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寿桂尼物語 第三章 順の居場所 第四話 年のしるし

本作は、石田源志による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

検地の帳面が揃い始めてから、城の空気は少し硬くなった。

筆の音が増えたぶんだけ、笑い声が減った。

誰かの田が、誰かのものではなく"国の中の一枚"になっていく。その変化は正しい。だが、正しさは、ひとを黙らせる。黙りが長引けば、不満は形を変えて溜まっていく――桂子には、それが怖かった。

帳面で国の形はできた。

だが、人の心はまだバラバラだった。

遠江の者は遠江の者として、駿河の者は駿河の者として、それぞれが別々の暦で暮らしている。同じ国になったはずなのに、春の訪れを祝う日も、田を始める日も、村ごとに違う。

それでは、まとまらない。

桂子は、それを感じていた。

帳面は、国の輪郭を作る。だが、輪郭だけでは人は帰属しない。

人が「同じ国に生きている」と感じるには、何が必要なのか。

桂子は、その答えを探していた。

ある夕刻、氏親が珍しく庭へ出た。

白砂の上に、梅の影が伸びている。風が止むと、花の匂いだけが残る。

氏親は、花を見ていたのではない。影の伸びる向き――季節の移り目の、わずかな兆しを見ていた。

桂子は縁に座り、その背中を見ていた。

氏親の肩が、わずかに落ちている。疲れているのだ、と桂子は思った。

検地は正しい。だが、正しいことをするのは、疲れる。

桂子は立ち上がり、氏親の傍に歩み寄った。

「殿」

氏親が振り返る。

「桂子殿か」

「お疲れではございませんか」

氏親は小さく笑った。

「疲れているが、止まるわけにはいかぬ」

桂子は頷いた。

「でも、少しは休まれてもよいのではございませんか」

「休めば、国が止まる」

その言葉に、桂子は胸が痛んだ。

氏親は、自分が止まれば国が止まると思っている。その責任感が、氏親を休ませない。

だが、それは違う。

国は、氏親一人で動いているのではない。家臣がいて、民がいて、そして桂子がいる。

桂子は、そっと言った。

「殿、国は殿お一人で動いているのではございません」

氏親は桂子を見た。

「分かっている。だが……」

「ならば、少しお休みください。そして、次のことをお考えください」

「次のこと?」

桂子は頷いた。

「この国に、"年"を植えましょう」


氏親は、桂子の言葉をしばらく反芻していた。

「年を植える……とは」

「春祭り、田の神事、正月の式。行事を揃え、皆が同じ時に同じことを行えば、それが国の"まとまり"になります」

桂子は続けた。

「検地で輪郭を作り、判の座で順を決めました。ですが、それだけでは人の心は動きません」

氏親は黙って聞いていた。

「都では、暦こそが国の骨でございました。人の暮らしは命令では動きません。年の流れに沿えば、自然と人も動くのです」

言い終えた瞬間、桂子はほんの少しためらった。

"自然と動く"――それは美しい言い方だ。だが、自然に見せるには、誰かが最初に"型"を置かねばならない。置く者は、嫌われることもある。

氏親は、桂子のその一瞬の間を見抜いたように、目を伏せた。

「......強いて揃えるのではない。揃えないままでは、また別の争いが起きる」

その言葉は、慰めでも命令でもなかった。国主としての、静かな吐息だった。

桂子は頷いた。

「では、準備を始めます」


翌日から、桂子は城下の寺社を訪ね歩いた。

深雪が政所で通達の準備を進め、志乃が桂子に付き添った。

「姫様、次は八幡宮にございます」

「ありがとう、志乃」

桂子は歩きながら、志乃に尋ねた。

「篠丸は、元気にしていますか」

「はい。小姓の務めを立派に果たしております」

志乃の声には、誇りがあった。

「それは良かった。いずれ、篠丸もこの行事に参加することになるでしょう」

「はい。その日を楽しみにしております」

二人は八幡宮に着いた。

社家の者が出迎え、深く頭を下げた。

「御台所様、ようこそお越しくださいました」

「春祭りの件で、お話をうかがいに参りました」

