寿桂尼物語 第三章 順の居場所 第一話 白き庭
本作は、石田源志による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
一
春の終わり、駿府の庭は白かった。
白砂が朝の光を返し、梅の名残がかすかに匂う。霧が薄くたち、松の影だけが淡く伸びる。華やかではない。だが、乱れもない。毎朝、砂をならす手があり、落ち葉を拾う者がいる。その積み重ねが、この白を保っていた。
桂子は縁に座り、庭を見ていた。
膝の上に置いた手が、わずかに冷える。夜を越して残った墨の匂いが、まだ指先にある。帳面を閉じたはずなのに、紙の感触が消えない。
遠州は、落ちた。
そう言われている。だが、桂子の胸に浮かぶのは、別の言葉だった。
――傷を負った。
血は止まる。だが、傷はすぐには塞がらない。歩けば開き、無理をすれば膿む。勝った後の国とは、そういうものだ。
桂子は庭の白砂を見つめた。
この白は、何も隠していない。石も、枝も、すべてが見える。だが、見えているからこそ、何かが足りないことにも気づく。
国もまた、同じなのではないか。
勝利の後、すべてが見えるようになった。遠江の村々、田畑、人々の暮らし。だが、見えているからこそ、何かが足りないことに気づく。
それが何なのか、桂子にはまだ分からなかった。
志乃が廊下の端に立ち、外を見回している。薙刀を背に、いつもの警護の姿だ。だが、その背中には疲れがあった。
戦が終わっても、志乃の心は休まらない。息子・篠丸は小屋敷で小姓の務めを果たしている。夫を失った今、篠丸だけが志乃の支えだった。
深雪が湯を注いだ椀を持ってきた。
「御台所様」
深雪が声をかけ、椀を差し出す。桂子はすぐには取らなかった。庭の白が、やけに目に入る。
「静かね」
「はい」
「勝った翌日は、もっと賑やかなものだと思っていたわ」
深雪は答えなかった。賑やかさは、城の奥に集められている。ここが静かなのは、偶然ではない。
桂子は椀を受け取った。湯は熱い。だが、身体は温まらなかった。
深雪が小声で言った。
「姫様、今夜は祝勝の宴が開かれるそうです」
「そう」
桂子は短く答えた。
「ならば、わたくしも出なければなりませんね」
「はい。御台所様のお姿を、皆が待っております」
桂子は湯を啜った。
熱さが喉を通り、胃に落ちる。だが、その温もりは長く続かなかった。
二
その日の暮れ、祝勝の席が設けられた。
酒が運ばれ、灯が増やされ、座が整えられる。遠州統一。名が呼ばれ、功が語られ、杯が回る。笑い声が重なり、勝った国の音が広間を満たした。
桂子は上座から、その光景を見ていた。
聞いてはいない。見ている。
誰が前に出るか。誰が呼ばれないか。誰の名が二度出るか。
祝勝の席は、国の欲が最も正直に表に出る場だった。
氏親は杯を上げ、笑みを見せていた。声も通る。だが、杯を置くまでの間が、以前よりわずかに長い。息を継ぐ間が、増えている。
桂子は、その変化を言葉にしなかった。見えてしまうものを、口にしない。それが、この場の作法だった。
宴の熱は、すべての席に等しくは届かない。
桂子の視線は、奥の一角に向いた。
朝比奈の席だった。
書状では何度もやり取りをしていたが、実際に顔を合わせたのは今日が初めてだった。遠江平定後、初めて駿府に参じた掛川の若き当主。書状の文字通り、丁寧で穏やかな人物だと、対面してすぐに分かった。
前に出ない。声を張らない。杯は進んでいない。周囲が盛り上がるたび、静かに頭を下げ、笑みを返すだけ。
祝われている。だが、祝ってはいない。
桂子は、なぜか目を離せなかった。
深雪が傍に座り、小声で言った。
「姫様、朝比奈様は……どのようなお方でございますか」
「分からないわ。まだ一度しか会っていないもの」
「ですが、姫様はずっと見ておられます」
