寿桂尼物語 第1章 東への花嫁 第2話 津への旅立ち
本作は、石田源志による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
寿桂尼物語 今川を支えた都の姫君 第1章 東への花嫁
※本作は史実を題材とした創作小説です。登場人物「桂子」は作者による創作設定です。
第二話 津への旅立ち
一
行列が京を発って三日。
桂子の唐車は、ようやく近江の野に入った。
都を離れてからというもの、風の匂いが変わった。香の煙と梅の花の代わりに、土の匂い、草の匂い、そして人の暮らしの匂いが混じる。それは決して悪いものではなかった。ただ、知らぬ世界だった。
桂子は薄く開いた簾の隙間から外を見つめる。
屋根瓦の欠けた村屋、田に立つ案山子、子どもらの裸足。泥にまみれた足で駆け回る子どもたちは、桂子が都で見てきた子どもたちとは違っていた。その顔には、生きることそのものの力強さがあった。
深雪が傍で扇を握りながらつぶやいた。
「姫様、ここが……同じ国だとは思えませぬ。」
「ええ。」桂子は静かに頷いた。
「けれど、この土こそ、わたくしたちを養っているのでしょう。」
深雪は黙り込んだ。その言葉の意味を、まだ十分には理解できていなかった。だが桂子の声には、都の姫君としてではなく、この国を見つめようとする者の静かな決意があった。
草津の宿で一行は初めて夜を明かした。
屋敷のような構えではなく、板壁の宿屋だった。床は固く、風が隙間から入り込む。桂子は都の屋敷の畳を思い出した。柔らかく、香に満ち、外の音など聞こえなかったあの部屋を。
夜更け、桂子は横になっても眠れず、外の音を聞いていた。
風が戸を叩き、馬が嘶き、人の咳が聞こえる。都の夜は香と笙の音に包まれていたが、ここでは、闇が息をしているようだった。暗闇は静寂ではなく、無数の生の音で満ちていた。
深雪が起き上がり、小声で言った。
「志乃は外に出たまま戻りません。」
「見回りでしょう。」桂子は答えた。
「この先、峠があるのです。」
「峠……でございますか。」
「ええ。鈴鹿の峠。難所だと聞いています。」
深雪は不安そうに扇を握りしめた。桂子はその横顔を見つめ、自分もまた同じ不安を抱えていることに気づいた。だがそれを口にすることはしなかった。姫としての品格が、弱さを隠すことを求めていた。
二
翌朝、行列は東へ向かった。
湖のきらめきが背後に遠ざかり、道は山に入る。琵琶湖の青い水面は、まるで都との最後の繋がりが消えていくようだった。桂子は簾越しにその光景を見送り、心の中で小さく別れを告げた。
鈴鹿の峠は、古くから難所といわれた。
山の斜面に沿う細い道は曲がりくねり、谷底に白い霧が溜まっている。車輪が石に当たるたびに、唐車は激しく揺れた。深雪は顔色を失い、文箱を抱きしめている。
途中の茶屋で、年老いた男が兵部少輔に言った。
「この峠では、夜を越すな。日が沈む前に関の里まで下りられませぬと、えらい目を見ます。」
その声は低く、脅すようでもあり、忠告するようでもあった。男の顔には深い皺が刻まれ、何度もこの峠で人の運命を見てきたような目をしていた。
志乃はそれを聞いて、眉をひそめた。
「殿、馬を早めましょう。」
「うむ。列を詰めよ。」兵部少輔が短く命じた。
一行は速度を上げた。だが山道は険しく、思うようには進まない。太陽が山の端に傾き始め、木々の影が長く伸びていく。
だが、山は静かすぎた。
風もなく、鳥の声もない。まるで森全体が息を潜めているようだった。その不自然な静寂に、志乃の背がわずかに強張った。
「……誰か、見ています。」
その言葉が終わるか終わらぬうちに、右の茂みから二人、左から三人、布で顔を覆った男たちが飛び出した。
槍と棍棒。馬の手綱を掴もうとする。
「止まれっ!」兵部少輔の声が山に響いた。
護衛の兵が抜刀し、志乃は唐車の前に躍り出る。薙刀が一閃、音を立てて空を裂いた。刃が光を弾き、次の瞬間には男の腕が飛んでいた。
血が車の側面に散る。
深雪が悲鳴を上げた。
別の男が桂子の車に手を伸ばした瞬間、志乃は二歩踏み込み、柄で胸を打ち据えた。乾いた音がして、男は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
残る者は逃げ散り、木々の間に姿を消した。足音だけが遠ざかり、やがて静寂が戻る。
