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寿桂尼物語 第四章 国の外を国にする 第五話 鎖の婚

本作は、石田源志による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

一 柔らかいところから

駿府の庭は、同じ白でも日ごとに色が変わった。

白砂は冬の名残を抱きながら、春の光を受けて少しずつ柔らかくなる。

桂子はその"柔らかさ"が、時に国を危うくすると知っていた。

柔らかいところから崩れる。

崩れは、いつも音を立てない。

政所の机には、田原から戻った紙が積まれている。

筆の跡が乾き、墨の匂いだけが残る。

屈服は叫びではなく、紙の音で生まれる――

桂子はその音を確かめながら、次の音を探した。

「東三河は沈んだか」

氏親の声は短い。

普段は変わらない。

だが、ときおり言葉の端に"間"が落ちる。

桂子はその間を、政の詰まりにしない。

詰まりは国を揺らす。

揺らさぬために、先に順を置く。

「沈みました。ただし――」

桂子は筆を置かずに答えた。

「沈んだものは、浮き上がろうとします」

一拍置いて。

「入口を閉じねばなりません」


二 吉良という名

氏親は目だけで問う。

入口――どこだ、と。

桂子は地図の上に指を置いた。

三河の東の縁、そして遠江の東の縁。

境は線ではない。

出入り口の集合だ。

今橋は口。

田原は奥歯。

では、その先は何か。

「吉良です」

言葉を出した瞬間、政所の空気が一段落ちた。

戦の話ではない。

戦の後の話だ。

後の話は、いつも重い。

重いのに、音を立てない。

葛山氏広が控えていた。

刀を持つ男が紙を持つと、紙は刃になる。

氏広の前には、また紙がある。

今度は誓紙ではない。

婚姻の文言。

輿入れの儀礼。

贈り物の目録。

戦で落とすより、面子で縛る。

縛れば、血は減る。

血が減れば、恨みが長引く。

だが恨みが長引いても、入口が塞がれていれば燃え上がれない。

桂子はそこまで計算していた。


三 封じるということ

「吉良は格上」

氏広が低く言った。

「こちらから娘を出すのは、下に見える」

桂子は首を振った。

「下に見えるのは、"頼む"婚だけです」

そして静かに続ける。

「"封じる"婚は違います」

氏親が、短く言う。

「封じる、か」

桂子は頷いた。

「格上へ娘を送る。つまり、相手の座敷に"今川の礼"を置く」

間を置いて。

「礼は、鎖になります」

「鎖は目に見えぬ。だが外せぬ」

氏親はわずかに息を整え、頷いた。

頭きが決裁だった。

「朝比奈は」

桂子は即座に答える。

「現場の"形"を」

そして言葉を継ぐ。

「輿入れの道を整え、失礼が無いように」

「失礼は火種になります。火種は境を燃やします」

氏広が紙の束を整える。

「目録は、どこまで出す」

桂子は答える。

「多すぎては奢りになります」

「少なすぎては侮りになります」

一拍置いて。

「――"礼"の量だけ。武の量は要りません」

氏親は短く笑った。

笑いというより、息の抜き方だった。

「武で閉じた口を、礼で縛る......」

桂子は言う。

「武は扉を壊せます」

「礼は扉を作ります」


四 円という名を呼ぶ

その夜、桂子は深雪に告げた。

「円を」

深雪の手が、わずかに止まる。

「......お呼びに?」

桂子は頷いた。

深雪は何も言わず、立ち上がった。

足音が遠ざかる。

桂子は一人、座っていた。

灯りが一つだけ、机を照らす。

娘を呼ぶ。

娘に告げる。

それは、母がすることではない。

政がすることだ。

だが、政の顔で告げても、娘は娘だ。

母の声を聞く。

桂子は、その矛盾を知っていた。

知っていても、告げねばならない。

足音が近づいた。

襖が開く。

円が立っていた。


五 十五という年

円は十五だった。

幼さはもうない。

だが、大人の顔でもない。

まだ、何かになる前の顔だった。

桂子は円に座を勧め、自らも座った。

灯りが一つだけ、二人の間を照らす。

しばらく、言葉がなかった。

言葉を出せば、何かが始まる。

始まれば、戻れない。

桂子は、その境目にいた。

「円」

桂子が名を呼ぶ。

円は背を正した。

「はい」

声は震えていない。

震えていないのは、まだ意味が分かっていないからだ。

桂子は、すぐには言葉を続けなかった。

言葉は、出した瞬間に刃になる。

刃は、娘を切る。

だが、切らねばならない。

「......吉良へ、行ってもらいます」

円の目が、わずかに揺れた。

揺れたが、泣かない。

泣き方を、まだ知らない。

「婚姻、でございますか」

円が問う。

桂子は頷いた。

「そうです」

円は、少しだけ俯いた。

俯いたまま、静かに問う。

「......それは、国のためですか」

桂子は答えなかった。

答えれば、言い訳になる。

言い訳は、娘を救わない。


六 問いと沈黙

円は顔を上げた。

目が、少し赤い。

だが涙は出ていない。

涙を出す場所が、まだ無いからだ。

「母上」

円が言う。

「......私は、どうすればよいのですか」

桂子は、ようやく口を開いた。

「泣いてもよい」

円の目が、また揺れた。

「ですが――」

「泣いてもよい。ただし、今だけです」

桂子は静かに続けた。

「吉良へ着いたら、泣いてはなりません」

「泣けば、物語が私事に寄ります」

「私事に寄れば、鎖が飾りに見えます」

円は唇を噛んだ。

噛んだまま、声を出す。

「......私は、飾りではないのですか」

桂子は首を振った。

