寿桂尼物語 第四章 国の外を国にする 第六話 娘の背
本作は、石田源志による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
一 支度の音
翌朝から、支度が始まった。
桂子の部屋の隣で、円の部屋が慌ただしくなる。
衣装を運ぶ音。
箱を開ける音。
布を広げる音。
婚礼の支度は、戦の支度に似ている。
ただし、矢ではなく帯を揃える。
槍ではなく櫛を揃える。
桂子は政所にいた。
支度の音が、廊の向こうから届く。
耳を塞ぐことはできない。
塞げば、母になる。
母になれば、政が止まる。
桂子は帳面を開いた。
今日決めるべきことが、紙に並んでいる。
吉良への目録。
道中の宿。
輿の飾り。
すべて、数字と名前に変わっている。
娘が、紙の上で動いていく。
二 深雪の役目
深雪が円のもとへ通う日が続いた。
朝に行き、昼を過ぎて戻る。
戻るたび、深雪の顔が少しずつ硬くなっていく。
桂子は、それを見ていた。
見ていたが、問わなかった。
問えば、答えが返る。
答えが返れば、母になる。
ある日の夕暮れ、深雪が戻ってきた。
いつもより遅い。
桂子は帳面から顔を上げなかった。
「どうでした」
深雪は、少し黙ってから答えた。
「......お嬢様は、よくなさっておいでです」
「そうですか」
桂子は帳面に目を落としたまま、続けた。
「泣いていませんか」
深雪は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
桂子は筆を置いた。
「泣かせてあげなさい」
深雪が顔を上げる。
「ですが――」
「今だけです」
桂子は静かに言った。
「吉良へ着いたら、もう泣けません」
深雪は頷いた。
「......承知いたしました」
深雪が部屋を出る。
桂子は一人、座っていた。
廊の向こうから、また支度の音が聞こえる。
布を畳む音。
箱を閉じる音。
娘が、遠ざかっていく音だった。
三 氏親との別れ
支度が整う三日前、氏親が円を呼んだ。
桂子は同席しなかった。
同席すれば、父と娘の別れに、母が入る。
入れば、言葉が乱れる。
桂子は政所で、その時を待った。
やがて、円が戻ってきた。
桂子の部屋の前を通り過ぎる足音。
止まらない。
桂子は、その足音を追わなかった。
追えば、母になる。
夜、深雪が報せた。
「殿は、お嬢様に短く仰いました」
「何と」
深雪は、少し言葉を選んでから答えた。
「"国のために、すまぬ"と」
桂子は目を閉じた。
氏親らしくない言葉だった。
氏親は、謝らない。
謝れば、決断が揺れる。
だが今日は、謝った。
それは父の言葉だった。
「お嬢様は、何と?」
桂子が問う。
深雪は答えた。
「"父上のお役に立てるなら"と」
そして小さく続けた。
「......泣いておられました」
桂子は、深く息を吐いた。
吐いた息に、震えがある。
桂子は立ち上がった。
「少し、外へ」
深雪が灯りを持とうとする。
桂子は首を振った。
「要りません」
桂子は一人、廊へ出た。
四 庭の白
夜の庭は、昼より白く見える。
白砂が月を返し、影だけが黒く沈む。
桂子は縁に座った。
庭を見る。
見ていても、何も見えない。
ただ、白だけがある。
桂子は、娘の顔を思い浮かべた。
泣いていた顔。
泣くのを止めた顔。
そして今夜、また泣いた顔。
桂子は、その顔を消そうとした。
消えなかった。
消えないまま、桂子は庭を見続けた。
風が吹く。
白砂が、わずかに動く。
朝になれば、誰かがまた砂をならす。
ならされた砂は、また白く整う。
整うことが、美しさではない。
整うことが、秩序だ。
秩序があれば、国は保たれる。
だが秩序の下で、誰かが泣く。
桂子は、それを知っていた。
知っていても、止められない。
止めれば、国が割れる。
桂子は立ち上がった。
部屋に戻る。
深雪が待っていた。
「御台様......」
桂子は首を振った。
「何でもありません」
そして座り直した。
「明日の順を、確認します」
