かなところに潜む。
その日、葛山氏広が政所へ入ってきた。
鎧は着ていない。
だが歩き方が鎧だ。
氏広は紙束を抱えている。
刃ではない。
紙が刃になる回の匂いがした。
「市が止まりかけております」
氏広は、礼を短くして言った。
短い言葉の後ろに、現場の騒ぎが見える。
桂子は帳面を開き、硯に水を落とした。
音を先に置く。
音があると、言葉が走らない。
深雪が黙って墨を磨る。
磨る音は、熱を冷やす。
氏親は座している。
普段と変わらない。
ただ、今日は息が一つ余計に要っている。
余計の一息が、政所の隙になる。
桂子は隙を作らないため、氏広の報告を途切れさせずに受けた。
「原因は」
桂子が問うと、氏広は迷いなく答えた。
「撰銭です」
「銭の色が揃わなくなった。重さが揃わなくなった。揃わぬものは、疑いを生む」
「悪銭を弾く者が増え、銭が銭として通らぬ」
「通らねば、売買が止まる。止まれば、物が動かぬ」
桂子は頷いた。
銭が無いのではない。
銭が"選ばれている"。
勝手が銭を選び始めると、市は詰まる。
桂子は、その仕組みを理解した。
理解したが、胸の奥に何かが引っかかる。
引っかかるのは、迷いではない。
冷たさだ。
氏広は紙束から一枚抜き、淡々と続ける。
「町役人と商人方からの訴えは、理屈としてはこうです」
「受け取った銭を次が受け取らぬ。受け取らぬ銭をこちらも受け取れぬ」
「結果、市が止まる」
次に、氏広は別の紙を抜いた。
紙の角が少し汚れている。
現場の手を渡ってきた紙だ。
「町の困りは、こうです」
「銭はあるが、米が買えぬ。塩が買えぬ」
「買えぬから、暮らしが詰まる」
氏広は最後の紙を抜いた。
これは役所の紙だ。
角が整っている。
「家中の徴収側は、こう言っております」
「役銭や年貢は良銭で揃えよ。悪銭が混じれば、蔵の勘定が狂う」
「勘定が狂えば、兵糧も狂う」
三つの声。
商人の理屈。
民の困窮。
家中の徴収。
どれも"国の息"の一部で、どれも単独で正しい。
単独で正しいものほど、混ぜたときに国を止める。
桂子は氏親の息を見た。
余計の一息がある。
けれど普段は問題ない。
問題ない日に、波の日の準備を進める。
それが桂子の役目だった。
「殿」
桂子は短く言った。
長い言葉は喉を腫らす。
「市が止まれば、蔵も止まります」
「蔵の整いを優先して市を殺せば、最後に蔵が空になります」
氏親は頷いた。
頷きの前に、息を一つ整える。
ほんのわずか。
だが桂子には見える。
その一息が、決裁の重さになる。
氏親が短く言った。
「止める」
誰を、ではない。
現象を、だ。
桂子はすぐ言葉を置いた。
ここで人の名を立てれば、怨みが集まる。
怨みが集まれば、次は港が詰まる。
「名は立てません」
桂子は言う。
桂子は、その言葉を口にしながら、心の奥で何かが冷えるのを感じた。
冷えるのは、恐れではない。
理を選んだときの、冷たさだ。
――春の霞の中で、菊寿丸が言った。
「理を立てて人を見失えば、それもまた愚」
だが今、桂子は理を立てる。
人を見失わないために。
「法の名を掲げて争うのでもない」
桂子は続けた。
「"撰銭が横行して市が止まる"――その現象として抑えます」
氏広が頷いた。
氏広は現場を知っている。
現場は名より手順を欲しがる。
朝比奈泰能が一歩だけ前に出た。
声は低い。
「抑える手は、二つです」
「一つは、受け取りの手順を一つにする」
「もう一つは、拒むなら理由を残させる」
桂子は即座に言う。
「理由を帳面に残す、という形にすれば」
「拒みは勝手ではなく"説明"になります」
「説明が揃わぬ拒みは、勝手と見える」
氏親は短く頷いた。
頷きの前に、また一息。
普段は問題ない。
だがその"一息"が増える日がある。
桂子はそれを忘れない。
氏親は氏広へ命じた。
「町方へ回せ」
「銭を選ぶな、と言うな」
「"止めるな"と言え」
「市を止めるな。物を止めるな」
氏広は、すぐ理解した顔で答えた。
「"止めるな"は、効きます」
「止めれば、誰が困るかが見える」