「飾りではありません」

そして、円の目を見た。

「鎖です」


七 鎖の意味

円は、その言葉を受け止めきれなかった。

鎖――。

それは、優しい言葉ではない。

だが桂子は、優しさで娘を送らない。

「鎖とは、何ですか」

円が問う。

桂子は、少しだけ間を置いた。

どう説明すれば、娘が理解できるのか。

理解させねばならない。

理解しなければ、円は壊れる。

「鎖は、目に見えません」

桂子は言った。

「ですが、確かにあります」

円は黙って聞いている。

「あなたが吉良の座敷にいる限り、吉良は今川を裏切れません」

桂子は続けた。

「裏切れば、あなたが傷つく」

「あなたを傷つければ、今川が動く」

一拍置いて。

「それが、鎖です」

円は、ゆっくりと息を吐いた。

吐いた息に、少しだけ震えがある。

「......私は、人質なのですね」

桂子は否定しなかった。

否定すれば、嘘になる。

嘘は、娘を守らない。

「人質でもあります」

桂子は静かに続けた。

「ですが、ただの人質ではありません」

円が顔を上げる。

「何が違うのですか」

桂子は答えた。

「帰る場所があります」


八 帰る場所

円の目が、また揺れた。

「......帰れるのですか」

桂子は頷いた。

「帰れます」

そして言葉を継ぐ。

「帰る場所が無ければ、鎖は恨みになります」

「恨みになった鎖は、国を壊します」

円は、少しだけ俯いた。

「いつ、帰れるのですか」

桂子は答えなかった。

答えられない。

それが、この婚の意味だった。

円は、桂子の沈黙で理解した。

「......分かりました」

声が震える。

震えたまま、円は続けた。

「母上は、私に何を望まれますか」

桂子は、娘の目を見た。

幼さはもうない。

だが、大人の顔でもない。

ただ、何かを背負おうとしている顔だった。

「吉良で、礼を守りなさい」

桂子は言った。

「礼を守れば、あなたは今川の顔になります」

そして静かに続けた。

「今川の顔であり続ける限り、あなたは守られます」


九 教えること

円は頷いた。

頷いたが、まだ涙は出ない。

桂子は続けた。

「礼とは、作法だけではありません」

円が顔を上げる。

「では、何ですか」

「間です」

桂子は答えた。

「怒りたいとき、一拍置く」

「泣きたいとき、一拍置く」

「叫びたいとき、一拍置く」

円は黙って聞いている。

「その一拍が、礼です」

桂子は言った。

「一拍があれば、刃は鞘に戻ります」

「戻った刃は、血を流しません」

円は、ゆっくりと頷いた。

「......分かりました」

だが、その声にはまだ震えがある。

桂子は、円の隣に座った。

そして、娘の肩に手を置いた。

「円」

「はい」

「今だけは、泣いてもよい」

円の目から、ようやく涙が零れた。

音を立てない涙だった。


十 母の手

桂子は、その涙を拭わなかった。

拭えば、優しさになる。

優しさは、娘を弱くする。

円は泣いた。

泣きながら、声を殺した。

声を殺した泣き方は、大人の泣き方だった。

桂子は、娘の肩に置いた手に、少しだけ力を込めた。

それだけが、桂子にできる全てだった。

円の涙が止まるまで、桂子は動かなかった。

灯りが一つだけ、二人を照らしている。

やがて、円が顔を上げた。

目が赤い。

だが、もう涙は出ていない。

「母上」

「何ですか」

「......吉良で、私は何をすればよいのですか」

具体的な問いだった。

泣き終わった円は、もう受け入れていた。

桂子は答えた。

「朝は早く起きなさい」

円が目を瞬かせる。

「座敷を汚さぬようにしなさい」

「言葉は短く、丁寧に」

「笑うときは、声を抑えなさい」

桂子は続けた。

「それだけです」

円は、少し驚いた顔をした。

「......それだけ、ですか」

桂子は頷いた。

「小さなことを、毎日続けなさい」

そして静かに続けた。

「小さなことを続ける者は、信用されます」

「信用されれば、鎖は固くなります」

円は、ゆっくりと頷いた。

「分かりました」

その声には、もう震えがなかった。

十一 夜の終わり

桂子は立ち上がった。

円も立つ。

二人は、向かい合った。

「明日から、支度が始まります」

桂子は言った。

「深雪がつきます。分からぬことがあれば、深雪に聞きなさい」

円は頷いた。

「はい」

桂子は、もう一度だけ娘を見た。

十五の顔。

幼さはもうない。

だが、大人の顔でもない。

ただ、何かを背負おうとしている顔だった。

「......円」

「はい」

桂子は、言葉を探した。

母として言うべきことが、あるはずだ。

だが、見つからない。

見つからないまま、桂子は言った。

「よく、眠りなさい」

それだけだった。

円は深く頭を下げた。

「おやすみなさいませ、母上」

円が部屋を出る。

足音が遠ざかる。

桂子は一人、座り直した。

灯りが一つだけ、机を照らす。

桂子は、筆を取った。

だが、墨が落ちない。

筆先が、わずかに震えていた。

桂子は筆を置いた。

深く息を吸う。

吐く。

震えは止まらない。

桂子は、目を閉じた。

娘の顔が浮かんだ。

泣いていた顔。

泣くのを止めた顔。

桂子は、その顔を消そうとした。

消えなかった。

消えないまま、桂子は灯りを消した。

暗闇の中で、桂子も泣いた。

音を立てない涙だった。


第五話 了



本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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