表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/25

寿桂尼物語 第三章 順の居場所 第三話「地図の余白」

本作は、石田源志による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

春の風が、紙の端をわずかにめくった。

政所の一角に広げられた大判の紙は、畳の目よりも広く、墨の匂いだけが妙に生々しい。

桂子は、その紙を見つめていた。

道と川。田と屋敷。村の名。

線が増えるたびに、国が"形"を持っていく。――そう見えた。

だが、桂子の目は、線ではなく「白い部分」に向いていた。

地図の端。谷の奥。山の陰。川筋の先。

描かれていない場所が、まるで故意に残された嘘のように白い。

深雪が傍に座り、小声で言った。

「姫様、この白い部分は……」

「まだ描かれていない場所です」

桂子は答えた。

「誰のものでもない、と誰もが言い出せる場所」

深雪は息を飲んだ。


氏親は、その紙の前で立ち尽くしていた。

いつもなら、評定の言葉は短い。結論だけを置き、余計な熱を残さぬ。

だが今日は、紙から目を離せずにいる。

「......見えるようになったな」

その声は、勝利を噛みしめる声ではなかった。

安堵――に似たものが混じっていて、桂子は胸の奥が小さく痛んだ。

この人は、戦に勝っても、ようやく息を吐けるだけなのだ。

紙の上には、戦の血も涙もない。

あるのは線と名だけ。

けれど氏親の目には、線の下にあるものが透けているように見えた。

焼けた家。逃げた村人。畦に倒れた兵。

遠江を平らげた、あの"結果"が、この白い紙の上に静かに乗っている。

桂子は言葉を選んだ。

選びすぎて、喉の奥が渇く。

「......殿。見えることと、分かることは違います」

氏親のまぶたがわずかに動いた。

怒りではない。刺さったのだ。

"見える"と言った自分の心の軽さを、桂子がそっと押さえた。


桂子は続ける。けれど、声は少しだけ低くなった。

「都では、地図の上に"誰が治めるか"が書かれていました。道と川だけでは、国は、まだ――」

言いかけて、桂子はほんの一瞬ためらった。

そのためらいは、氏親を疑うものではない。

"自分のやり方"が、この土地の人間にどう刺さるかを知っているための躊躇だった。

検地とは、正しさではなく、暴露だ。

隠してきた畦の一本。曖昧にしてきた境。

誰かの"暮らしの逃げ道"を、帳面の上で塞ぐ行いになる。

葛山氏広が政所に入ってきた。

「殿、遠江の村々から、検地の報告が上がり始めております」

氏広の声は静かだが、その奥に疲労があった。

検地の実務を担当している氏広は、現場の反発を一身に受けている。

「村人たちは、抵抗しておりますか」

桂子が尋ねた。

氏広は少し考えてから、答えた。

「抵抗、というより……困惑しております。なぜ今更、田の広さを測るのか、と」

「それは、彼らの暮らしを奪うためではない、と伝えておりますか」

「伝えております。ですが……」

氏広は言葉を濁した。

桂子は頷いた。

言葉だけでは、伝わらない。

行いで示すしかない。


桂子は、紙の端に残る白い余白へ目を移した。

谷の奥。山の陰。川筋の先。

描かれていない場所が、まるで故意に残された嘘のように白い。

「ここが白いままです」

桂子の指が、地図の端を指す。

「描かれていない場所は、"誰のものでもない"と、誰もが言い出せます。......争いは、余白から芽を出します」

言い切った瞬間、桂子は自分の掌が冷えているのに気づいた。

都で覚えた言葉は、刃物のように切れる。

切れすぎれば、こちらが嫌われる。

それでも言うべきだと、桂子は思った。

氏親は紙を見たまま、しばらく黙った。

黙りはいつものことだが、今日は違う。

言葉を探す黙りではない。心の奥を撫でるような黙りだった。

「争いを止めるには、刀か」

ぽつり、と。

それは問いかけの形をしていたが、桂子には懺悔に近く聞こえた。

