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寿桂尼物語 第四章 国の外を国にする 第七話 印の前

本作は、石田源志による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

一 波の日

氏親が政所へ来ない日が、三日続いた。

三日目の朝、桂子は氏親の部屋を訪れた。

襖を開ける。

氏親は座していた。

顔色は悪くない。

だが、目の奥に疲れがある。

「殿」

桂子が静かに呼ぶ。

氏親は、庭の方を見ていた。

「......来たか」

声は、いつもより低い。

桂子は座った。

二人の間に、言葉がない。

言葉を出せば、何かが始まる。

始まれば、戻れない。

桂子は、その境目にいた。

「殿。少し、お話があります」

氏親は、ゆっくりと視線を桂子へ移した。

「何だ」

桂子は、言葉を探した。

どう言えば、刃にならないのか。

どう言えば、氏親を傷つけないのか。

答えは出ない。

出ないまま、桂子は言った。

「......国が、止まりかけています」


二 止まるということ

氏親は、何も言わなかった。

何も言わないことが、答えだった。

桂子は続けた。

「殿がおられぬ三日で、帳面が積もりました」

一拍置いて。

「私が裁けるものは、裁きました」

「ですが、殿でなければ裁けぬものがあります」

氏親は、目を閉じた。

「......分かっている」

桂子は、その言葉を待っていた。

「分かっています。ですが――」

桂子は言葉を切った。

切ってから、静かに続けた。

「分かっていても、波は来ます」

氏親は、目を開けた。

「波、か」

「はい」

桂子は頷いた。

「今回の波は、三日でした」

そして静かに続けた。

「次の波は、もっと長いかもしれません」

氏親は、ゆっくりと息を吐いた。

「......それで、どうする」

桂子は答えた。

「形を、作ります」


三 形という堤

「形とは」

氏親が問う。

桂子は答えた。

「殿がおられなくても、国が回る形です」

氏親の目が、わずかに動いた。

「私を、替えるのか」

桂子は首を振った。

「替えません」

そして静かに続けた。

「ただ、波の日に国が止まらぬ形を作ります」

氏親は、しばらく黙っていた。

黙ったまま、庭を見ている。

桂子は、その沈黙を破らなかった。

破れば、氏親が逃げ場を失う。

やがて、氏親が口を開いた。

「......何が要る」

桂子は、少し間を置いてから答えた。

「印です」

氏親の目が、桂子を見た。

「印、か」

「はい」

桂子は頷いた。

「殿の印を作ります」

そして静かに続けた。

「花押に代えて、印を」


四 花押が書けぬ日

氏親は、自分の右手を見た。

見たまま、しばらく黙っていた。

桂子は、その沈黙を待った。

やがて、氏親が口を開いた。

「......花押が、書けなくなるのか」

桂子は答えた。

「今は、書けます」

一拍置いて。

「ですが、波の日に書けるかは分かりません」

氏親は、深く息を吸った。

吸ってから、ゆっくりと吐く。

吐けたなら、まだ大丈夫だ。

桂子はそう判断した。

「印で、足りるのか」

桂子は答えた。

「足ります」

そして静かに続けた。

「花押は、殿の手でなければ書けません」

「ですが印は、殿の意思があれば押せます」

氏親は、目を閉じた。

閉じたまま、言う。

「......手が動かなくなっても、私は私のままか」

桂子は頷いた。

「はい。殿は殿のままです」


五 受け入れるということ

氏親は、目を開けた。

「......分かった」

その一言だった。

一言だけだったが、重かった。

それは、自分の弱さを認めた声だった。

桂子は、懐から紙を一枚取り出した。

「これは、印のための紙です」

氏親がそれを見る。

紙には、短く書かれていた。

――花押に代え、印判を用いる。

――国のため、順のため。

――今川氏親。

氏親は、紙を読んだ。

読みながら、息が少しだけ荒くなる。

荒くなるのは怒りではない。

重さだ。

自分が"花押を書けなくなる日"を認めた重さだ。

「......桂子」

氏親が言った。

声は短いが、今日は少し柔らかい。

「国のためか」

桂子は迷わず答える。

「国のためです」

そして静かに続けた。

「そして、殿のためです」

一拍置いて。

「殿が殿であるまま、国を動かすためです」

氏親は、目だけで笑った。

それは笑みというより、諦めに似た許しだった。

諦めは弱さではない。

