寿桂尼物語 第四章 国の外を国にする 第二話 今橋の口
本作は、石田源志による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
一 波の前
駿府の朝は、いつもと違った。
白砂の庭に落ちる光は澄んでいる。
枝影も静かに揺れている。
だが、何かが違う。
桂子は政所へ向かう廊を、一歩だけ静かに踏んだ。
急がないためではない。
今日の駿府は、急げばどこかが欠ける――そういう朝だった。
政所の襖を開けると、氏親はすでに座していた。
顔色は常と変わらない。
眼も冴えている。
だが、言葉の端に"間"が落ちる。
咳でも熱でもない。
息が、ひとつ余計に要るだけ。
桂子は、それを見逃さなかった。
見逃せば、政が一拍遅れる。
遅れは、そのまま国の乱れになる。
「今橋の口が、塞がる」
氏親の声は低く短い。
桂子は帳面を開き、硯に水を落とす音だけを返した。
二 順を先に
「殿。口を開くのは、扉ではなく順です」
桂子は静かに言った。
「先に順を置きましょう」
氏親は、目だけで頷いた。
その頷きが、今日の決裁だった。
言葉が少ない日ほど、頷きは重い。
葛山氏広が控えていた。
背は高く、顔立ちは硬い。
武の匂いを消せない男だが、今朝の役は刀ではない。
氏広の前には、紙がある。
条項の骨。
文言の骨格。
甘くすれば次が崩れ、辛くすれば火種が残る。
その境目を、氏広は知っている。
「牧野は、先陣に」
氏親が言う。
「はい。先陣は牧野。主力は朝比奈殿」
桂子が言葉を継ぐと、氏広がわずかに目を動かした。
朝比奈泰能――掛川の朝比奈。遠江の要。
武名で飾るより、勝ちの形を崩さぬことを選ぶ男だ。
今橋は"口"である。
落とせば終わりではない。
落とした後が、もっと厄介だ。
口は勝っても噛みつく。
噛みつかせぬ"型"がいる。
三 言葉を刃に
桂子は筆を走らせた。
「乱取り厳禁」
「火入れ禁ず」
「私闘禁ず」
「橋・渡し・舟、勝手に動かすな」
言葉は、国の形になる。
桂子は、その形を先に置いた。
氏親は少しだけ息を整え、短く言った。
「葛山。崩れるな」
氏広は深く頭を下げる。
答えは不要だ。
崩れぬために動け――それだけが命だった。
四 刃が裂く
西へ。
道は冷たく、風は乾いている。
今橋へ向かう軍勢の先には牧野がいた。
だが、牧野"だけ"ではない。
列が列を呼び、旗が旗を増し、兵は点ではなく面になってゆく。
面ができれば、城は息苦しくなる。
城が息苦しくなれば、迷いが生まれる。
主力は朝比奈泰能のもとに据わった。
掛川の朝比奈は、前に出て叫ぶことをしない。
だが、列を崩さない。
列が崩れなければ、城は折れる。
太鼓が鳴る。貝が鳴る。
矢が空を黒くし、竹束が進み、楯が寄る。
梯子が掛かる。
攻め手の声は意外に少ない。
叫ぶのは城の方だった。
牧野は門際へ寄った。
先陣とは、刃だ。
刃は一点を裂く。
だが、刃だけでは折れる。
折れぬために、背後に"体"がいる。
押し返される。倒れる者が出る。土が赤くなる。
それでも列が崩れない。
後ろが埋める。
前がまた立つ。
刃が裂いたところへ、体が押し込む。
押し込むのは、数と順だ。
五 勝ちが壊れるとき
朝比奈の命が走る。
「二番、前へ。槍を立てるな、押せ」
「矢を継げ。梯子、替えろ」
声は大きくない。
だが、兵が同じ方向へ動く。
同じ方向へ動く軍勢は、城より固い。
門が歪んだのは、牧野が強かったから"だけ"ではない。
歪ませたのは、数と順だった。
木戸の金具が外れ、割れた隙間から城内の空気が漏れる。
城内の誰かが後ろを見た。
誰かが声を止めた。
迷いが生まれる。
迷いが裂ける。
その裂け目へ、先陣が刺さり、主力が押し込む。
今橋は落ちた。
だが、勝ちはここから壊れやすい。
兵が熱を持つ。
城下が怯える。
火が欲を呼ぶ。
欲が噂を呼ぶ。
噂が次の戦を呼ぶ。
朝比奈泰能が最初に言ったのは、それを断つ言葉だった。
「火を入れるな」
続けて、短く。
「乱取り、厳禁。私闘も禁ず。破れば首だ」
"慈悲"の言葉ではない。
管理の言葉だ。
管理される勝ちは、国になる。
六 札が立つ
牧野が近づいた。
甲冑に泥が乾き、眼の奥に戦場の色が残っている。
朝比奈は礼も手短に、ただ確認する。
「城内の要所は押さえたな」
「押さえた」
「なら、口を噛ませるな。橋の番を替える」
朝比奈はすぐに人を振り分けた。
木戸の鍵を押さえる者。
橋の番を立てる者。
舟を動かす者を決める者。
勝利が支配へ変わるのは、ここからだ。
そこへ、駿府から使者が着いた。
馬は汗に濡れ、口から白い息を吐く。
渡された包みの中には、紙があった。
桂子の整えた文言が、氏広の手で骨になり、氏親の頷きが行間に刃を残した紙だ。
朝比奈は紙を開き、読むでもなく"重さ"を測るように指で押さえた。
「制札を立てろ」
板が運ばれ、墨が落ちる。
「火入れ禁止」
「乱取り禁止」
「私闘禁止」
禁じる言葉は、勝った側の欲を縛る縄だ。
縄がなければ、勝者は自分の勝ちで溺れる。
制札が立つと、城下の音が一段落ちた。
泣き声は残る。
呻きも残る。
血の匂いも残る。
だが、火が広がらない。
それだけで、町は生き残る。
七 口は噛まぬ
葛山氏広は、少し遅れて今橋に姿を見せた。
馬を降りると、まず制札を見る。
次に橋を見る。
次に兵を見る。
戦を見に来たのではない。
勝ちの形が崩れていないかを見に来た。
「......口は、噛みつかぬか」
氏広が言う。
朝比奈は短く答えた。
「噛ませぬ。番は替えた。舟も押さえた」
牧野は城の方を見た。
城は落ちた。
だが、城下が燃えていない。
勝ちは、勝った瞬間より、勝った後のほうが難しい。
牧野もそれを知っている。
「今橋は、口だ」
牧野が低く言った。
「口は、油断すると喉を裂く」
「裂かせぬ」
朝比奈が返す。
「裂けぬように、順を置く」
その"順"は、駿府で桂子が先に置いた言葉から始まっていた。
氏親は普段は何もない。
だが、たまに波が来る。
波が来る日に政が詰まれば、国は揺れる。
揺れぬように、桂子は今日、言葉で堤を築いた。
今橋の口は、今川の呼吸になりはじめる。
血の匂いの上に札が立ち、札の上に番が立つ。
戦で落ち、順で固まる。
口が噛みつかぬとき――それは、国が国として動いた証だった。
第二話 了
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
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設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
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本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