桂子は深雪を見た。
深雪の目には、心配があった。桂子が何かに囚われているのではないか、と。
「心配しないで、深雪。ただ……気になっただけです」
「何が、でございますか」
桂子は朝比奈を見た。
「あの方は、祝われているのに、祝っていない。勝ったのに、勝った顔をしていない」
深雪は黙った。
桂子は続けた。
「それが、なぜなのか。知りたいのです」
三
宴の途中、桂子は静かに席を立った。
廊下に出ると、音が遠のく。障子越しに笑い声は続いているが、ここには届かない。
桂子は廊下を歩いた。
政所の方向へ。そこには、まだ灯が残っているはずだった。
政所には、まだ灯が残っていた。
帳面が積まれている。遠州の村名、年貢高、寺社、国人の名。勝利が、すでに数字に変わり始めている。
桂子は帳面を開いた。紙は冷たい。
この冷たさが、宴の熱を冷ましていく。
足音がした。
振り向くと、朝比奈が立っていた。酒の匂いは薄い。宴を抜けてきたのが、すぐにわかる。
「宴の最中に、よろしいのですか」
桂子が問うと、朝比奈は小さく頭を下げた。
「殿のお考えです」
桂子は、帳面から目を離さずに言った。
「勝った国には、勝った顔が要る。だが、今は荒れを広げるな――そういう御意です」
朝比奈は、わずかに背を正した。
「......御内意、ということで」
「ええ。表に出すものではありません」
それで十分だった。
朝比奈は一歩近づき、帳面を見た。
「遠州は、落ち着いたとは言えませぬ」
「でしょうね」
桂子は帳面を閉じた。
「勝ったところほど、後で噛みます」
朝比奈は一歩下がった。
「押さえれば、今夜は静かになります」
「ですが?」
「夜が荒れます」
その言葉に、桂子は小さく頷いた。武を知る者の言葉だった。
桂子は一枚の紙を差し出した。文は短い。だが、氏親の判断が、順として整えられている。
「これを。殿の御意として」
朝比奈は紙を受け取り、深く頭を下げた。
「祝われぬ役目ですな」
桂子は、少しだけ間を置いて答えた。
「......祝えぬ役目も、ございます」
朝比奈は顔を上げた。
その目には、深い理解があった。
二人は無言で向き合った。
言葉はなかったが、その沈黙の中で、何かが通じ合っていた。
四
夜更け、宴の声はまだ続いていた。
桂子は政所で帳面を閉じる。
祝えば終わる。終わってしまえば、次に進めない。
国は、まだ傷を負っている。
この傷を、どう塞ぐのか。剣ではない方法が、あるのか。
まだ、名前はついていない。
ただ、祝えないという感覚だけが、はっきりとそこにあった。
桂子は筆を取り、一文だけ記した。
――勝利の後にこそ、言葉を。
墨が乾くのを待たず、桂子は障子を閉じた。
外では、遠州の方角に薄く煙が上がっている。勝った国の、まだ癒えぬ傷の煙だった。
志乃が廊下の端に立ち、桂子を見ていた。
「姫様、お疲れではございませんか」
「いいえ。むしろ、これからです」
桂子は微笑んだ。
「勝った後こそ、本当の戦いが始まるのです」
志乃は頷いた。
深雪が灯を持ってきた。
「姫様、お部屋へお戻りください。明日も、お忙しゅうございます」
「ありがとう、深雪」
桂子は立ち上がった。
三人は廊下を歩いた。
静かな夜。遠くで宴の声が聞こえる。だが、ここは静かだった。
桂子は窓の外を見た。
遠州の方角に、まだ煙が上がっている。
――これから、あの煙を消していく。
その決意が、胸に満ちていった。
【第2話へ続く】
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
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設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




