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寿桂尼物語 第五章 結び目を置く 第二話 海の道

本作は、石田源志による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

駿府の庭は白い。

白いから、海の色が余計に遠く見える。

遠いものは、油断すると届かない。

届かないものは、いつか命取りになる。

桂子は、その遠さを恐れていた。

恐れているが、口には出さない。

口に出せば、不安が形になる。

形になった不安は、政所を揺らす。

政所の朝は、いつもと同じだった。

深雪が墨を磨る音。

帳面を開く音。

硯に水を落とす音。

その音の中で、桂子は氏親を見ていた。

氏親は座している。

顔色は変わらない。

だが今日は、何かが違う。

言葉が、いつもより短い。

短いのは、喉を守るためではない。

決めるべきことを、早く決めるためだ。

桂子は、その短さを見逃さなかった。

氏親は紙を見ていなかった。

見ていたのは、紙の上に引かれた線だった。

海岸線ではない。

人の流れ、銭の流れ、米の流れ――流れの線だ。

「熱田が詰まるのは、港が弱いからではない」

氏親は最初にそう言った。

桂子は筆を止めた。

止めたのは、その言葉の重さを受け止めるためだ。

「港が弱い」と言えば、武の者は槍を増やしたがる。

槍を増やせば、尾張の面子が燃える。

面子が燃えれば、港はさらに詰まる。

だから氏親は、原因を「槍」から外した。

「詰まるのは、道が一本だからだ」

氏親は続けた。

「一本の道は、噛まれれば止まる。止まれば、国の息が止まる」

桂子は、帳面を開いた。

開いたが、まだ書かない。

書く前に、氏親の言葉の全てを受け取る。

深雪は黙って墨を磨る。

磨る音が、政所の熱を静かに冷やす。

葛山氏広が低く言った。

「殿、海の道を増やすとなれば……よその国の港に触れることになります」

氏親は頷いた。

頷くのは、否定ではない。

現実を受け取った印だ。

「だから、攻める話にするな」

氏親は短く言う。

「整える話にする」

「整える」。

その言葉が出ると、刃が鞘に戻る。

鞘に戻った刃は、代わりに紙を持てる。

桂子は、その言葉を帳面の端に書いた。

書いたが、まだ本文には落とさない。

この言葉は、氏親の意志の核だ。

核は、形になる前に大切にする。

朝比奈泰能が、静かに口を開いた。

「海の道は速い」

「だが、速い分だけ止められやすい。止めるのは槍ではなく、港の勝手です」

氏親は泰能を見た。

現場の言葉は短い。

短いほど折れにくい。

「勝手を止めるには、何が要る」

泰能は答える。

「場所を決めること」

「手順を決めること」

「そして――勝手に銭が生まれないようにすること」

桂子が継いだ。

継ぐのは、泰能の言葉を「形」にするためだ。

「銭が勝手に生まれると、商が止まります」

「商が止まると、米が止まります」

「米が止まると、兵が痩せます」

「兵が痩せると、槍が早くなります」

氏親は頷く。

その頷きが「国の順」になる。

桂子は、その頷きを見て筆を取った。

筆を取ったが、まだ墨を落とさない。

墨を落とすのは、氏親の次の言葉を聞いてからだ。

氏親は紙の上に指を置き、線をなぞった。

海沿いの線ではない。

港と港を結ぶ線。

線の上に、点が乗っている。

点は港。

港は商の口。

口が喋れば噂になる。

噂は面子に刺さる。

面子に刺さった噂は、港を止める。

「港は、口だ」

氏親が言う。

「口が一つなら、口を塞がれたときに息ができぬ」

「だから口を増やす――のではない」

氏広が眉を動かす。

桂子も、その言葉の先を待った。

氏親は続けた。

「口を増やすのではなく、"道"を増やす」

「道が複数なら、ひとつ詰まっても、国は息を続ける」

深雪が、墨を置く音が一度だけ大きくなった。

道を複数にする。

それは、港を守る以上に大きい話だ。

国の形を変える話だ。

桂子は、その大きさを理解した。

理解したが、顔には出さない。

顔に出せば、場が揺れる。

桂子は言った。

「道を複数にするなら、商圏も繋がります」

「商圏が繋がれば、銭の流れが安定します」

「銭が安定すれば、兵糧も安定します」

「兵糧が安定すれば――戦を急がずに済みます」

氏親は、そこだけ少し目を細めた。

戦を急がずに済む。

それは当主の願いではない。

国の寿命の話だ。

桂子は、氏親の目を見た。

見たまま、次の言葉を待つ。

氏広が低く問う。

「殿は、海の道で国を縛る気ですか」

氏親は否定しない。

否定しないかわりに、言い方を変えた。

「縛るのではない」

「結ぶ」

結ぶ、という言葉は柔らかい。

柔らかい言葉は誤解されやすい。

だが氏親は、その誤解を防ぐ言葉を重ねた。

「結べば、勝手が勝手で済まなくなる」

「勝手は、暗がりで育つ」

「道が結ばれ、帳面が結ばれれば、暗がりが減る」

朝比奈が言う。

「結ぶには、結び目が要ります」

氏親は紙に短く書いた。

――那古野。

桂子はその字を見て、息を整えた。

整えてから、帳面に視線を落とす。

尾張を領すなどと言わない。

言えば燃える。

だが「結び目」としてなら、政治の言葉になる。

