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寿桂尼物語 第四章 国の外を国にする 第三話 田原の誓い

本作は、石田源志による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

一 奥歯

今橋の口が塞がれたとき、東三河は息を呑んだ。

息を吐けば、次は田原へ届く。

桂子は駿府で、その距離を指の腹で測った。

地図の上で測るのではない。

噂と恐怖の速さで測る。

「今橋は口。田原は――」

深雪が言いかけて、言葉を飲む。

桂子は筆を置かずに答えた。

「奥歯です」

一拍置いて、続ける。

「噛む力が残っていれば、いつでも噛み切られます」

政所に置かれた帳面には、今橋の戦後処理が並んでいる。

制札、番の差し替え、渡しの管理。

勝ちが崩れていない。

そこに安堵する前に、次の順を置く必要があった。


二 短い言葉

氏親は今日も座している。

顔色は常と変わらない。

だが、言葉が短い。

桂子はその短さを恐れなかった。

恐れるべきは、短さではなく詰まりだ。

政が詰まれば、国が揺れる。

「田原は、どうする」

氏親が言う。

桂子は一拍だけ置き、氏親の目を見た。

「落とすのではなく、沈めます」

そして静かに続けた。

「沈め方は、紙です」

葛山氏広が控えていた。

紙の束を持っている。

誓紙の雛形。

禁制の文言。

処遇の条項。

武の匂いを残した顔が、紙の白さと噛み合わない。

だが、噛み合わないからこそ、紙は効く。

武が紙を持つと、言葉は刃になる。


三 面子という出口

「戸田は、面子が要る」

桂子が言う。

氏広が眉を動かす。

面子を与えることは、甘さに見える。

だが、面子の出口がなければ、相手は死ぬしかなくなる。

死ぬしかない者は、必ず刃を振るう。

「面子は、出口です」

桂子は続けた。

「出口を与えれば、刃は鞘に戻ります」

一拍置いて。

「戻らない刃は、次の夜を呼ぶ」

氏親は頷く。

頷きが、決裁だ。

「朝比奈に任せる」

氏親が短く言う。

桂子は首を振った。

「朝比奈殿には、現場の形を」

「葛山殿には、言葉の形を」

「牧野には、土地の形を」

そして、氏親を見る。

「殿は――最後の形を」

氏親は、薄く笑った。

それは、笑みというより、了承の印だった。


四 海風の匂い

田原へ向かう道は、海風の匂いが濃くなる。

戦が近い匂いではない。

港と塩と、冷えた土の匂いだ。

田原の城下は、すでに"勝った側の足音"を聞いていた。

朝比奈泰能は、先に場を整えた。

火を入れるな。

乱取りをするな。

私闘をするな。

命令は今橋と同じだが、意味は少し違う。

今橋では勝ちを壊さないため。

田原では、屈服を成立させるため。

屈服とは、恐怖だけでは生まれない。

恐怖に形が加わったとき、ようやく生まれる。

朝比奈は、城下の一角に机を置かせた。

机が置かれると、人は「終わり」を感じる。

終わりを感じれば、刃は止まる。


五 刃ではなく鞘

牧野が来た。

先陣の泥は落ちていない。

だが目の奥の熱は、今橋より冷えていた。

勝利の熱を持ち込めば、田原は燃える。

燃えれば、戸田は沈まない。

牧野は、それを知っている。

「......ここは、刃じゃない」

牧野が小さく言う。

朝比奈は頷く。

「刃は、もう見せた。今日は鞘だ」

そこへ葛山氏広が到着した。

紙を抱えている。

紙は軽い。

だが、軽いほど恐ろしい。

軽いものほど、広く飛ぶ。

氏広は机の前に立ち、紙を広げた。

そして、城の方を見上げた。

田原の天守は高くない。

だが、海風を背にすると妙に強そうに見える。

強そうに見えるうちは、屈服は生まれない。

屈服は、強さが"意味を失った"ときに生まれる。

「呼べ」

氏広が言う。

声は大きくない。

だが、背後に主力がいる。

声は量に支えられている。

量に支えられた言葉は、刃より怖い。


六 紙の音

やがて、城から使者が出た。

武具は整っている。

顔は硬い。

その硬さは、意地ではなく恐怖に近い。

恐怖は、人を硬くする。

「戸田は、何を望む」

葛山氏広が問う。

問いは情ではなく、条件の入口だ。

使者は口を開きかけ、閉じた。

答えが用意されていない。

――それだけで、城内が割れているのが分かる。

朝比奈泰能が一歩だけ前に出た。

「火は入れぬ。民も殺さぬ」

そこで一拍置き、声を落とす。

「だが、順に従え」

間を置いて。

「従わぬなら、次は順で潰す」

氏広が紙を一枚、机の上に置いた。

誓紙の雛形だ。

軽い。

だが軽いほど飛ぶ。

飛ぶほど縛る。

「これは雛形だ。ここで署名は要らぬ」

氏広は淡々と言う。

「持ち帰れ。城内で決めろ」

そして静かに続けた。

「決まったなら、名代を出せ」

使者の喉が鳴った。

彼は紙を取る指先にだけ力を込め、深く頭を下げた。

「......承った」


七 沈める音

使者が城へ戻ると、田原の時間が一度止まった。

城内では評定が始まる。

誰が屈するかではない。

どう屈するかだ。

どう屈するかが決まらなければ、戸田は戸田として残れない。

日が傾くころ、城門が再び開いた。

出てきたのは使者ではない。

紋の入った羽織を着た名代――

家の言葉を背負える男だった。

氏広は何も言わず、硯を押し出した。

名代は座り、筆を取る。

その手は震えていない。

震える役目は、もう使者が背負ってきた。

墨が落ち、紙に名が生まれる。

それは城より重い。

朝比奈が最後に命じた。

「制札を立てろ」

禁ずる言葉が並ぶ。

勝者の欲を縛る縄が、城下に掛かる。

田原の風は冷たい。

だが、風の中に火の匂いがない。

火を止めた勝利は、怨みを薄める。

八 紙の重さ

屈服は、叫びではなく、紙の音で生まれた。

筆先が紙を擦る音。

その小さな音が、東三河を一段沈めた。

桂子は駿府で、その報せを受けた。

帳面に一行だけ記す。

――刃で落とし、紙で沈め。

墨が乾くのを待たずに、桂子は筆を置いた。

今橋は口。

田原は奥歯。

口と奥歯が塞がれば、次は喉だ。

喉が動くとき、国は言葉を失う。

言葉を失った国は、刃に戻る。

桂子は、次の順を探し始めた。

まだ火は見えない。

だが、火種は必ず残る。

火種が燃える前に、順を置く。

それが、政所の仕事だった。


第三話 了


本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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