寿桂尼物語 第三章 順の居場所 第三話「地図の余白」
本作は、石田源志による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
一
春の風が、紙の端をわずかにめくった。
政所の一角に広げられた大判の紙は、畳の目よりも広く、墨の匂いだけが妙に生々しい。
桂子は、その紙を見つめていた。
道と川。田と屋敷。村の名。
線が増えるたびに、国が"形"を持っていく。――そう見えた。
だが、桂子の目は、線ではなく「白い部分」に向いていた。
地図の端。谷の奥。山の陰。川筋の先。
描かれていない場所が、まるで故意に残された嘘のように白い。
深雪が傍に座り、小声で言った。
「姫様、この白い部分は……」
「まだ描かれていない場所です」
桂子は答えた。
「誰のものでもない、と誰もが言い出せる場所」
深雪は息を飲んだ。
二
氏親は、その紙の前で立ち尽くしていた。
いつもなら、評定の言葉は短い。結論だけを置き、余計な熱を残さぬ。
だが今日は、紙から目を離せずにいる。
「......見えるようになったな」
その声は、勝利を噛みしめる声ではなかった。
安堵――に似たものが混じっていて、桂子は胸の奥が小さく痛んだ。
この人は、戦に勝っても、ようやく息を吐けるだけなのだ。
紙の上には、戦の血も涙もない。
あるのは線と名だけ。
けれど氏親の目には、線の下にあるものが透けているように見えた。
焼けた家。逃げた村人。畦に倒れた兵。
遠江を平らげた、あの"結果"が、この白い紙の上に静かに乗っている。
桂子は言葉を選んだ。
選びすぎて、喉の奥が渇く。
「......殿。見えることと、分かることは違います」
氏親のまぶたがわずかに動いた。
怒りではない。刺さったのだ。
"見える"と言った自分の心の軽さを、桂子がそっと押さえた。
三
桂子は続ける。けれど、声は少しだけ低くなった。
「都では、地図の上に"誰が治めるか"が書かれていました。道と川だけでは、国は、まだ――」
言いかけて、桂子はほんの一瞬ためらった。
そのためらいは、氏親を疑うものではない。
"自分のやり方"が、この土地の人間にどう刺さるかを知っているための躊躇だった。
検地とは、正しさではなく、暴露だ。
隠してきた畦の一本。曖昧にしてきた境。
誰かの"暮らしの逃げ道"を、帳面の上で塞ぐ行いになる。
葛山氏広が政所に入ってきた。
「殿、遠江の村々から、検地の報告が上がり始めております」
氏広の声は静かだが、その奥に疲労があった。
検地の実務を担当している氏広は、現場の反発を一身に受けている。
「村人たちは、抵抗しておりますか」
桂子が尋ねた。
氏広は少し考えてから、答えた。
「抵抗、というより……困惑しております。なぜ今更、田の広さを測るのか、と」
「それは、彼らの暮らしを奪うためではない、と伝えておりますか」
「伝えております。ですが……」
氏広は言葉を濁した。
桂子は頷いた。
言葉だけでは、伝わらない。
行いで示すしかない。
四
桂子は、紙の端に残る白い余白へ目を移した。
谷の奥。山の陰。川筋の先。
描かれていない場所が、まるで故意に残された嘘のように白い。
「ここが白いままです」
桂子の指が、地図の端を指す。
「描かれていない場所は、"誰のものでもない"と、誰もが言い出せます。......争いは、余白から芽を出します」
言い切った瞬間、桂子は自分の掌が冷えているのに気づいた。
都で覚えた言葉は、刃物のように切れる。
切れすぎれば、こちらが嫌われる。
それでも言うべきだと、桂子は思った。
氏親は紙を見たまま、しばらく黙った。
黙りはいつものことだが、今日は違う。
言葉を探す黙りではない。心の奥を撫でるような黙りだった。
「争いを止めるには、刀か」
ぽつり、と。
それは問いかけの形をしていたが、桂子には懺悔に近く聞こえた。
刀で国を繋いだことの、重さ。
刀でしか繋げなかったことへの、痛み。
桂子は首を振る。だが、優しく振った。
否定ではなく、受け止めるために。