深雪は頷き、帳面を開いた。
桂子は、政に戻った。
戻ることだけが、桂子にできることだった。
五 最後の夜
出立の前夜、桂子は円を呼んだ。
二度目の、二人きりの夜だった。
灯りが一つだけ、二人の間を照らす。
円は、前とは違っていた。
目が、少し落ち着いている。
泣き終わったからではない。
覚悟が、顔を変えていた。
「円」
桂子が名を呼ぶ。
円は背を正した。
「はい」
「明日、発ちます」
「はい」
「準備は、整いましたか」
円は頷いた。
「深雪様が、すべて整えてくださいました」
桂子は、少しだけ間を置いた。
間を置いてから、問う。
「......怖いですか」
円は、正直に答えた。
「怖いです」
その声は、震えていなかった。
震えていないのは、強いからではない。
震える場所を、もう使い果たしたからだ。
桂子は言った。
「怖くてよい」
円が顔を上げる。
「怖さは、慎重さになります」
桂子は続けた。
「慎重であれば、失敗が減ります」
「失敗が減れば、信用されます」
円は頷いた。
「......分かりました」
桂子は、次の言葉を探した。
母として言うべきことが、あるはずだ。
だが、見つからない。
見つからないまま、桂子は言った。
「文を、書きなさい」
円の目が、わずかに揺れた。
「文、ですか」
桂子は頷いた。
「吉良に着いたら、文を寄こしなさい」
そして静かに続けた。
「無理に書かなくてもよい」
「ただ、書きたくなったら、書きなさい」
円は、ゆっくりと頷いた。
「......はい」
桂子は立ち上がった。
円も立つ。
二人は、向かい合った。
「明日は、早い」
桂子は言った。
「今夜は、よく眠りなさい」
円は深く頭を下げた。
「おやすみなさいませ、母上」
円が部屋を出る。
足音が遠ざかる。
桂子は一人、座り直した。
灯りが一つだけ、机を照らす。
桂子は、筆を取った。
紙に、一行だけ記す。
――明日、娘を送る。
墨が乾くのを待たずに、桂子は筆を置いた。
震えは、もうなかった。
震える場所を、もう使い果たしたからだ。
六 出立の朝
朝が来た。
空は、妙に澄んでいた。
桂子は早くに起き、政所へ向かった。
出立を見送る場には、行かない。
行けば、母になる。
政所で、帳面を開く。
今日決めるべきことが、紙に並んでいる。
遠江の年貢。
三河の境目。
寺社への返礼。
すべて、いつもと変わらない。
変わらないことが、国を保つ。
廊の外で、足音が増えていく。
見送る者たちが、集まっている。
桂子は、帳面から目を離さなかった。
深雪が入ってきた。
「御台様......」
桂子は顔を上げない。
「どうぞ、行ってきてください」
深雪は、少し黙った。
「......本当に、よろしいのですか」
桂子は答えた。
「私が行けば、円が泣きます」
そして筆を取った。
「泣かせてはなりません」
深雪は、深く頭を下げた。
「......承知いたしました」
深雪が出ていく。
桂子は一人、座っていた。
帳面を見る。
見ていても、文字が頭に入らない。
廊の外で、声が増えていく。
やがて、輿が動く音がした。
低い音。
重い音。
その音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
桂子は、筆を握り締めた。
握り締めたまま、動かなかった。
七 空虚
音が、消えた。
桂子は筆を置いた。
立ち上がる。
廊へ出る。
見送りの者たちが、まだ残っていた。
皆、門の方を見ている。
桂子は、その背を見た。
見ていたが、声はかけなかった。
声をかければ、母になる。
桂子は、政所へ戻った。
座る。
帳面を開く。
文字が、やはり頭に入らない。
深雪が戻ってきた。
目が、少し赤い。
「......お嬢様は、お発ちになられました」
桂子は頷いた。
「そうですか」
深雪は、少し黙ってから続けた。
「最後に、こちらを振り返られました」
桂子の手が、わずかに止まる。
「御台様がおられぬことに、気づかれたのでしょう」
深雪は小さく言った。
