寿桂尼物語 第四章 国の外を国にする 第四話 札の影
本作は、石田源志による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
一 落ち着かぬ口
今橋が落ち、田原が沈んだ。
帳面の上では、東三河は治まった。
だが桂子は、その"治まり"を信じなかった。
治まったように見える国ほど、底で何かが燻る。
政所の机には、今橋からの報せが積まれていた。
制札を立てた。
番を替えた。
渡しを押さえた。
すべて、順として正しい。
だが、正しいだけでは足りない。
正しさは、時に新しい火種を生む。
深雪が墨を磨りながら、ふと手を止めた。
「......城下が、少しざわついております」
桂子は顔を上げない。
帳面の行を一つ繰り上げるだけで答える。
「ざわつきの中身は?」
「"今橋の口が、厳しすぎる"と」
深雪は言葉を選んだ。
「......"勝ったのに、儲けが無い"と申す者も」
桂子は筆を止め、硯の黒を見た。
勝った直後の国は、必ず欲を吐く。
欲を止めれば、不満が溜まる。
不満は、噂を生む。
「それだけですか」
桂子が問う。
深雪は、少し黙ってから答えた。
「......"女が口を出しすぎる"とも」
桂子の手が、わずかに止まる。
止まったが、顔色は変えない。
「そうですか」
それだけだった。
二 橋のたもと
今橋の口では、朝比奈泰能が立っていた。
立っているだけで、周りの声が落ちる。
泰能は大声を出さない。
だが列を崩さない。
列が崩れなければ、口は噛まない。
「札を見せろ」
商人が札を出す。
札の端が汚れている。
泰能は札を返す前に、汚れた端を指で拭った。
拭ったのは汚れではない。
勝手だ。
「勝手に"通行の値"をつけるな」
声は低い。
「口で儲けるのは、国が儲けるときだけだ」
商人が喉を鳴らす。
反論は出ない。
だが、目の奥に不満がある。
不満は、声にならない。
声にならない不満ほど、後で燃える。
泰能は、それを知っていた。
知っていても、止められない。
止めれば、勝ちが腐る。
腐れば、次の戦が来る。
三 葛山の報せ
その日の夕暮れ、葛山氏広が駿府へ戻った。
鎧は着ていない。
だが歩き方が鎧だ。
氏広は政所に入ると、礼も短く紙を一枚置いた。
「今橋の口で、商人が揉めた」
氏広が言う。
「通行札の扱いで、勝手が出た」
一拍置いて。
「橋を押さえた者が、橋で儲けを始めている」
桂子は頷く。
入口を塞げば、入口が儲けになる。
儲けになった入口は、必ず腐る。
腐れば噂が燃え、噂は境を裂く。
「朝比奈殿は?」
桂子が問う。
「押さえています」
氏広が答えた。
「火は止めた。だが、口の周りは人が集まる」
そして低く続ける。
「人が集まれば、欲が集まる」
「欲が集まれば、勝手が生まれる」
桂子は筆を取り直した。
欲を消せない。
欲は生き物だ。
消せないなら、流す。
流れの中に順を置く。
順があれば、欲は堤を越えない。
四 余計な息
氏親は政所に座していた。
顔色は常と変わらない。
言葉も普段は問題ない。
ただ、ときおり息がひとつ余計に要る。
その"余計"が、桂子には合図になる。
氏親は庭の白を眺め、短く言った。
「噂は、風か」
「風です」
桂子は即答した。
「止められません。ただ、向きを変えられます」
氏親は目だけで笑った。
笑みというより、了承の印だ。
「向きを変えるには、何が要る」
桂子は、紙の束を一つ持ち上げた。
「言葉です。札です。順です」
氏親は少しだけ息を整え、頷く。
その頷きに、桂子は「国の形を変える許し」を見た。
五 駿府から届く紙
翌日、駿府から今橋へ使者が向かった。
桂子の紙を運ぶ。
紙には、短く書かれていた。
――通行札を「札売り」にする者、即刻改め。
――橋・渡しの番は、交替制とし、名を帳面に残す。
――口の周りに「市」を立てる。ただし、値は政所が定める。
朝比奈泰能は紙を受け取り、読まずに"重さ"を測った。
