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寿桂尼物語 第五章 結び目を置く 第一話 熱田の喉

本作は、石田源志による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

駿府の庭は白い。

だが今朝の白は、桂子の目にいつもと違って見えた。

潮の匂いが混ざっているからだ。

潮は遠い。駿府から海は見えない。

それなのに匂いが届く日がある。届く日は、国の息が変わろうとしている。

桂子は政所へ向かう廊を、いつもより一歩だけ静かに踏んだ。

急ぐ必要はない。

だが、今日は何かが動く。

動く前に、形を整えておく必要がある。

政所の襖を開けると、氏親はすでに座していた。

顔色は変わらない。

眼も冴えている。

だが桂子には分かる。

今日の氏親は、言葉を短くしている。

短くするのは、喉を守るためではない。

決めるべきことを、早く決めるためだ。

桂子は帳面を開き、硯に水を落とした。

音を先に置く。

音があると、声が荒れない。

深雪が黙って墨を磨る。

磨る音が、政所の温度を整える。

その音の中で、氏親は最初の一言を放った。

「熱田が詰まりはじめた」

短い。

だが短いほど、これは軍議ではなく政の話だと分かる。

桂子は顔を上げなかった。

顔を上げれば、問いになる。

今は問う段ではない。

受け取る段だ。

「詰まり、とは」

桂子の声は平坦だった。

氏親は使者の紙を、桂子に渡す前に自分で押さえた。

読むためではない。

重さを測るためだ。

紙の重さが重いとき、現場はもっと重い。

「荷改めが増えた。関銭が増えた。誰の銭かが分からぬ」

氏親は言葉を切らずに続けた。

「船が着いても、荷が出ぬ」

「一刻で済む改めが、半日になる」

「塩の樽が並んだまま動かない」

桂子は、その言葉を聞きながら帳面の余白を見た。

余白に、熱田の港が見える。

見えないが、想像できる。

詰まっているのは港ではない。

順だ。

順が詰まれば、次は血が出る。

氏親が言う。

「分からぬ銭は、すぐ喧嘩になる」

「喧嘩は、すぐ止まる。止まれば――」

桂子が言葉を継ぐ。

「塩と米が止まります。止まれば、兵糧が細くなります」

氏親は頷いた。

頷きが「合っている」の印だ。

桂子はそこで余計を言わない。

氏親の短さを守る。

短さは今、国の呼吸だ。

襖の奥で、家臣の気配が揺れた。

熱田――その名が出るだけで、場はざわつく。

尾張は「よその国」であり、同時に「喉の前」でもある。

触れれば、火が立つ。

だが触れなければ、息が詰まる。

桂子は、その板挟みを知っていた。

知っているから、次の言葉を待つ。

葛山氏広が控えている。

武の匂いを残した顔が、今日は紙の顔をしていた。

「殿、尾張は斯波の名の国。実は織田の国」

氏広が低く言う。

「余計に触れれば、火が立つ」

氏親は視線だけで、氏広を止めた。

止め方が静かだった。

静かな止め方は、否定ではない。

「余計に触れる」のではない。

触れ方を決める。

それが氏親のやり方だ。

「触れぬのではない」

氏親は言った。

「触れる理由を作る」

桂子は、その一言で理解した。

理由――つまり名分だ。

刃を持たずに動くための札。

札を持てば、相手の面子を殺さずに済む。

面子を殺せば、尾張は燃える。

燃えた尾張は、熱田を止める。

熱田が止まれば、海の道が止まる。

桂子は息を整えた。

整えてから、次の言葉を待つ。

氏親は淡々と続ける。

「那古野だ」

政所の空気が、一段落ちた。

桂子は、その名を聞いて筆を止めた。

止めたのは驚きではない。

受け止めるための間だ。

那古野――熱田台地の縁。柳ノ丸。

今川の血筋が、尾張の端に残っている。

残っているだけでは、何も起きない。

だが「使う」と決めれば、それは札になる。

桂子は帳面に視線を落とした。

那古野今川。

婚礼のとき、氏親が「尾張まで領した」などとは言わなかった。

言わなかったが、筋は残した。

筋は、いつか札になる。

その「いつか」が、今日だ。

深雪が墨を磨る音が、わずかに速くなった。

尾張――その名に、深雪も反応している。

桂子は目を上げない。

目を上げれば、深雪と視線が合う。

合えば、迷いが見える。

迷いを見せれば、政所が揺れる。

氏親は、言い切った。

「尾張の那古野には、今川の筋がある」