桂子は丁寧に言った。

社家の者は案内し、本殿の前に座した。

「当社では、古くから春の祭りを行っております。ですが、日取りは村ごとに異なっておりました」

「それを、同じ日に揃えたいのです」

桂子の言葉に、社家の者は少し考えた。

「それは……難しゅうございます。村ごとに、神の祀り方が違います」

「祀り方を変える必要はありません。ただ、日を揃えるだけです」

「ですが……」

桂子は優しく微笑んだ。

「神は、日を変えたからといって怒りはしません。大切なのは、心です」

社家の者は、桂子の目を見た。

そこには、都の姫の優雅さと、国を思う強さがあった。

「……分かりました。御台所様の仰る通りにいたしましょう」

桂子は深く頭を下げた。

「ありがとうございます」


春祭りの当日。

城下は妙に落ち着かない賑わいを見せた。

いつもなら村ごとに違う日取り、違う段取り、違う唄。それが今日は、同じ刻に、同じ太鼓が鳴る。

桂子は、境内の端で人の流れを見た。

並びが生まれている。自然に生まれたのではない。"場所"が用意され、"順"が書かれ、"言い方"が揃えられたから、生まれている。

神前に近いところには、家中の者。その後ろに、地侍。さらに後ろに村の年寄り。子らは一段下がった場所で、唄の番を待っている。

誰かが前へ出ようとすると、隣の者が袖を引く。叱るのではない。殴るのでもない。"順"が、争いの芽を指先で摘んでいく。

唄が始まったとき、桂子は息を止めた。

子どもの声は揃わない。音程も危うい。それでも、同じ節が同じ言葉で、町に流れる。その瞬間だけは、遠江も駿河もない。あるのは、「今川の春」だった。

深雪が傍に立ち、涙を流していた。

「姫様……美しゅうございます」

「ええ。これが、国の"年"です」

志乃も、遠くで篠丸を見つけた。

小姓の装束を着て、行列に並んでいる。その姿は凛々しく、志乃の胸を熱くした。

氏親が、少し離れた場所に立っていた。

甲冑ではない。儀礼のための装いでもない。ただ、ひとりの統治者として、黙って見ている。

桂子は、その横顔がほんの少し柔らかくなっているのに気づいた。

検地の地図の前で見せた、息の詰まった表情とは違う。"人が揃う"ことへの、安堵に近いものが滲んでいた。


祭が終わり、人が引いていく。

境内の土が踏み固められ、紙屑と花びらだけが残る。

桂子は政所へ戻ると、控えの帳面を開いた。

行事の順。場所の割り当て。唄の文句。子らに配る布の色。細かなことを、一つずつ書き留める。

"次の年も同じようにできるように"。

――それが、都のやり方だった。天才の記憶ではなく、誰でも辿れる道として残す。

帳面に墨を落とす指先が、少しだけ温かい。

検地のときのような冷えはない。これは奪うための筆ではなく、帰属を作るための筆だ。

夜。庭の闇に、まだ祭の残り香が漂っていた。

氏親がふいに、笑うとも息を吐くともつかぬ声を漏らした。

「順があるだけで、国は静かになるものだな」

桂子は、花の落ちた枝を見た。

静かになる――それは、誰もが黙ることではない。誰もが"自分の立つ場所"を知ることだ。

桂子は頷き、心の中で付け足した。

――静かになるのは、国が冷えたからではない。

――同じ年を生きると決めたからだ。

そして、帳面の端に小さく書き添えた。

来年のために。再来年のために。氏親がいなくても、誰かがこの順を辿れるように。

年を植える。

それは、国に"時間"を与えることだった。時間が根を張れば、人は同じ季節を共有し、同じ節目で心を揃える。その揃い方が、やがて序列になり、役割になり、帰属になっていく。

桂子は筆を置いた。

窓の外で、どこかの家の灯が一つ、消えた。

その暗さの中に、桂子は確かに見た。

来年もまた、同じ日に太鼓が鳴る未来を。同じ唄が、子らの口から自然にこぼれる未来を。

――人に教えるのではない。

――人が覚える仕組みを。

桂子は、誰にも聞こえぬ声でそう言った。


【第5話へ続く】

本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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