受け入れは強さになることがある。

「......よい」

その一言で、部屋の空気が変わった。

今まで"先の話"だったものが、今日の順になった。


六 誰が押すか

「印は、誰が押す」

氏親が問う。

桂子は、少し間を置いてから答えた。

「殿が押せぬとき――」

一拍置いて。

「私が、殿の印を押します」

氏親の目が、桂子を見た。

「お前が、私の印を?」

桂子は頷いた。

「はい。殿の名において」

氏親は、しばらく黙っていた。

黙ったまま、桂子を見ている。

桂子は、その視線を受け止めた。

受け止めたまま、言葉を継ぐ。

「殿の意思を継いで、殿の名で押します」

一拍置いて。

「それが、国を止めぬ道です」

氏親は、深く息を吐いた。

「......女が、私の名で?」

桂子は首を振った。

「女ではありません」

そして静かに言った。

「御台所です」

氏親は、その言葉を受け止めた。

受け止めてから、小さく笑った。

「......そうだな」

その笑みに、桂子は何も返さなかった。


七 噂との戦い

桂子は続けた。

「ただし、噂が立ちます」

氏親が顔を上げる。

「噂?」

「はい」

桂子は頷いた。

「"女が印を押した"と」

「"殿の名を騙った"と」

氏親は、小さく息を吐いた。

「......まだ、燻っているか」

「燻っています」

桂子は即答した。

「"女の政"という声は、消えていません」

一拍置いて。

「だからこそ、形を整えます」

氏親が眉を動かす。

「形とは」

桂子は答えた。

「印を押すときは、必ず誰かを立ち会わせます」

そして静かに続けた。

「葛山殿、または政所の重臣を」

「立ち会いがあれば、噂は嘘になります」

氏親は、少しだけ息を整えた。

「......それで、回るのか」

桂子は答えた。

「回ります」

そして静かに続けた。

「ただし、形だけです」

氏親が眉を動かす。

桂子は続けた。

「形を先に作ります」

「形があれば、いざというとき動けます」

一拍置いて。

「形が無ければ、そのとき慌てます」

「慌てれば、国が割れます」

氏親は、目を閉じた。

「......分かった」

その声に、納得があった。


八 彫師を呼ぶ

「印は、いつ作る」

氏親が問う。

桂子は答えた。

「すぐに」

そして続けた。

「彫師を呼びます。京から」

氏親の目が、桂子を見た。

「京か」

「はい」

桂子は頷いた。

「駿府の彫師では、噂が立ちます」

一拍置いて。

「"殿が印を作った"と」

「"殿が弱った"と」

氏親は、小さく笑った。

「噂は、何でも火種にするな」

桂子は答えた。

「何でも火種になります」

そして静かに続けた。

「だから、京から呼びます」

「"都の作法を整えるため"と言えます」

氏親は頷いた。

「......よく考えている」

その言葉に、桂子は何も返さなかった。


九 葛山を呼ぶ

翌日、葛山氏広が政所へ呼ばれた。

氏広は、桂子の前に座った。

桂子は、紙を氏広の前に置いた。

「印を作ります」

氏広は、紙を見た。

見たが、すぐには言葉が出ない。

やがて、氏広が口を開いた。

「......殿の印、ですか」

桂子は頷いた。

「花押に代えて、印を」

そして静かに続けた。

「殿が倒れても、国が止まらぬために」

氏広は、低く言った。

「止まらぬ、か」

「はい」

桂子は答えた。

「止まれば、境が動きます」

「境が動けば、血が出ます」

氏広は頷いた。

「......分かりました」

桂子は続けた。

「印は、形だけを先に作ります」

氏広が顔を上げる。

「形だけ、ですか」

「はい」

桂子は頷いた。

「実際に使うのは、まだ先です」

そして静かに続けた。

「ですが、形が無ければ、そのとき慌てます」

「慌てれば、国が割れます」

氏広は、黙って紙を見た。

見ていたが、やがて頷いた。

「......承知しました」

桂子は、深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

そして顔を上げた。

「葛山殿には、もう一つお願いがあります」

氏広の目が、桂子を見た。

「何でしょうか」

桂子は答えた。

「京の彫師を、密かに呼んでください」

氏広の眉が動く。

「密かに、ですか」

「はい」

桂子は頷いた。

「噂が立てば、"殿が弱った"と広がります」

氏広は、その言葉を受け止めた。

「......分かりました」

桂子は続けた。

「そして、もう一つ」

氏広が待つ。