「......少し、寂しそうでした」
桂子は、帳面から目を離さなかった。
離せば、泣く。
「そうですか」
それだけだった。
深雪は、何も言わず茶を淹れた。
茶の香りが、部屋に広がる。
桂子は、その香りを吸った。
吸っても、震えは止まらない。
桂子は筆を取った。
だが、墨が落ちない。
筆先が、震えていた。
八 母の時間
桂子は筆を置いた。
深く息を吸う。
吐く。
震えは止まらない。
「深雪」
「はい」
「......少し、休みます」
深雪は頷いた。
「はい」
桂子は立ち上がった。
部屋へ戻る。
座る。
何もしない。
ただ、座っているだけだった。
窓の外で、鳥が鳴いた。
風が吹いた。
庭の砂が、わずかに動いた。
桂子は、それを見ていた。
見ていても、何も考えない。
考えれば、泣く。
時間が過ぎた。
どれほど過ぎたのか、分からない。
深雪が、静かに入ってきた。
「御台様......」
桂子は答えなかった。
深雪は、桂子の隣に座った。
そして、何も言わなかった。
二人は、ただ座っていた。
やがて、桂子が口を開いた。
「......送りました」
深雪は頷いた。
「はい」
「国のために、送りました」
深雪は、また頷いた。
「はい」
桂子は続けた。
「これでよかったのでしょうか」
深雪は答えなかった。
答えは、ないからだ。
桂子は、深く息を吐いた。
「......分かりません」
その声は、小さかった。
小さな声が、部屋に消えた。
深雪が、静かに茶を置いた。
「お嬢様は、強うございます」
桂子は、茶を見た。
「強い、ですか」
深雪は頷いた。
「はい。御台様に似て」
桂子は首を振った。
「私は、強くありません」
そして茶を手に取った。
「ただ、政に戻るだけです」
茶を一口、飲む。
冷めている。
冷めた茶が、喉を通る。
桂子は、茶を置いた。
「......戻ります」
深雪が顔を上げる。
「御台様、まだ――」
「戻ります」
桂子は立ち上がった。
「国は、止まりません」
深雪は、深く頭を下げた。
「......はい」
九 政への帰還
桂子は、政所へ戻った。
帳面を開く。
文字が、少しずつ頭に入り始める。
遠江の年貢。
三河の境目。
寺社への返礼。
すべて、決めるべきことだ。
桂子は、筆を取った。
震えは、まだ少し残っている。
だが、墨を落とした。
紙に、文字を記す。
一字、また一字。
文字が増えるたび、震えが減っていく。
政が、母を消していく。
桂子は、それでよいと思った。
母でいれば、国が止まる。
政に戻れば、国は動く。
国が動けば、娘が守られる。
娘を守るために、桂子は母を捨てた。
捨てたまま、筆を走らせた。
夕暮れまで、桂子は書き続けた。
十 娘の背
その夜、桂子は一人、庭を見ていた。
白砂が、月を返している。
美しい。
だが、その美しさが今夜は少し冷たく見えた。
桂子は、娘の顔を思い浮かべた。
振り返った顔。
寂しそうな顔。
桂子は、その顔を見なかった。
見なかったことが、正しかったのか。
分からない。
ただ、それしかできなかった。
桂子は立ち上がった。
部屋に戻る。
帳面を開く。
今日書いた文字が、紙に並んでいる。
桂子は、その最後に一行だけ加えた。
――娘を送った。国のために。
墨が乾くのを待たずに、桂子は帳面を閉じた。
灯りを消す。
暗闇の中で、桂子は目を閉じた。
娘の背が、浮かんだ。
輿に乗る背。
遠ざかる背。
桂子は、その背を見送った。
見送ったまま、眠った。
明日からまた、政が始まる。
娘のいない政が。
だが、国は止まらない。
止まらないことが、娘を守る。
桂子は、それを信じた。
信じることしか、できなかった。
第六話 了
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
本文の連載は note版 にて公開しています。
設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




