寿桂尼物語 第三章 順の居場所 外伝 第8話 構え
本作は、石田源志による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
一
宇津山の丘に足をかけた瞬間、風が変わった。
平地で肌にまとわりついていた湿りが、ここでは切れている。潮の匂いが薄く混じり、草の青さが際立つ。
朝比奈泰能は立ち止まり、掌をかざして浜名の湖を見渡した。
水面はひらけ、光がゆっくりと移ろう。南の今切口は、湖と海の境を裂くように白く輝き、風が海へ抜けていく音が、遠いのに確かに聞こえた。
「ここに目を置けば、すべてが見える」
従弟の泰長が息を呑んだ。
「まるで国の端を見下ろしているような」
泰能は微かに笑った。
「端であって、端ではない。境はただの線ではない。構えがなければ、国にはならぬ」
北を見れば、峠へ続く山のうねりがある。三河へ通じる筋だ。
木々の切れ目に、道が道として浮かぶ場所がある。道は、軍も、噂も、税も運ぶ。運ぶものを止められぬなら、せめて先に察するしかない。
東には湖。舟が点のように動き、舟着場の気配が見える。
荷は人を呼び、人は争いを呼ぶ。浜名の水は恵みであると同時に、刃でもある。
南は今切口。潮の入りが変われば、水の顔が変わる。
湖が海へ向けて開くその口は、締める場所でもあり、見張る場所でもある。
そしてこの丘は、そのすべてを一つに束ねている。
泰長が口を開きかけて、言葉を飲んだ。
泰能は、声を落として言った。
「城は、石を積む前に覚悟を積む。ここがそういう地かどうか、それを見に来た」
そして、少し間を置いてから、泰長のほうを見た。
「いずれ、この地を預けるのは、そなたになるやもしれぬ」
泰長は顔を上げた。
「私に、でございますか」
「まだ決まったわけではない。だが、この地には目が要る。耳が要る。そして、覚悟が要る」
風が一段強くなり、木々がざわりと鳴った。
音がする。音がするということは、ここが「聞こえる場所」でもあるということだ。
二
朝比奈は目を細め、南の森の向こうに霞む屋根を見とめた。
「妙立寺か」
泰長がうなずく。
「はい。吉美の寺にございます。古くから続く寺だと」
さらに少し視線をずらせば、もう一つ、別の屋根の気配がある。
古刹は祈りのためだけに立っているのではない。人が集い、季節が巡り、序列が刷り込まれていく場でもある。
朝比奈は、短く言った。
「祈る者もまた、この地に構えを持っているということか」
その言葉に続きはなかった。
ただ静かに、朝比奈はその方向をしばらく見ていた。
寺は動かぬもの、と人は言う。だが、国が動けば寺もまた動く。
朝比奈は、その予感を胸に留めた。
三
下山の途中、朝比奈は道をそれて、森の中にひっそりと構える寺へ向かった。
東雲寺。摩利支天を祀る寺である。
「戦の神か」
泰長が答える。
「はい。しかしこの地では命を守る神としても信仰が深いとか」
朝比奈は頷き、堂前に立って静かに手を合わせた。
祈りは勝つためではない。勝ったあとの日々を保つためのものだ、と朝比奈は思う。
桂子の産は近い。
武に生きる身が、何を祈れるかは分からぬ。だが命を迎える構えもまた、国を築く一部なのだと、どこかで感じていた。
風が杉を揺らし、葉の擦れる音が境内に満ちた。
朝比奈は一礼し、何も言わずに踵を返した。
四
帰路、駿府へ送る報告の文を巻きながら、朝比奈は筆を止めた。
「宇津山、視認良好。三河筋の道、遠淡海、今切口を確認」
「境の察知、湖の海運監視、浜名支配の要として有望」
「防備を置く地として、早急の検討を願う」
そして余白に、誰に見せるでもない小さな字を添えた。
「東雲寺にて祈る。命を迎える構えもまた、しかるべき地にて」
巻紙を結び、朝比奈は空を見上げた。
風はまだ高い。
国もまた、まだ高いところにある。だからこそ、構えを置く。
泰長が馬を引きながら、小声で言った。
「泰能様、この地に城が立てば、遠江は本当に今川の内になるのでしょうか」
泰能は答えなかった。
答えの代わりに、もう一度だけ宇津山を振り返った。
丘は静かだった。
だが、その静けさの中に、国の骨が立ち始めている。
石を積む前に、覚悟を積む。
それが、この地に残すべきものだった。
泰能は馬に跨り、駿府へ向かって歩き始めた。
泰長もその後に続く。
風が背を押す。
その風の中に、泰能は確かに聞いた。
国が、形を持ち始める音を。
そして、いずれこの地を守る者の、静かな覚悟の音を。
【外伝 了】
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
本文の連載は note版 にて公開しています。
設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