刀で国を繋いだことの、重さ。

刀でしか繋げなかったことへの、痛み。

桂子は首を振る。だが、優しく振った。

否定ではなく、受け止めるために。

「刀は、争いの果てを決めるだけです。争いが生まれぬようにするには――最初から"置き場"を決めることです」


氏親の指が、紙の縁を押さえた。

紙が風でめくれぬようにする仕草だ。

だが桂子には、国が揺れぬよう押さえる手に見えた。

氏親は、余白を見つめたまま言った。

「ならば......"余白を埋める者"を定める」

言葉が落ちたとき、座の空気が少しだけ硬くなる。

"定める"は、誰かの"逃げ場を奪う"と同義だ。

氏広の顔に一瞬走った影を、桂子は見逃さなかった。

氏親も、それを見ていた。

見ていて、なお言う。

「この地図は、飾りではない。国が、誰の手で保たれているか――それを残す」

声が、ほんの少し震えた。

震えを隠すように、氏親は言葉を早くした。

「書け。余白に。谷の奥も、山の陰も、川筋の先も。......預かる者の名を」

"預かる"という言い方が、氏親の最後の情けだった。

「支配する」とは言わない。

「持つ」とも言わない。

受け取る側が、責任として受け止められる言葉を選んだ。

桂子の胸が、わずかに緩む。

この人は冷たいのではない。

冷たくしなければ、国の熱に焼かれるのだ。


深雪が筆を取った。

「姫様、わたくしが書き写します」

「ありがとう、深雪」

深雪は紙に向かい、筆を走らせた。

墨が紙に染みる。

その一画一画が、地面に杭を打つ音のように、桂子には聞こえた。

名が書かれた瞬間、地図はもう"絵"ではなくなった。

役目が貼りついた帳面になった。

志乃が廊下から戻ってきて、静かに桂子の傍に立った。

「姫様、外は静かです」

「ありがとう、志乃」

志乃は地図を見つめた。

「この地図に、篠丸の名も、いずれ載るのでしょうか」

桂子は頷いた。

「ええ。篠丸が大きくなる頃には、この地図が国の骨になっているはずです」

志乃は小さく微笑んだ。


氏親は、紙を見下ろしながら、ふいに笑いそうな顔をした。

笑いではない。泣きでもない。

表に出すにはどちらでもなく、ただ、息が詰まった顔だった。

「......土地は、奪えば戻る。だが、帳面に落とせば――国になる」

桂子は、その言葉の冷たさの底に、熱を見た。

国になる、というのは、誰かの暮らしを丸ごと背負うことだ。

背負うと決めるのは、痛い。

痛いのに、氏親は決めた。

桂子は、余白の白さをもう一度見た。

白は、争いの芽。

だが同時に、迷いの芽でもある。

迷いを摘むために、名を置く。

名を置くために、検地をする。

検地をするために、嫌われる覚悟をする。

桂子は、心の中で小さく呟いた。

都の骨を写す、と二話で思った自分に向かって。

――写すなら、ここからだ。

美しさではない。

人が逃げずに済む仕組みのために。


紙の上の余白が、ひとつ埋まる。

そのたびに国の輪郭がはっきりする。

輪郭がはっきりするほど、誰かの胸は苦しくなる。

だが、その苦しさを、放っておけば争いになる。

氏親は、余白を見つめたまま、低く言った。

「......迷う理由がある。情も、血も、土地への想いも。だからこそ、型が要る」

桂子は、頷いた。

今日は、その頷きが、都の作法ではなく、ひとりの人としての頷きになった。

深雪が筆を置いた。

「姫様、書き終わりました」

桂子は紙を見た。

白かった余白に、名前が並んでいる。

村の名、預かる者の名、石高。

それが、国の骨になる。

桂子は深く息を吸った。

「これで、遠江は今川の国になります」

氏親が頷いた。

「ああ。地図に名を載せた以上、もう戻ることはない」

桂子は窓の外を見た。

遠江の方角に、薄く煙が上がっている。

戦は終わった。

だが、国を作る戦いは、まだ始まったばかりだ。

本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