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寿桂尼物語 第三章 順の居場所 第七話 継ぐもの

本作は、石田源志による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

書状は簡潔だった。

簡潔なぶんだけ、風の匂いがした。

桂子は政所で、朝比奈から届いた報告を読んでいた。宇津山の地勢、浜名湖の眺望、三河への道筋。淡々とした文だが、その淡々とした中に、確かな視線があった。

氏親が傍らに立ち、同じ書状を見ていた。

「宇津山か」

「はい。三河からの道を見張り、浜名の舟を締める。遠江を『内』にするには、ここに目が要ります」

桂子は地図を広げた。

遠江の東端。宇津山の位置に、まだ何も記されていない。白い余白が、そこにあった。

「ここに城を置けば、境が見える」

氏親は地図を見つめた。

「境を見るだけでは足りぬ。見て、押さえて、初めて境になる」

桂子は頷いた。

遠江は取った。だが、取っただけでは国にならない。

人を置き、目を置き、役目を置いて、初めて「内」になる。

深雪が茶を淹れ、桂子の前に置いた。

「姫様、宇津山に城を築くのでございますか」

「ええ。境を守るために」

深雪は地図を見た。

「大きな城になるのでしょうか」

桂子は首を振った。

「大きさではありません。位置です。この場所だからこそ、意味がある」

氏親は窓の外を見た。

「戦に勝つのは一日だが、境を描くのは季節を要する」

その言葉に、桂子は胸が詰まった。

氏親は、まだ戦っている。

剣ではなく、時間と。

その夜、館の空気がそわそわと揺れていた。

火の音が落ち着かない。廊下を行き交う足が、必要以上に静かだ。

桂子は座敷にひとりいた。

産室のほうから、声が漏れない。

漏れないことが、桂子には怖かった。

声は苦しさの証だ。声がないのは、耐えているのか、終わったのか。

侍女が、控えめに膝をつき、声を落として言った。

「ご出産……無事に、おわりました。男の子にございます」

桂子は、すぐに言葉が出なかった。

自らの身体から生まれた命。近いはずの命。

なのに、いまは何か遠い風のように感じられた。

痛みが去ったあとに残る空白が、胸の内に広がっている。

そこへ氏親が入ってきた。

足音は軽くない。だが重すぎもしない。

国主の歩き方だった。

「どうだ」

「元気だそうです」

氏親は短く頷き、ほんの一瞬だけ目の奥が緩んだ。

父の目、というより、背負う者の目だった。

「名は……そうだな。菊の季節に生まれたのだから、芳菊丸とでもしておこうか」

桂子はふと微笑んだ。

微笑みは喜びというより、息継ぎだった。

「菊は、咲くのに時がかかります。けれど、咲けば誰よりも香ります」

氏親はうなずいたあと、地図のある机へと歩いた。

宇津山の位置に目をやる。

その白い余白が、妙に現実味を帯びて見えた。

氏親がぽつりと言った。

「名など、なんでもいい。この子が継ぐものなど……今は、ない」

桂子の胸の奥が、きゅっと縮んだ。

冷酷な言葉ではない。現実を知る者の言葉だ。

桂子はこの子が第三の子であることを理解していた。

継ぐべき座は、すでに上にある。

この子はまだ、国の物語の中で役目すら与えられていない。

氏親は続けた。

「何を継ぐとも、まだ誰にもわからぬ。だから、形を先に置く」

桂子は、ゆっくりと頷いた。

母の頷きではない。統治の者としての頷きだ。

「だからこそ、形を先に残すべきです」

桂子はそっと帳面を開いた。

官位の昇進、寺社の処遇、国人の配属、年中行事。

さまざまな「形」がすでに記されている。

名は変わる。人は欠ける。だが形は、欠けた穴を塞ぐ。

深雪が傍に座り、静かに言った。

「姫様、この子も、いずれこの国を支える柱になるのでしょうね」

「ええ。でも、それがどんな柱なのかは、まだ誰にも分かりません」