「筋があるなら、喉が詰まるのを黙って見てよい理由は無い」

桂子は、ここで氏親の言葉を受け止めた。

受け止めてから、形を整える。

氏親の刃を、札に変える。

それが桂子の役目だ。

「那古野は、尾張の家々の顔が集まる場所です」

桂子は言葉を選んだ。

言葉を選ぶのは、丁寧さではない。

刃を隠すためだ。

「今川の筋を"口実"にすれば、こちらは"秩序の話"として入れます」

「支配の話ではなく、港の仕組みの話として」

氏広が少しだけ眉を動かした。

「口実」という言葉が露骨だ。

だが政は露骨でいい。

露骨でない政は、裏で腐る。

桂子は続けた。

「"今川が尾張を取る"と見られれば、火が立ちます」

「ですが"熱田の喉が詰まって困っている"と見られれば、話は通ります」

氏親は笑わない。

笑わずに、決める。

「熱田の荷改めと関銭を、こちらで"決める"のではない」

「"整える"」

桂子は頷いた。

整える、という語は刃を隠す。

刃を隠すと、相手は耳を貸す。

桂子は筆を取り、帳面の余白に短く書いた。

――整える。決めるではなく。

氏親は続けた。

「斯波の名を立てる」

「織田の面子も殺さぬ」

「だが、勝手に銭を生む口は切る」

切る――という言葉だけが、武の言葉だった。

氏親は、武を出すときは短く出す。

短い武は、よく通る。

桂子はここで、仕組みを提示する。

提示するのは、氏親の言葉を"形"にするためだ。

形が無ければ、言葉は消える。

「札と帳面です」

桂子は言った。

「荷改めは"何を、誰が、どこで"と決めて、帳面に残す」

「関銭は"量に応じて"にして、勝手な上乗せを禁ずる」

「禁ずる札は、殿の札にします。『今川の札』ではなく、『秩序の札』として」

氏親は一拍置いて言った。

「よい。俺が言葉を出す」

「俺の言葉なら、那古野の筋は"血の自慢"ではなく"責任"になる」

桂子は、そこで少しだけ息を吸った。

吸った息を、ゆっくりと吐く。

氏親主導――その覚悟が今、政所に置かれた。

氏親が言葉を出すということは、氏親が責を背負うということだ。

背負った責は、いつか火種になる。

だが背負わなければ、国は動かない。

桂子は帳面に視線を落とした。

落としたまま、次の言葉を待つ。

氏親は、誰を動かすかを決める。

迷いを挟まない。

「葛山は紙を整えろ」

「俺の言葉が、余計に尖らぬように」

「そして――那古野へ使いを立てる」

桂子は問わない。

氏親がすでに「誰を」見ていることを知っているからだ。

那古野今川――尾張に残る今川の顔。

そこへ声を通せば、熱田の喉に指がかかる。

氏親は最後に、締めた。

短いが、投げではない。

「陸は槍で守れる」

「だが、槍は喉の詰まりを直せない」

「喉が詰まれば、国は息ができぬ」

「息ができぬ国は、いずれ刃に戻る」

白砂の庭に、風が一度だけ走った。

風は止められない。

だが喉が整っていれば、風は声にならない。

氏親は立った。

座って決める男が、立った。

それだけで、次の段が始まった。

桂子は帳面を開いたまま、庭の白を見た。

潮の匂いは、まだ消えていない。

遠い海が、駿府まで届いている。

届いた匂いは、国を変える。

変わることを恐れれば、国は縮む。

縮んだ国は、いずれ喉を詰まらせる。

桂子は筆を取った。

帳面の最初の行に、短く書く。

――熱田、詰まりを整える。

墨が乾くのを待たずに、次の行を書いた。

――那古野の筋を、札にする。

文字はまっすぐだった。

まっすぐであるほど、次が重い。

海へ、手を伸ばす。

それが今日、氏親が決めたことだ。

桂子は帳面を閉じなかった。

閉じれば、終わりになる。

終わらせてはいけない。

これは始まりだ。

深雪が、静かに茶を置いた。

茶の湯気が、政所の空気を少しだけ柔らかくする。

桂子は茶に手を伸ばさなかった。

手を伸ばせば、一息つく。

一息つけば、迷いが入る。

今は迷う段ではない。

潮の匂いが、また一度、庭から届いた。

遠い海が、駿府を呼んでいる。

呼ばれた声に、応える。

それが今日、政所で決まったことだ。

桂子は筆を置き、深く息を吐いた。

吐いた息に、少しだけ重さがある。

重さは恐れではない。

覚悟だ。


(第一話 了)



本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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