桂子の紙は軽くない。
軽いふりをしているだけだ。
泰能は一言だけ命じた。
「札を立てろ」
板が運ばれ、墨が落ちる。
禁ずる言葉が並ぶ。
禁じるのは、商人ではない。
勝手だ。
勝手に値が生まれる流れだ。
そして泰能は、もう一つだけ手を入れた。
「市を立てる。今日からここで売れ」
一拍置いて。
「ここ以外で売るな」
商人の目が変わる。
禁じられても、人は食う。
食うには売る。
売る場所が必要だ。
場所を与えれば、勝手は減る。
勝手が減れば、噂が減る。
噂が減れば、境が静かになる。
六 女の政
だが、噂は別の形で広がった。
「政所の札が、民を締めている」
「女が口を出しすぎる」
囁きは、城下から政所へ届く。
届いた言葉は、誰かの口から誰かへ渡る。
渡るたび、言葉は少しずつ形を変える。
変わった言葉は、刃になる。
深雪が夜、桂子に報せた。
「殿の御前で、"女の政"と申す声が......」
桂子は灯りを見ずに答えた。
「女だから言えることがあります」
筆を取り、帳面の余白に一行だけ記す。
「男だから言えることもあります」
そして顔を上げた。
「国が崩れるのは、刃で裂けたときではない」
一拍置いて。
「順が腐ったときだ」
深雪は、黙って頷いた。
七 喉という名
その夜更け、葛山氏広が再び政所を訪れた。
桂子は一人、帳面を閉じようとしていた。
襖の向こうで足音が止まる。
聞き覚えのある、鎧を着ない鎧の歩き方。
「御台様」
氏広の声が、低く届く。
桂子は襖を開けた。
氏広が立っている。
顔に疲れはない。
だが、目の奥に何かがある。
「......次は、口ではありません」
氏広が言う。
「口の奥が動きます」
桂子は筆を止めた。
「口の奥とは」
氏広は短く答えた。
「福島です」
その名を聞いた瞬間、桂子は理解した。
福島正成――奉行の顔をした男。
秩序の言葉ほど、反乱の旗に使いやすい。
だからこそ、奉行の火は怖い。
「何を言っている」
桂子が問う。
氏広は答えた。
「"政所の札が、民を締めている"と」
そして低く続ける。
「"女が国を誤らせる"と」
桂子は、その言葉を静かに受け止めた。
女――。
その言葉は、刃ではない。
だが、刃より深く刺さる。
八 火種の正体
「福島様は、どこで?」
桂子が問う。
「評定の場です」
氏広が答えた。
「殿の前で、正しさの顔をして言います」
氏広は一拍置いた。
「"民のため"と」
「"国のため"と」
桂子は頷いた。
正しさは、最も厄介な火種だ。
正しさで攻められれば、反論が悪に見える。
悪に見えた言葉は、国を割る。
「......分かりました」
桂子は襖を閉じかけ、止まった。
「氏広殿」
「はい」
「福島を、明日呼びます」
氏広の眉が動く。
「呼ぶ、ですか」
桂子は頷いた。
「火は、燃える前に包みます」
そして静かに続けた。
「燃えてからでは、遅い」
氏広は深く頭を下げた。
「......承知いたしました」
氏広が去る足音が、廊の奥へ消える。
九 福島正成
翌日、福島正成が政所へ呼ばれた。
福島は、丁寧な足音で入ってきた。
膝をつき、礼をし、顔を上げる。
目に刃はない。
だが目に"正しさ"がある。
正しさは人を刺す。
桂子は、その目を見た。
会うのは初めてだった。
だが、想像通りの顔だった。
秩序の顔をして、秩序を壊せる顔。
「福島様」
桂子が名を呼ぶ。
「はい」
「今橋の札について、何か申したいことがあるか」
福島は、わずかに目を伏せた。
伏せたが、すぐに顔を上げる。
「......恐れながら」
声は低く、丁寧だ。
「政所の札が、民と商いを締めております」
桂子は、何も言わずに聞いている。
福島は続けた。
「勝手に値が生まれる流れを止めることは、理解いたします」
そこで一拍置いた。
「ですが、締めすぎれば、別の火が生まれます」
桂子は問うた。
「どのような火ですか」
福島は答えた。
「飢えです」
その言葉に、政所の空気が一段落ちた。