桂子は、その意味を理解した。

理解したが、まだ筆を動かさない。

動かすのは、氏親の次の言葉を聞いてからだ。

氏親は言う。

「尾張に今川の筋が残っているなら、それは誇りではない」

「責だ」

「結び目は、責を負う」

「結び目は一つでは足りぬ。だが最初の結び目は、強く結べる場所に置く」

氏広が低く笑った。

笑いではない。

納得の息だ。

「血を誇らせず、責を負わせる。殿らしい」

桂子は、その言葉を聞いて筆を取った。

取ったまま、氏親を見る。

氏親は紙の余白に、もう一つ線を引いた。

熱田だけに線を集めない。

線を散らす。

散らして、結ぶ。

それが「海の道」の骨格になる。

桂子は、その線を見つめた。

見つめながら、心の中で確認する。

――これは、戦の話ではない。

国の形の話だ。

形を変えれば、国の息が変わる。

息が変われば、国の寿命が変わる。

桂子は、その重さを背負った。

背負ったまま、筆を走らせる。

「よいか」

氏親が言う。

「海の道は、武で作らぬ」

「舟と商で作る」

「だが、武の背が要る。背が無ければ勝手が噛む」

桂子は頷く。

「背は見せびらかさず、効かせます」

「札は"取る札"ではなく、"通す札"にします」

「通せば、商は動きます。動けば、銭が回ります」

深雪が静かに言った。

「……殿。海の道が太くなれば、町も太くなります」

「太くなった町は、また勝手を生みます」

氏親は答えた。

「勝手は生まれる」

「だから、最初から勝手を前提にして形を置く」

「形があれば、勝手は国を壊さずに済む」

その言葉は、戦の言葉ではなかった。

統治の言葉だった。

桂子は、その言葉を帳面に落とした。

落としながら、思う。

氏親は、遠くを見ている。

遠くを見ているから、今日の言葉が短い。

短い言葉で、大きな形を描こうとしている。

桂子は、その形を受け止めた。

受け止めたまま、筆を走らせる。

――海の道。

――結ぶ。

――勝手を前提にする。

文字が並ぶ。

並んだ文字が、国の形になる。

氏親は筆を置いた。

置いてから、庭を見た。

白砂の庭は、潮を知らない。

だが、国の息は潮でできている。

「海の道を、国の道にする」

氏親はそれだけ言い、席を立った。

立った背中を見て、桂子は確信した。

これは「熱田の揉め事」ではない。

今川の国の、長い形の話なのだ。

桂子は帳面を閉じなかった。

閉じれば、終わりになる。

終わらせてはいけない。

これは始まりだ。

深雪が、静かに茶を置いた。

茶の湯気が、政所の空気を少しだけ柔らかくする。

桂子は茶に手を伸ばさなかった。

手を伸ばせば、一息つく。

一息つけば、迷いが入る。

今は迷う段ではない。

桂子は、帳面の次の行を見た。

次の行には、まだ何も書かれていない。

だが、その空白が何で埋まるのか、桂子には分かっていた。

那古野。

熱田。

港と港を結ぶ線。

その線の上に、今川の筋が乗る。

筋は血ではない。

責だ。

桂子は、その責を帳面に刻む覚悟を決めた。

決めたまま、筆を置いた。

置いた筆が、白砂のように静かだった。

政所の外で、風が吹いた。

風は遠くから来る。

遠くから来る風は、海の匂いを運ぶ。

桂子は、その匂いを嗅いだ。

潮の匂い。

駿府には届かない匂い。

だが今日、その匂いが届いた気がした。

桂子は、深く息を吸った。

吸った息を、ゆっくりと吐く。

吐いた息に、少しだけ重さがある。

重さは恐れではない。

覚悟だ。

海へ、手を伸ばす。

それが今日、氏親が決めたことだ。

桂子は、その決断を帳面に刻んだ。

刻んだまま、次の段を待つ。

次の段は、もう見えている。

那古野へ、人を送る。

港へ、札を置く。

道を、結ぶ。

桂子は、その順を頭の中で整えた。

整えたまま、深雪を見た。

深雪は黙って墨を磨っている。

磨る音が、桂子の呼吸と重なる。

その音の中で、桂子は思った。

――これは、氏親の国だ。

だが、氏親だけの国ではない。

桂子もまた、この国を背負っている。

背負っているから、帳面を開く。

開くから、国が動く。

桂子は、その重さを改めて感じた。

感じたまま、帳面を見つめた。

帳面の白が、庭の白と重なる。

白は、まだ何も書かれていない。

だが、その白に何を書くかで、国の形が変わる。

桂子は、筆を取り直した。

取り直したまま、最初の一行を書いた。

――海の道、国の道とする。

墨が乾くのを待たずに、次の行を書いた。

――道を結び、勝手を前提とし、形を置く。

文字が並ぶ。

並んだ文字が、国の骨になる。

桂子は、その骨を見つめた。

見つめながら、思う。

氏親は、今日もまた国を変えようとしている。

変えるのは、強くするためではない。

長く保つためだ。

長く保てば、民が安らぐ。

民が安らげば、国が安らぐ。

桂子は、その安らぎを信じた。

信じたまま、帳面を閉じた。

閉じたということは、次が始まるということだ。

海の道が、今日から動き始める。


(第二話 了)


本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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