「刀は、争いの果てを決めるだけです。争いが生まれぬようにするには――最初から"置き場"を決めることです」
五
氏親の指が、紙の縁を押さえた。
紙が風でめくれぬようにする仕草だ。
だが桂子には、国が揺れぬよう押さえる手に見えた。
氏親は、余白を見つめたまま言った。
「ならば......"余白を埋める者"を定める」
言葉が落ちたとき、座の空気が少しだけ硬くなる。
"定める"は、誰かの"逃げ場を奪う"と同義だ。
氏広の顔に一瞬走った影を、桂子は見逃さなかった。
氏親も、それを見ていた。
見ていて、なお言う。
「この地図は、飾りではない。国が、誰の手で保たれているか――それを残す」
声が、ほんの少し震えた。
震えを隠すように、氏親は言葉を早くした。
「書け。余白に。谷の奥も、山の陰も、川筋の先も。......預かる者の名を」
"預かる"という言い方が、氏親の最後の情けだった。
「支配する」とは言わない。
「持つ」とも言わない。
受け取る側が、責任として受け止められる言葉を選んだ。
桂子の胸が、わずかに緩む。
この人は冷たいのではない。
冷たくしなければ、国の熱に焼かれるのだ。
六
深雪が筆を取った。
「姫様、わたくしが書き写します」
「ありがとう、深雪」
深雪は紙に向かい、筆を走らせた。
墨が紙に染みる。
その一画一画が、地面に杭を打つ音のように、桂子には聞こえた。
名が書かれた瞬間、地図はもう"絵"ではなくなった。
役目が貼りついた帳面になった。
志乃が廊下から戻ってきて、静かに桂子の傍に立った。
「姫様、外は静かです」
「ありがとう、志乃」
志乃は地図を見つめた。
「この地図に、篠丸の名も、いずれ載るのでしょうか」
桂子は頷いた。
「ええ。篠丸が大きくなる頃には、この地図が国の骨になっているはずです」
志乃は小さく微笑んだ。
七
氏親は、紙を見下ろしながら、ふいに笑いそうな顔をした。
笑いではない。泣きでもない。
表に出すにはどちらでもなく、ただ、息が詰まった顔だった。
「......土地は、奪えば戻る。だが、帳面に落とせば――国になる」
桂子は、その言葉の冷たさの底に、熱を見た。
国になる、というのは、誰かの暮らしを丸ごと背負うことだ。
背負うと決めるのは、痛い。
痛いのに、氏親は決めた。
桂子は、余白の白さをもう一度見た。
白は、争いの芽。
だが同時に、迷いの芽でもある。
迷いを摘むために、名を置く。
名を置くために、検地をする。
検地をするために、嫌われる覚悟をする。
桂子は、心の中で小さく呟いた。
都の骨を写す、と二話で思った自分に向かって。
――写すなら、ここからだ。
美しさではない。
人が逃げずに済む仕組みのために。
八
紙の上の余白が、ひとつ埋まる。
そのたびに国の輪郭がはっきりする。
輪郭がはっきりするほど、誰かの胸は苦しくなる。
だが、その苦しさを、放っておけば争いになる。
氏親は、余白を見つめたまま、低く言った。
「......迷う理由がある。情も、血も、土地への想いも。だからこそ、型が要る」
桂子は、頷いた。
今日は、その頷きが、都の作法ではなく、ひとりの人としての頷きになった。
深雪が筆を置いた。
「姫様、書き終わりました」
桂子は紙を見た。
白かった余白に、名前が並んでいる。
村の名、預かる者の名、石高。
それが、国の骨になる。
桂子は深く息を吸った。
「これで、遠江は今川の国になります」
氏親が頷いた。
「ああ。地図に名を載せた以上、もう戻ることはない」
桂子は窓の外を見た。
遠江の方角に、薄く煙が上がっている。
戦は終わった。
だが、国を作る戦いは、まだ始まったばかりだ。
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
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設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