泰能が続ける。
「拒む者が出たら、名ではなく"数"で押さえます」
「拒みの数が増えれば、その場の手が勝手を作っている」
桂子は筆を取り、帳面の見出しに書いた。
――撰銭、横行記録。
名を書かない。
現象を書き、日付を書き、場所を書き、拒みの数を書き、止まった品を書き、動き出した品を書き、戻るまでを書き留める。
現象を残せば、次に同じ詰まりが来ても手が早くなる。
桂子は、筆を走らせながら思った。
――これは、書き残さねばならない。
この順を。
この形を。
いつか、氏親がおられなくなる日が来る。
その日に、国が迷わないために。
桂子は、その予感を胸に刻んだ。
刻んだまま、筆を走らせる。
深雪が墨を差し出しながら、小さく言った。
「殿……これで、動きますでしょうか」
桂子は答えた。
「動かします」
「動かぬなら、別の詰まりがある。その詰まりも、帳面に残します」
深雪は、何も言わなかった。
何も言わないが、目が何かを語っている。
桂子は、その目を見なかった。
見れば、迷いが入る。
迷いが入れば、理が揺れる。
理が揺れれば、市が止まる。
桂子は、顔を上げずに筆を走らせ続けた。
氏親は何も言わず、頷いた。
その頷きの前に、息が一つだけ余計に要る。
桂子はそれを見て、決める。
波の日に国を止めないために、詰まりを一つずつ抜く。
市は喉の先だ。
喉の先が詰まれば、国は言葉も息も失う。
桂子は帳面を閉じなかった。
銭の詰まりは、海の道にも繋がる。
道を結んでも、銭が詰まれば息は止まる。
風は止まらない。
だが詰まりは抜ける。
抜ける詰まりから、国はまた動き出す。
桂子は、帳面の余白を見た。
余白は、まだ白い。
白いまま残す。
ここに何を書くかは、まだ決めない。
決めるのは、もっと先だ。
桂子は筆を置いた。
置いた筆が、静かに墨を返す。
政所の外で、鳥が鳴いた。
風が吹いた。
庭の砂が、わずかに動いた。
桂子は、深く息を吐いた。
吐いた息に、少しだけ冷たさが混じる。
冷たさは恐れではない。
理を選んだときの、冷たさだ。
深雪が、静かに茶を置いた。
茶の湯気が、政所の空気を少しだけ和らげる。
桂子は茶に手を伸ばさなかった。
手を伸ばせば、一息つく。
一息つけば、迷いが入る。
今は迷う段ではない。
桂子は立ち上がった。
「少し、外へ」
深雪が灯りを持とうとする。
桂子は首を振った。
「要りません」
桂子は一人、廊へ出た。
庭を見る。
白砂が、夕暮れの光を返している。
美しい。
だが、その美しさが今日は少し冷たく見えた。
桂子は、庭を見つめた。
理で締めた。
締めなければ、市が止まる。
市が止まれば、民が飢える。
――ならば、この理は誰のためか。
桂子には、まだ答えが出せなかった。
ただ、問いだけがそこにあった。
桂子は、深く息を吸った。
吸った息を、ゆっくりと吐く。
吐く。
吸う。
吐く。
明日もまた、政が続く。
理で締める政が。
だが、締めた理の先に何があるのか。
桂子は、それをまだ知らなかった。
知らないまま、庭を見続けた。
白砂の白が、少しずつ暗くなっていく。
暗くなっても、白は消えない。
消えないまま、夜を待つ。
桂子は、その白を見つめた。
見つめたまま、部屋に戻った。
帳面を開く。
今日書いた文字が、紙に並んでいる。
桂子は、その文字を一つ一つ確認した。
確認したが、何も加えなかった。
加える言葉が、まだ見つからない。
桂子は、帳面を閉じた。
閉じたが、胸の奥に何かが残る。
冷たさが残る。
理を選んだときの、冷たさが。
桂子は、その冷たさを抱いた。
抱いたまま、灯りを消した。
明日からまた、政が始まる。
(第三話 了)
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
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設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




