寿桂尼物語 第四章 国の外を国にする 第一話 風向き
本作は、石田源志による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
第1話 風向き
一
駿府に届いたのは、二つの報せだった。
永正十五年(1518)、初夏。
伊勢宗瑞、死去。
桂子はその文を読み、静かに畳んだ。墨の匂いが、まだ新しい。急ぎ書かれた文だと分かる。
氏親は何も言わない。ただ、しばらく庭を眺めてから、短く告げた。
「動かぬ」
病ではない。 だが、当主が隣国の奥深くへ出向く理由もない。
「葛山を送れ」
その一言で、すべてが決まった。
桂子は文を見つめた。宗瑞――あの婚礼の夜、庭で言葉を交わした老将。その人が、この世を去った。
「氏広殿は……」
桂子が呟くと、氏親は小さく頷いた。
「父を失う悲しみもあろう。だが、それ以上に見るべきものがある」
その声には、何かを予感する響きがあった。
二
道中、氏広は違和感を覚えていた。
境目の村が静かすぎる。
武装した者がいないわけではない。だが、視線が定まらない。誰もが"次"を測っている。槍を持つ手が、どこか宙を掴んでいる。
父が亡くなった。
その報を聞いたとき、氏広の胸には悲しみよりも、別の感情が先に来た。
――終わったのだ。
氏広は馬上で思った。
伊勢は、もう一人の男の家ではない。
村の者たちが頭を下げる。その所作は丁寧だが、心はどこか遠い。弔問に向かう今川の使者を見送っているのではない。次に来る「何か」を、待っている。
氏広は供の者に目配せした。
「警戒を緩めるな」
「はっ」
悲しみの国は、静かだ。 だが、変わろうとする国も、静かだった。
三
葬の場は、整っていた。
泣き声は少ない。嘆きも短い。 弔問の言葉より、席順と動線がよく考えられている。
氏広は焼香を終え、一歩下がった。
周囲を見渡す。家臣たちの顔に、乱れはない。喪失の色もない。ただ、次の指示を待つ目があるだけだった。
氏広は気づいた。
ここでは「誰が悲しむか」より、「誰が次に動くか」が先にある。
上座に、兄・氏綱が座していた。
若いが、揺れてはいない。背筋は伸び、目は前を向いている。父を失った息子の顔ではなく、すでに次を見据えた当主の顔だった。
氏広は深く頭を下げた。
兄は小さく頷いた。
言葉はない。だが、その目が語っていた。
――父の仕事は、終わった。
氏広は、その目を見て悟った。
父は、すでに政治の場から退いていたのだ。
この兄が、すべてを動かしている。そして、それを父は見届けて、逝った。
四
控えの間で、氏広は兄と向き合った。
「氏広」
「兄上」
二人きりになると、氏綱の表情がわずかに緩んだ。当主の顔ではなく、兄の顔が戻った。
「父上は……」
氏広が言いかけると、氏綱は小さく笑った。
「最期まで、家のことを案じておられた」
「それで、満足されたか」
「ああ」
氏綱は窓の外を見た。
「『家が回るか見届けたい』と仰っていた。そして、回ることを確かめて、逝かれた」
氏広は黙って聞いていた。
「氏広、お前は駿府で何を見ている」
不意の問いだった。
「……人を、見ています」
「人か」
氏綱は頷いた。
「それが今川の強さだ。だが、それは同時に弱さでもある」
「分かっています」
氏広は答えた。
「人がいなければ、回らない」
「そうだ」
氏綱は机の上の書状を見た。
「父上が遺したのは、人がいなくても回る仕組みだ」
その言葉に、氏広は胸が詰まった。
「それで、よいのですか」
「良いも悪いもない」
氏綱は静かに言った。
「それが、生き残る道だ」
五
氏綱が机の書状を指した。
「見てくれ」
氏広は近づき、書状を手に取った。文は簡潔で、指示は明確。だが、何かが足りない。
「花押が……ない」
通常、重要な文書には当主の花押が入る。だが、ここにあるのは判だけだ。
「要らぬ」
氏綱の即答だった。
「花押は、誰が書いたかを示す。だが判は、家が認めたことを示す」
氏広は、机の端に置かれた朱を見た。
同じ形。同じ位置。同じ重さ。
「誰が押しても……」
「同じだ」
氏綱は書状の山を見た。
「それが、父上の遺したものだ」
氏広は理解した。
父が作ったのは、家ではない。 人がいなくても回る、仕組みだった。
「駿府は……」
氏広が言いかけると、氏綱が遮った。
「駿府には、まだ人がいる。御台所がおられ、殿がおられる」
「はい」
「それが強さだ。だが、氏親殿に万が一のことがあれば……」
氏綱は言葉を切った。
氏広は、その先を理解した。
駿府は、止まる。
六
襖が開き、僧形の若者が入ってきた。
菊寿丸――いや、今は長綱と名乗る弟だった。
「兄上方」
その声は、以前より低く、落ち着いていた。だが、まだ若さが残っている。
「長綱」
氏広が声をかけると、長綱は深く頭を下げた。
「氏広兄上、お久しゅうございます」
「変わらぬな」
「いえ」
長綱は小さく笑った。
「変わりました。見た目は同じでも、中は違います」
氏綱が長綱を見た。
「こやつは、父上の教えを最もよく受け継いだ」
「兄上こそ」
長綱が答えた。
「私は僧として、剣も取ります。兄上は当主として、家を動かす。それが、父上の望みでした」
氏広は二人を見比べた。
兄は家を継ぎ、弟は僧となる。だが、二人とも剣を取り、采配を振る。
ただ、その立ち位置が違うだけだった。
父が遺した「型」を、守り、広げるために。
「御台所様は、お元気ですか」
長綱が不意に問うた。
「ああ、元気だ」
「よかった」
長綱は窓の外を見た。
「あの方の文は、今も心に残っています。理と情の両方をお持ちです」
氏広は頷いた。
「おぬしは……情を捨てたのか」
長綱は首を振った。
「いいえ。ただ、僧として、別の形で情を持ちます」
その言葉に、氏広は何も言えなかった。
七
帰路、氏広は風を読んだ。
伊勢は悲しんでいないのではない。 悲しみを、型に押し込んだのだ。
文は早く回り、指示は滞らない。 誰かが欠けても、家は進む。
それは強さだった。
だが同時に、恐ろしさでもあった。
氏広は馬上で、駿府の政所を思い浮かべた。
あそこには、まだ「人」がいる。 御台所様がいて、深雪がいて、志乃がいる。 殿がおられ、氏親様がすべてを見ておられる。
だが伊勢には、もう「型」しかない。
どちらが強いのか。
氏広には、まだ答えが出せなかった。
駿府に戻れば、報せねばならない。 戦の話ではない。人数の話でもない。
――隣国は、速くなった。
文が回る速さ、判が押される速さ、指示が降りる速さ。
その速さが、いつか今川を追い越す。
氏広は、そう確信しながら馬を進めた。
境目の村を過ぎる。
風向きが、変わっていた。
伊勢から吹く風は、もう宗瑞の風ではない。
新しい風だった。
冷たく、鋭く、そして速い風。
その風が、駿府にも届く日が来る。
氏広は手綱を握り直した。
御台所様なら、この意味を理解されるだろう。
あの方もまた、帳面を見る目を持っている。
だが、理解することと、対応することは別だ。
今川は、この速さに追いつけるのか。
氏親様が倒れたとき、駿府は回るのか。
その問いを胸に、氏広は駿府への道を急いだ。
空が、わずかに曇り始めていた。
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第2話へ続く
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
本文の連載は note版 にて公開しています。
設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