三
山の空気が急に戻る。
志乃は息を整え、刃を拭った。血が布に染み込み、赤黒い跡を残す。
「姫様、お怪我は……」
簾の内で桂子は黙っていた。
血の匂いが風に混じって入ってくる。都では見たこともない色。それが、絵の中の赤ではなく、地の赤でもなく、生の赤だと気づいたとき、胸の奥で何かが静かに砕けた。
「志乃。」
「は。」
「あなたの手……」
「構いませぬ。すぐ洗えば落ちます。」
「落ちるのですか、その色が。」
志乃は答えず、ただ刃を鞘に納めた。その所作には迷いがなかった。だが桂子には分かった。志乃もまた、何かを失ったのだと。それは都で育った二人が共有していた、柔らかな世界の記憶だった。
兵部少輔が馬を寄せた。
「姫様、ご無事で何よりです。このまま関の里へ向かいます。」
「ええ。」
桂子の声は静かだった。だが心の奥では、見たものが焼き付いて消えなかった。血の赤、志乃の薙刀、崩れ落ちる男の姿。これが父の言った「この国の形」なのだと、ようやく理解し始めていた。
四
その夜、一行は関の宿に泊まった。
深雪は畳に座り込み、まだ震えていた。扇を握る手が止まらない。
「都では、血を見るのは物語の中だけでしたのに。」
志乃が火鉢の炭をつつきながら言う。
「ここでは、物語が暮らしの中にあります。」
「でも……あんなに簡単に、人が……」
「簡単ではありません。」志乃の声は低く、静かだった。
「あの者たちも、生きるために刃を持ったのでしょう。ただ、わたくしたちを守るためには、それを止めるしかなかった。」
深雪は黙り込んだ。その言葉の重さを、ようやく理解し始めていた。
桂子は二人の声を聞きながら、薄い帳の向こうで空の色を思い出していた。都を出てから、夜の闇はずっと濃くなっている。月は雲に隠れ、星だけが光っていた。
"父の言った血の品格とは、何を指していたのだろう。"
その問いが、胸の底に沈んだまま消えなかった。ただ一つ分かったことがある。品格とは、美しさや優雅さだけではない。この血の匂いの中でも、自分を見失わないこと。それが中御門の娘としての務めなのだと。
五
翌日、山を下ると風が変わった。
伊勢の平野が広がり、湿った潮の匂いが混じる。田の畔を越え、やがて港町・津の屋根が見えた。瓦は赤く、海の光を弾いていた。
町は都よりも活気があり、魚の匂いと声が混じる。市場では商人たちが声を張り上げ、船乗りたちが荷を運んでいる。その力強さは、都の雅な空気とはまるで違っていた。だが桂子は、その違いを拒絶することはしなかった。
志乃が前へ進み、報告した。
「兵部少輔殿、船の支度、整っております。」
兵部少輔は頷き、桂子の唐車の前に立つ。
「姫様、この先は海路。明朝の出帆にございます。」
桂子は簾を上げ、潮風を吸い込んだ。
都の香とはまるで違う、塩と藻の匂い。だがその匂いには、生命の力強さがあった。胸の奥に、知らぬ世界が広がっていくのを感じた。そしてそれは、恐怖ではなく、期待に近い何かだった。
その夜、津の宿。
深雪はなお沈んだ顔で言った。
「志乃のあの刃……目を閉じても消えませぬ。」
志乃は淡々と答えた。
「あれがこの国の形です。都の言葉では測れませぬ。」
「でも……わたくしたちは都の者です。あのような……」
「都の者だからこそ、見なければならないのです。」
桂子は黙って二人を見ていた。
外では波が打ち、帆の縄が鳴っている。窓の隙間から見える月は、都よりも白かった。その光は冷たく、だが力強かった。
桂子は小さく息を吐いた。
「志乃、あの峠で見たもの、忘れません。」
「……はい。」
「これが、わたくしの生きる国なのですね。」
志乃が深く頭を下げた。その肩が、わずかに震えているように見えた。だが顔を上げたとき、その目には覚悟があった。
海風が灯を揺らし、帆が遠くで鳴った。
夜が明ければ、駿河への船が出る。桂子は窓の外を見つめ、心の中で父の言葉を繰り返した。
"血の品格"――。
その意味が、少しずつ、形を持ち始めていた。
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
本文の連載は note版 にて公開しています。
設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




