寿桂尼物語 第2章 散りゆく命、生まれる命 第七話 曳馬落つ
本作は、石田源志による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
一 春の風
雪が解け、駿府に春の風が戻ってきた。
桂子は御所の縁側に座り、庭の梅を見つめていた。白い花が咲き始め、その香りが風に乗って届く。円、竜王丸、竹若丸が庭で遊んでいる。その笑い声が、春の訪れを告げていた。
甲斐との和議が結ばれ、北の空はようやく静まった。
だが、南――遠江の地では、火が消えていなかった。
吉良方の残党が曳馬に籠り、大河内の旗が再び翻る。和議の朱が乾くより早く、血が滲み始めていた。
桂子は政所からの報せを受け、筆を止めた。
「戦は、終わったふりをするものなのね……」
深雪が目を伏せ、志乃が黙って炭をくべた。
氏親は出陣の準備を進めていた。甲斐の和議が成ったばかりだが、遠江を放置することはできない。今川の威信がかかっていた。
二
数日後、氏親は再び出陣した。
桂子は円、竜王丸、竹若丸を連れて、氏親を見送った。雪の日とは違い、春の日差しが暖かく照らしている。
「お気をつけて」
桂子が言うと、氏親は頷いた。
「すぐに戻る。曳馬は長くは持たぬ」
「はい、お待ちしています」
氏親は円の頭を撫で、竜王丸と竹若丸を抱き上げた。そして、桂子の手を握った。
「駿府を頼む」
「はい」
氏親は馬に乗り、駆けていった。兵たちが続き、やがて駿府の町から姿が消えた。
桂子は子供たちと共に、その背を見送った。
篠丸も、門前に立っていた。まだ幼い体で、父の出陣を見送った時と同じように、氏親の背を見つめている。
「殿……」
篠丸が小さく呟いた。
志乃が篠丸の肩に手を置いた。
「あなたの役目は、駿府を守ることです」
「はい、母上」
篠丸は涙を拭い、頷いた。
三
春が深まり、駿府は緑に包まれていった。
桂子は毎日、政所で書状を整理し、氏親を支えた。深雪は文書を写し、志乃は御所の警護を続けた。
遠江からの報は、日ごとに届いた。曳馬城を包囲し、攻めているという。だが、城は頑強で、簡単には落ちない。
「長引くのでしょうか」
深雪が問うと、桂子は頷いた。
「かもしれません。でも、氏親様なら必ず落とされます」
志乃が火鉢を整えながら、静かに言った。
「殿は……無事でしょうか」
「大丈夫。必ず戻ってこられます」
桂子の言葉に、志乃は小さく頷いた。
三人の女は、それぞれの場所で、氏親の無事を祈り続けた。
篠丸は毎日、小屋敷で小姓の務めを果たしていた。氏親不在の今、残った家臣たちに仕えながら、いつか自分も戦場に立つ日を夢見ていた。
四 報せ
初夏、曳馬落城の報が届いた。
吉良の勢力は遠江から後退し、遠江西部が今川の影響下に入った。氏親の軍は凱旋の途にある。
家中は祝いの支度に沸いた。家臣たちが集まり、酒を酌み交わし、勝利を祝っている。だが、桂子の顔に笑みはなかった。
広間に死者の名を記した帳が運ばれてくる。
桂子は静かにその帳を開いた。深雪が隣に座り、志乃が立っている。
志乃は一人ひとりの名を読み上げ、深雪が筆を走らせた。その作業は静かで、だが重かった。一つ一つの名前が、失われた命を意味していた。
その中に、兵部少輔の従者の名を見つけた。
志乃の手が止まる。
「……あの人の影も、遠江に留まったままなのですね」
深雪は何も言わず、墨を足した。
桂子は深く息を吸い、帳を閉じた。勝利の裏には、必ず死がある。それが戦国の世だった。
五
桂子は庭に出た。
梅は散り、若葉が芽吹き始めている。円、竜王丸、竹若丸が駆け回り、その笑い声が響く。
だが、桂子の胸には重いものがあった。
勝ち戦だと家臣たちは喜んでいる。だが、失われた命は戻らない。兵部少輔も、その従者も、そして名もなき兵たちも。
「母上、どうしたのですか」
円が駆け寄り、桂子の手を握った。桂子は微笑み、円の頭を撫でた。
「何でもないわ。ただ、少し疲れただけ」
「では、一緒に遊びましょう」
円が笑うと、桂子は頷いた。
「ええ、そうね」
桂子は円、竜王丸、竹若丸と共に、庭で遊んだ。その時間が、桂子の心を少しだけ癒してくれた。
六 凱旋
数日後、氏親の軍勢が駿府に戻った。
甲冑の列、太鼓の音、万歳の声。町中が祝いの雰囲気に包まれている。桂子は城門に立ち、夫を迎えた。
氏親が馬を降り、桂子の元へ歩いてきた。その顔は疲れていたが、勝利の光があった。
「遠州、静まりました」
氏親が言うと、桂子は静かに応じた。
「静まり……ましたか」
その言葉に含まれる空白を、誰も聞き取らなかった。遠江の土には、まだ血の温もりがあった。
氏親は桂子を抱きしめた。
「よく守ってくれた」
