寿桂尼物語 第1章 東への花嫁 第三話 潮の口(しおのくち)
本作は、石田源志による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
寿桂尼物語 今川を支えた都の姫君 第1章 東への花嫁
※本作は史実を題材とした創作小説です。登場人物「桂子」は作者による創作設定です。
第三話 潮の口
一
津の港を発つ朝、桂子は初めて、海というものを見た。
都の池や川と違い、どこまでも動いている。その表も、ひと息ごとに形を変え、風が吹くたびに光が砕けた。波頭が白く泡立ち、遠くで鳥が鳴いている。空と水の境が曖昧で、世界がどこまでも続いているように見えた。
「これが……海というものなのね」
桂子は呟き、簾の外に目を細めた。
志乃は小さく頷き、船べりに片手をかけて周囲を警戒している。薙刀は背に預け、腰には短い刀を差していた。その姿は、もはや都の女房というより、武家の女護衛そのものだった。
深雪はその隣で、白い顔を伏せ、船の揺れに耐えていた。文箱を抱きしめ、唇を噛んでいる。船に乗るのは初めてで、足元が定まらないことに恐怖を感じているようだった。
波は荒くはない。
それでも、都の娘には、この揺れも十分に異界だった。桂子自身も、床が揺れるという感覚に慣れず、体が常にバランスを取ろうとしている。だが不思議と、その揺れは不快ではなかった。まるで大きな生き物の背に乗っているようで、海そのものが呼吸をしているように感じられた。
船は沿岸を東へと進む。
右手には陸地が続き、松林が風に揺れている。漁師の小屋が点在し、砂浜に網が干されていた。左手には果てしない海が広がり、水平線が霞んでいる。
兵部少輔が甲板に立ち、船頭と何か話していた。その視線は常に周囲を警戒している。海賊が出る、と事前に聞いていたのだ。だが今のところ、周囲に怪しい船影はない。
二
浜名の沖へ差しかかると、潮の色が変わりはじめた。
青の中に、淡い緑がまじり、底の砂が透けて見える。水の透明度が増し、魚の影が泳ぐのが見えた。波の音も変わり、どこか乾いた響きになる。
「姫さま、あれが"今切口"と呼ばれる所でございます」
供の一人が指さした。
桂子は簾を上げ、遠くに霞む陸を見た。湖と海を分けていた砂州が割れ、そこから白波が噴き出している。水の流れが激しく、まるで大地に裂け目ができたかのようだった。
「もとは、淡き湖であったそうにございます」
志乃が言う。
「しかし地が裂け、海とつながってより、潮が満ち引きいたします。このあたりの村々では、塩を焼き、魚をとるようになりました」
「地が……裂けた?」
深雪が顔を上げた。その目には恐怖と驚きが混じっている。
「はい。明応の大地震のとき、と聞いております。一夜にして湖が海となり、多くの村が波にのまれたそうです」
桂子は風を受けながら黙って聞いていた。
ひとつの国が、ひと晩のうちに形を変える——そんなことが本当にあるのか。けれど、それが現に起きたのだとすれば、自らの身にも、そうした"変化の潮"が押し寄せているのかもしれない。
都を離れ、血を見、海に乗り、やがて知らぬ土地で妻となる。それは桂子にとって、大地が裂けるほどの変化ではないのか。
船は今切の潮流に引き込まれ、わずかに傾いた。
甲板の板がきしむ。深雪が悲鳴を上げ、志乃が支える。水夫たちは声を掛け合い、櫂を押し出した。船体が左右に揺れ、波しぶきが甲板を濡らす。
「姫さま、船室へ!」
兵部少輔が叫んだ。だが桂子は動かなかった。簾の隙間から、その荒れる海を見つめている。
波が唸り、風が吹き荒れる。
だが桂子には、それが敵ではなく、ただ通り抜けるべき道のように思えた。潮は抗うものではなく、受け入れるものだ。そう直感した。
三
しばらくして、潮の流れが穏やかになる。
船頭が息をつき、沖を指して言った。