十 正しさという刃
「商いが滞れば、兵糧も滞ります」
福島は、静かに続けた。
「兵が飢えれば、刃が戻ります」
そして、桂子を見た。
「刃が戻れば――国が割れます」
桂子は、その言葉を受け止めた。
受け止めたが、表情は変えない。
「では、どうすればよいと思うか」
福島は、少し間を置いてから答えた。
「......札を、緩めるべきかと」
桂子は首を振った。
「札を緩めれば、勝手が戻ります」
「勝手が戻れば、口が腐ります」
そして静かに続けた。
「腐った口は、国を噛みます」
福島は、目を伏せた。
伏せたまま、言う。
「ですが、このままでは――」
「このままで結構です」
桂子が言葉を切った。
静かな切れ方だった。
切れ方が静かな言葉ほど、恐ろしい。
福島は、そこでようやく桂子を見た。
見下ろすわけではない。
測る目だった。
測る目は、秩序を物差しにする。
物差しの先は、人の喉に刺さる。
十一 責を負う者
「では、誰が責を負います」
福島が言う。
「札で止めた結果、飢えた者が出たなら」
桂子は答えた。
「責は、札に負わせます」
福島の眉が、初めて動いた。
札は紙だ。
紙は責を負わない。
そう言いたい顔だった。
桂子は続けた。
「札は、言葉です」
「言葉は、国の責です」
そして紙束を押し出した。
「だから、札は"私"ではなく、"国"の札にします」
福島が口を結ぶ。
「連署にします」
桂子は言った。
「政所の札は、桂子の札ではない」
「氏親殿の札であり、朝比奈殿の札であり、葛山殿の札である」
一拍置いて。
「そういう形に」
福島は、沈黙のまま頭を下げた。
負けたわけではない。
引いただけだ。
引いた者は、次に喉へ回る。
喉へ回れば、火は残る。
十二 波
そのとき、氏親が小さく咳をした。
咳ではない。
息が、詰まった。
桂子は、すぐに氏親を見た。
氏親は手を上げる。
大丈夫だ、という合図だった。
だが、息がひとつ余計に要った。
福島は、その様子を見ていた。
見ていたが、何も言わない。
ただ、目の奥に何かが灯った。
桂子は、その灯りを見逃さなかった。
十三 退く火
氏親が、短く言った。
「福島」
福島が顔を上げる。
「お前の言う"国のため"は聞いた」
氏親の言葉は短い。
短いほど重い。
その重さが、今の氏親には似合っていた。
「だからこそ、余計な火を運ぶな」
氏親は続けた。
「火は、燃える場所を選ばない」
福島の目が一瞬だけ泳いだ。
泳いだのは恐れではない。
自分の正しさが、火だと名指しされたことへの驚きだ。
「......承りました」
福島は退いた。
丁寧な足音で、襖の向こうへ消えた。
消えても、火は消えない。
火は喉に残る。
十四 冷たい白
福島が去ったあと、政所の空気が少し軽くなった。
軽くなった空気は、油断を呼ぶ。
桂子は軽さを喜ばない。
軽さは、次の波の前触れになる。
深雪が囁いた。
「殿......」
氏親はいつも通り座している。
けれど今日は、息がひとつ余計に要った。
桂子はその余計を見て、あえて言葉を増やさなかった。
言葉を増やすと、喉が腫れる。
喉が腫れれば、声が変わる。
桂子は立ち上がった。
「少し、外へ」
庭へ出る。
白砂が、夕暮れの光を返している。
美しい。
だが、その白さが今日は少し冷たく見えた。
桂子は、白を見つめた。
福島の火は、まだ燻っている。
氏親の波は、また来る。
そのとき、国は回るのか。
答えは、まだない。
だが問いは、すでにそこにあった。
桂子は深く息を吸った。
吐く。
吸う。
吐く。
明日もまた、政が続く。
福島の火が消えぬまま。
第四話 了
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
本文の連載は note版 にて公開しています。
設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