「いいえ、私は何も……」
「おぬしがいてくれるだけで、駿府は守られる」
桂子は氏親の胸で涙を流した。
篠丸が門前に駆け寄ってきた。
「殿、お帰りなさいませ!」
氏親は篠丸を見て、微笑んだ。
「篠丸、よく駿府を守ったな」
「はい!」
篠丸の目が輝いた。
志乃が息子の元に歩み、その肩に手を置いた。
「よく務めを果たしました」
篠丸は母を見上げ、静かに頷いた。その瞳には、幼くも、強い光が宿っていた。
七
凱旋の宴が開かれた。
家臣たちが集まり、酒を酌み交わし、戦の話をしている。氏親も上座に座り、家臣たちの話を聞いている。
桂子は奥の部屋で、深雪、志乃と共に座っていた。
「勝ち戦なのに、御台所様は喜んでおられませんね」
深雪が言うと、桂子は頷いた。
「勝ち戦だからこそ、悲しいのです。勝つために、どれだけの命が失われたのか」
志乃が静かに言った。
「それが戦なのでしょう」
「ええ……でも、いつか戦のない世を作りたい」
桂子の言葉に、二人は頷いた。
三人は静かに酒を酌み交わした。勝利の宴の中で、三人だけが静かに死者を悼んでいた。
八 池の空
凱旋の夜、桂子は庭の池を見つめていた。
水面には、春の空と灯火が映る。その揺らめきに、無数の顔が浮かんでは消えた。兵部少輔、その従者、そして名もなき兵たち。
背後で深雪がそっと問う。
「勝ち戦なのに、なぜ泣いておられるのですか」
桂子は振り返らず、静かに答えた。
「この国は、まだ泣いているのよ。戦を知らぬ者ほど、泣き声を聞かない」
志乃は庭先に進み、小屋敷の方を見やった。篠丸が務めを終えて戻る姿が、亡き夫に似ていた。
「篠丸は、父に似てきましたね」
桂子が言うと、志乃は頷いた。
「はい……きっと、立派な武人になります」
「そして、父のように理を知り、情を理解する」
桂子の言葉に、志乃は微笑んだ。
三人は池を見つめた。その水面に映る空が、まるで涙のように揺れていた。
九 遠州、静まる
夜が更け、凱旋の喧騒が消えた。
駿府の空に星が冴え、遠江の方角から風が吹いた。その風には、血と花のにおいが混じっていた。
桂子は障子を閉じ、筆を取る。和議の文の余白に、短く記した。
――遠州、静まる。
その一行が、雪よりも冷たく、春よりも重く、紙の上に沈んでいった。
桂子は筆を置き、窓の外を見た。遠江の方角に、まだ煙が薄く上がっている。戦は終わった。だが、その傷は深く、癒えるには時間がかかる。
深雪が傍らに座り、静かに言った。
「これで、駿河も遠江も、氏親様の治世となりました」
「ええ……でも、それは多くの命の上に成り立っています」
桂子の言葉に、深雪は頷いた。
志乃が灯を整えながら、呟いた。
「兵部少輔様も、この日を見たかったでしょうね」
「はい……彼の志は、ここに生きています」
桂子は三人で酒を酌み交わした。勝利ではなく、失われた命を悼むために。
十
翌朝、桂子は氏親と共に庭に出た。
円、竜王丸、竹若丸が駆け回り、篠丸も小姓の装束を着て立っている。その姿を見ながら、桂子は思った。
この子たちが大きくなる頃には、戦のない世になっているだろうか。
氏親が桂子の手を握った。
「おぬしは、いつも何を考えている」
「未来のことです」
「未来……」
「はい。この子たちが、戦のない世で育つことを」
氏親は微笑んだ。
「それは、まだ遠い」
「でも、いつか来ます。そう信じています」
桂子の言葉に、氏親は頷いた。
「ならば、その日まで、共に生きよう」
「はい」
二人は子供たちを見つめた。その姿が、未来への希望だった。
十一
その夜、桂子は筆を取った。震える手で、紙に記す。
――理と情と、駿府の日々。
――戦の果てに、平和の兆し。
――されど、まだ道は遠く。
その一文は、第二章の締めくくりであり、同時に新しい章への序章でもあった。
桂子は筆を置き、窓の外を見た。駿府の夜は静かで、星が瞬いている。
遠州、静まる。
だが、その静けさの中に、新しい嵐の予兆があった。戦国の世は、容赦なく彼らを試し続ける。
それでも桂子は、この夜の静けさを胸に刻んだ。
理と情を学び、氏親と共に駿府を守り、子供たちを育てる。
その日々が、桂子の人生となっていく。
第二章 了
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
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本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
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