「これより向こうが遠江の国。そのさらに東が、今川さまの御領にございます」
桂子はその言葉に、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
海の向こうに、己の新しい居場所がある。その道を、この揺れる水面がつないでいる。もう京ではない。もう中御門の娘ではない。これから先、自分は今川の妻として生きるのだ。
深雪が小さく言った。
「姫さま……もう、戻れませぬね」
「ええ。」
桂子は短く答えた。
「でも、戻る必要もありません。」
志乃が桂子を見つめた。その目には、主への深い敬意があった。峠で血を見、海で揺れ、それでも折れずに前を向く姫の姿に、志乃は何かを見出していた。それは都の雅さとは違う、芯の強さだった。
ふと、風が髪を撫でた。
潮の匂いの中に、淡く甘い香が混じっている。桂子はその香に、かすかに京の記憶を見た。金襴の袖、桧皮葺の屋根、秋の虫の音。母の扇の音、父の静かな声、廊下に響く女房たちの足音。
だがそれらは、もう戻らぬ過去の岸にある。
桂子は目を閉じ、深く息を吸った。潮の香を、肺の奥まで取り込む。この匂いこそが、これから生きる世界の匂いなのだ。
四
志乃がそっと声をかけた。
「姫さま、もうすぐ陸が見えます」
桂子は小さく頷いた。
遠く、雲間から一条の光が差した。その光は海を渡り、桂子の膝に落ちた。白い手の上で揺れるそれを見つめながら、桂子は心の中でひとり言をつぶやいた。
――変わることを恐れぬ者のみが、新しい岸に立つことができるのだ、と。
やがて、水平線の向こうに陸地の影が見えてきた。
遠江の海岸線が、うっすらと姿を現す。松の緑、砂浜の白、そして山々の青。それは都の景色とは違う、荒々しく力強い風景だった。
兵部少輔が甲板に立ち、声を張り上げた。
「まもなく遠江の湊に着く! 姫さま、お支度を!」
深雪が慌てて立ち上がり、文箱を確認する。志乃は薙刀の位置を直し、桂子の傍に立った。
船が港に近づくにつれ、波の音が変わっていく。荒々しい海鳴りから、穏やかな波音へ。そして人の声、船の軋み、荷を運ぶ音が混じり始める。
桂子は簾の隙間から、その港を見つめた。
木造の桟橋、漁師たちの姿、干された網。そして、遠くに見える山々。あの山の向こうに、駿河がある。今川氏親が待つ、駿府の城がある。
「姫さま。」
志乃が静かに言った。
「もうすぐ、新しい国にございます。」
「ええ。」
桂子は立ち上がった。船の揺れにも慣れ、足元がしっかりと定まっている。
「これより先、わたくしは桂子ではなく、今川の妻として生きます。都の娘としてではなく、この国を守る者の妻として。」
深雪が目を潤ませた。
「姫さま……」
「泣くことはありません、深雪。」
桂子は微笑んだ。
「わたくしたちは、新しい岸に立つのです。そこでまた、新しい花を咲かせましょう。」
船が桟橋に着く。
縄が投げられ、板が渡される。兵部少輔が先に降り、周囲を確認した。
「姫さま、どうぞ。」
桂子は簾を上げ、初めて自らの足で船を降りた。
板が揺れ、足元が不安定になる。だが志乃が手を差し伸べ、桂子はその手を取った。一歩、また一歩と進み、ついに陸地に足をつける。
固い地面の感触。
潮の匂い、松の香、そして土の匂い。桂子は深く息を吸い、この国の空気を胸に刻んだ。
遠くで鐘が鳴る。
港町の鐘だろうか。その音は都の鐘とは違う、力強く鋭い響きだった。
桂子は東を向いた。
駿河への道が、そこから始まっている。
第四話へ続く
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
本文の連載は note版 にて公開しています。
設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