志乃が廊下の端から、桂子を見ていた。

「姫様、篠丸も、いつかこの子と共に、この国を守るのでしょうか」

「そうなるかもしれません。だからこそ、形を残すのです」

桂子は筆を取った。

筆を取る手が、わずかに震えた。

震えは迷いではない。

産のあとに残る痛みと、国の先に置かれる未来の重さが、同じ手の中に入っているだけだ。

桂子は今日の日付を記し、新しい項目を書き加えた。

「宇津山、配置決定」

「三河境の察知。浜名湖海運の監視。浜名の支配の要」

「城郭予定地」

そしてその下に、もう一行を添えた。

「芳菊丸、誕生」

墨が紙に沈む。

国の形と、子の誕生が、同じ帳面の上で並んでしまう。

それが怖いほど正しい。

桂子は筆を置き、帳面を閉じなかった。

閉じれば、今日が「過去」になる気がしたからだ。

氏親が低く言った。

「宇津山は……この子のためでもある」

桂子は答えなかった。

答えれば、願いになってしまう。

願いはこの世では、時に弱みになる。

ただ桂子は帳面の端を指で押さえた。

紙がめくれぬように。

国が揺れぬように。

深雪が小声で言った。

「姫様、名は変わるもの。けれど形は、変えてはならぬもの」

桂子は微笑んだ。

「ええ。わたくしが言った言葉ですね」

「はい。姫様の言葉が、今、この帳面に残っています」

桂子は帳面を見た。

宇津山の配置と、芳菊丸の誕生。

二つの記録が、同じ日に並んでいる。

夜が更けた。

桂子は窓の外を見た。

遠江の方角に、まだ薄く煙が上がっている。

戦は終わった。だが、国を作る戦いは、まだ始まったばかりだ。

桂子は帳面を閉じた。

明日からまた、形を作っていく。

宇津山に城を築き、遠江を「内」にしていく。

そして、この子が大きくなる頃には、この国がもっと強く、もっと静かになっているように。

氏親が庭の白砂を見ていた。

「桂子殿」

「はい」

「形を残す者がいる。それが、この国の強みだ」

桂子は深く頭を下げた。

その言葉が、胸に深く沈んでいく。

氏親は続けた。

「刀で取った国は、刀で守れぬ。形で守る。順で守る。そなたが残した型が、この国の骨になる」

桂子は顔を上げた。

「わたくしは、都の娘。都の仕組みを知っている。それを、この国に伝えることが、わたくしの務めです」

氏親は頷いた。

「この国は、まだ形を持ち始めたばかりだ。だが、形があれば、人は迷わない」

「ええ。形があれば、国は止まりません」

桂子は窓の外を見た。

遠江の煙が、もう見えない。

戦は終わった。

そして、順が生まれた。

志乃が火鉢の炭をくべながら、静かに言った。

「姫様、篠丸も、いずれこの順の中で育ちます」

「ええ。そして、この子も」

桂子は帳面に手を置いた。

「この帳面が、子どもたちの世代を守ることになるのです」

深雪が灯を持ってきた。

「姫様、お部屋へお戻りください」

「ありがとう、深雪」

桂子は立ち上がった。

三人は廊下を歩いた。

静かな夜。遠くで祝いの声が聞こえる。だが、ここは静かだった。

桂子は、静かな誇りを胸に抱いていた。

検地で輪郭を作り、判の座で順を決め、地図で余白を埋めた。

年中行事で人を揃え、婚姻で柱を立て、帳面で記録を残した。

そして今日、新しい命が生まれ、新しい城の配置が決まった。

国は、少しずつ形を持ち始めている。

形があれば、人は迷わない。

形があれば、国は止まらない。

桂子は窓の外を見た。

駿府の町の灯が、静かに瞬いている。

その灯の一つ一つが、この順に支えられている。

何を継ぐかは、まだ分からない。

だが、継ぐべき形は、今、ここに残されている。

それが、寿桂尼が駿府に残していく、「順」だった。

【第3章 完】


本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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