表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/28

寿桂尼物語 第四章 国の外を国にする 第一話 風向き

本作は、石田源志による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

第1話 風向き

一 

駿府に届いたのは、二つの報せだった。

永正十五年(1518)、初夏。

伊勢宗瑞、死去。

桂子はその文を読み、静かに畳んだ。墨の匂いが、まだ新しい。急ぎ書かれた文だと分かる。

氏親は何も言わない。ただ、しばらく庭を眺めてから、短く告げた。

「動かぬ」

病ではない。 だが、当主が隣国の奥深くへ出向く理由もない。

「葛山を送れ」

その一言で、すべてが決まった。

桂子は文を見つめた。宗瑞――あの婚礼の夜、庭で言葉を交わした老将。その人が、この世を去った。

「氏広殿は……」

桂子が呟くと、氏親は小さく頷いた。

「父を失う悲しみもあろう。だが、それ以上に見るべきものがある」

その声には、何かを予感する響きがあった。


二 

道中、氏広は違和感を覚えていた。

境目の村が静かすぎる。

武装した者がいないわけではない。だが、視線が定まらない。誰もが"次"を測っている。槍を持つ手が、どこか宙を掴んでいる。

父が亡くなった。

その報を聞いたとき、氏広の胸には悲しみよりも、別の感情が先に来た。

――終わったのだ。

氏広は馬上で思った。

伊勢は、もう一人の男の家ではない。

村の者たちが頭を下げる。その所作は丁寧だが、心はどこか遠い。弔問に向かう今川の使者を見送っているのではない。次に来る「何か」を、待っている。

氏広は供の者に目配せした。

「警戒を緩めるな」

「はっ」

悲しみの国は、静かだ。 だが、変わろうとする国も、静かだった。


三 

葬の場は、整っていた。

泣き声は少ない。嘆きも短い。 弔問の言葉より、席順と動線がよく考えられている。

氏広は焼香を終え、一歩下がった。

周囲を見渡す。家臣たちの顔に、乱れはない。喪失の色もない。ただ、次の指示を待つ目があるだけだった。

氏広は気づいた。

ここでは「誰が悲しむか」より、「誰が次に動くか」が先にある。

上座に、兄・氏綱が座していた。

若いが、揺れてはいない。背筋は伸び、目は前を向いている。父を失った息子の顔ではなく、すでに次を見据えた当主の顔だった。

氏広は深く頭を下げた。

兄は小さく頷いた。

言葉はない。だが、その目が語っていた。

――父の仕事は、終わった。

氏広は、その目を見て悟った。

父は、すでに政治の場から退いていたのだ。

この兄が、すべてを動かしている。そして、それを父は見届けて、逝った。


四 

控えの間で、氏広は兄と向き合った。

「氏広」

「兄上」

二人きりになると、氏綱の表情がわずかに緩んだ。当主の顔ではなく、兄の顔が戻った。

「父上は……」

氏広が言いかけると、氏綱は小さく笑った。

「最期まで、家のことを案じておられた」

「それで、満足されたか」

「ああ」

氏綱は窓の外を見た。

「『家が回るか見届けたい』と仰っていた。そして、回ることを確かめて、逝かれた」

氏広は黙って聞いていた。

「氏広、お前は駿府で何を見ている」

不意の問いだった。

「……人を、見ています」

「人か」

氏綱は頷いた。

「それが今川の強さだ。だが、それは同時に弱さでもある」

「分かっています」

氏広は答えた。

「人がいなければ、回らない」

「そうだ」

氏綱は机の上の書状を見た。

「父上が遺したのは、人がいなくても回る仕組みだ」

その言葉に、氏広は胸が詰まった。

「それで、よいのですか」

「良いも悪いもない」

氏綱は静かに言った。

「それが、生き残る道だ」


五 

氏綱が机の書状を指した。

「見てくれ」

氏広は近づき、書状を手に取った。文は簡潔で、指示は明確。だが、何かが足りない。

「花押が……ない」

通常、重要な文書には当主の花押が入る。だが、ここにあるのは判だけだ。

「要らぬ」

氏綱の即答だった。

「花押は、誰が書いたかを示す。だが判は、家が認めたことを示す」

氏広は、机の端に置かれた朱を見た。

同じ形。同じ位置。同じ重さ。

「誰が押しても……」

「同じだ」

氏綱は書状の山を見た。

「それが、父上の遺したものだ」

氏広は理解した。

父が作ったのは、家ではない。 人がいなくても回る、仕組みだった。

「駿府は……」

氏広が言いかけると、氏綱が遮った。

「駿府には、まだ人がいる。御台所がおられ、殿がおられる」

「はい」

「それが強さだ。だが、氏親殿に万が一のことがあれば……」

氏綱は言葉を切った。

氏広は、その先を理解した。

駿府は、止まる。


六 

襖が開き、僧形の若者が入ってきた。

菊寿丸――いや、今は長綱と名乗る弟だった。

「兄上方」

その声は、以前より低く、落ち着いていた。だが、まだ若さが残っている。

「長綱」

氏広が声をかけると、長綱は深く頭を下げた。

「氏広兄上、お久しゅうございます」

「変わらぬな」

「いえ」

長綱は小さく笑った。

「変わりました。見た目は同じでも、中は違います」

氏綱が長綱を見た。

「こやつは、父上の教えを最もよく受け継いだ」

「兄上こそ」

長綱が答えた。

「私は僧として、剣も取ります。兄上は当主として、家を動かす。それが、父上の望みでした」

氏広は二人を見比べた。

兄は家を継ぎ、弟は僧となる。だが、二人とも剣を取り、采配を振る。

ただ、その立ち位置が違うだけだった。

父が遺した「型」を、守り、広げるために。

「御台所様は、お元気ですか」

長綱が不意に問うた。

「ああ、元気だ」

「よかった」

長綱は窓の外を見た。

「あの方の文は、今も心に残っています。理と情の両方をお持ちです」

氏広は頷いた。

「おぬしは……情を捨てたのか」

長綱は首を振った。

「いいえ。ただ、僧として、別の形で情を持ちます」

その言葉に、氏広は何も言えなかった。


七 

帰路、氏広は風を読んだ。

伊勢は悲しんでいないのではない。 悲しみを、型に押し込んだのだ。

文は早く回り、指示は滞らない。 誰かが欠けても、家は進む。

それは強さだった。

だが同時に、恐ろしさでもあった。

氏広は馬上で、駿府の政所を思い浮かべた。

あそこには、まだ「人」がいる。 御台所様がいて、深雪がいて、志乃がいる。 殿がおられ、氏親様がすべてを見ておられる。

だが伊勢には、もう「型」しかない。

どちらが強いのか。

氏広には、まだ答えが出せなかった。

駿府に戻れば、報せねばならない。 戦の話ではない。人数の話でもない。

――隣国は、速くなった。

文が回る速さ、判が押される速さ、指示が降りる速さ。

その速さが、いつか今川を追い越す。

氏広は、そう確信しながら馬を進めた。

境目の村を過ぎる。

風向きが、変わっていた。

伊勢から吹く風は、もう宗瑞の風ではない。

新しい風だった。

冷たく、鋭く、そして速い風。

その風が、駿府にも届く日が来る。

氏広は手綱を握り直した。

御台所様なら、この意味を理解されるだろう。

あの方もまた、帳面を見る目を持っている。

だが、理解することと、対応することは別だ。

今川は、この速さに追いつけるのか。

氏親様が倒れたとき、駿府は回るのか。

その問いを胸に、氏広は駿府への道を急いだ。

空が、わずかに曇り始めていた。

________________________________________

第2話へ続く




本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