「印を押すとき――殿がおられぬとき」

桂子は静かに言った。

「立ち会ってください」

氏広の目が、わずかに動く。

「立ち会い、ですか」

「はい」

桂子は頷いた。

「私が殿の印を押すとき、必ず立ち会ってください」

一拍置いて。

「それが、噂を防ぐ道です」

氏広は、しばらく黙っていた。

黙ったまま、桂子を見ている。

やがて、深く頭を下げた。

「......承知いたしました」


十 彫師の到着

七日後、京から彫師が着いた。

名は、言わない。

名を言えば、噂が立つ。

彫師は、政所の奥に通された。

誰も入れぬ部屋。

そこで、印を彫る。

桂子は、一度だけその部屋を訪れた。

彫師は、黙って手を動かしていた。

桂子は、その背を見た。

見ていたが、声はかけなかった。

声をかければ、手が止まる。

桂子は、静かに部屋を出た。


十一 印の重さ

五日後、印が仕上がった。

彫師は、印を桂子に渡した。

円い印。

花押より大きく、文字がはっきりと読める。

桂子は、その印を手に取った。

重い。

重いのは、石だからではない。

責だからだ。

桂子は、印を布で包んだ。

包んだまま、氏親のもとへ向かった。


十二 殿の前

氏親は、庭を見ていた。

桂子が入ると、視線を移す。

「できたか」

「はい」

桂子は、布を開いた。

円い印が、現れる。

氏親は、それを見た。

見たまま、しばらく黙っていた。

やがて、印を手に取った。

自分の名が彫られた印。

「......重いな」

氏親が小さく言った。

桂子は答えなかった。

答えれば、慰めになる。

氏親は、印を見つめた。

「これで、花押はいらぬのか」

桂子は答えた。

「いります」

氏親が顔を上げる。

「殿が書けるうちは、花押を使います」

桂子は静かに続けた。

「ですが、書けぬ日が来たとき――この印を使います」

氏親は、印を置いた。

そして、目を閉じた。

閉じたまま、言う。

「......それでよい」

その声は、小さかった。

小さな声が、部屋に消えた。


十三 入口に立つ

桂子は、印を持って政所へ戻った。

印を、机の奥に仕舞う。

仕舞ったが、重さは消えない。

深雪が、静かに問うた。

「......御台様。これで、よろしいのですか」

桂子は答えた。

「よいも悪いもありません」

そして筆を取った。

「必要だから、作りました」

深雪は、何も言わなかった。

桂子は、帳面を開いた。

今日決めるべきことが、紙に並んでいる。

遠江の年貢。

三河の境目。

寺社への返礼。

すべて、いつもと変わらない。

変わらないことが、国を保つ。

だが今日から、何かが変わった。

印が、ある。

それは、氏親が倒れる日を想定したということだ。

想定したということは、その日が来ることを認めたということだ。

桂子は、筆を走らせた。

走らせながら、考えた。

印は、作った。

だが、これで終わりではない。

これは、入口だ。

印があっても、国が回らなければ意味がない。

回すには、順が要る。

順を作るには、時間が要る。

時間が、どれほど残っているのか。

桂子には、分からなかった。

分からないまま、筆を走らせ続けた。


十四 夜の白

その夜、桂子は一人、庭を見ていた。

白砂が、月を返している。

美しい。

だが、その美しさが今夜は少し重く見えた。

桂子は、印のことを考えていた。

氏親の印。

それは、氏親を守るためのものだ。

だが同時に、氏親の名で国を動かす準備でもある。

動かすと決めたわけではない。

動かせる形を、作っただけだ。

だが形があれば、いつか使われる。

使われる日が、来るのか。

桂子には、分からなかった。

分からないまま、桂子は立ち上がった。

部屋に戻る。

帳面を開く。

今日書いた文字が、紙に並んでいる。

桂子は、その最後に一行だけ加えた。

――印を作った。殿の名が、止まらぬように。

墨が乾くのを待たずに、桂子は帳面を閉じた。

灯りを消す。

暗闇の中で、桂子は目を閉じた。

印の重さが、まだ手に残っている。

その重さを、桂子は背負った。

背負ったまま、眠った。

明日からまた、政が続く。

印のある政が。

だが、印を使う日は来ないかもしれない。

来ないことを、桂子は祈った。

祈ることしか、できなかった。


第七話 了


第四章 了

本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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