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寿桂尼物語 第二章 散りゆく命、生まれる命 第五話 曳馬の影

本作は、石田源志による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

一 遠江の報


 春の光が淡く、駿府の庭に花が散り始めていた。

 桂子は御所の縁側に座り、円、竜王丸、竹若丸の三人を見守っていた。円はもう五歳になり、弟たちの面倒を見ている。竜王丸は二歳、竹若丸は生まれて数ヶ月だが、すくすくと育っている。

「母上、お花がきれいです」

 円が桜の花びらを拾い、桂子に見せた。桂子は微笑み、その花びらを受け取った。

「そうね、きれいね。でも、すぐに散ってしまうの」

「どうして散るのですか」

「それが花の定めだから。美しく咲いて、そして静かに散る。それが自然の理なのよ」

 円は小さく頷き、また花びらを拾いに走った。竜王丸がその後を追い、二人は笑い声を上げている。

 桂子はその姿を見つめながら、深く息を吐いた。甲斐の戦が終わり、駿府には穏やかな日々が戻っていた。氏親も政務に励み、家臣たちも平和な日々を楽しんでいる。

 だが、その静けさを破ったのは、政所からの使者だった。

 廊下を駆ける足音が響き、桂子は顔を上げた。深雪が慌てて現れ、息を切らしている。

「御台所様、曳馬の動乱の報が……」

 桂子は立ち上がり、政所へ向かった。



 政所では、氏親が書状を読んでいた。

 その顔は険しく、眉間に深い皺が刻まれている。家臣たちが周りを囲み、緊張した空気が満ちていた。

 桂子が入ると、氏親が顔を上げた。

「桂子殿……」

「何が起こったのですか」

 氏親は書状を手渡した。桂子は静かに読んだ。吉良家臣・大河内が挙兵し、斯波も呼応したという。遠江の曳馬で、反乱が勃発していた。

 桂子は書状を読み終え、静かに息を吐いた。

「遠江が揺らげば、駿府も安からぬ……」

 誰に告げるでもなく、独りごちた声が、広間の静寂に溶けた。

 氏親が立ち上がり、家臣たちに命じた。

「まずは和議の使者を送る。理をもって説けば、血を流さずに済むかもしれぬ」

 家臣たちが頷き、散っていった。

 桂子は氏親の隣に座り、静かに言った。

「和議の使者は、誰が」

「伊勢兵部少輔だ」

 その名を聞いて、桂子の胸が重くなった。志乃の夫――甲斐の戦から戻り、ようやく平穏な日々を取り戻したばかりの男である。

 桂子は御所に戻り、志乃を呼んだ。志乃は薙刀を背に、静かに現れた。その顔には、すでに覚悟の色があった。

「兵部少輔様が、曳馬へ向かわれます」

 桂子の言葉に、志乃は小さく頷いた。

「聞きました……和議の使者として」

「はい」

 志乃は深く息を吸い、窓の外を見た。庭では、円が弟たちと遊んでいる。その無邪気な笑い声が、春の風に乗って聞こえてくる。

「あの人は、理のために生きています。理のために死ぬことも、厭わぬでしょう」

 志乃の声は静かだった。

 桂子は志乃の手を握った。

「そうはさせません。必ず、生きて戻ってきてもらいます」

 志乃は微笑んだが、その目には諦めの色があった。


三 出立の刻


 数日後、伊勢兵部少輔は出立の支度を整えていた。

 甲冑ではなく、礼服を身に着けている。和議の使者として、剣ではなく言葉を携えていくのだ。

 志乃は息子・篠丸を連れて、兵部少輔の部屋を訪れた。篠丸はまだ五歳だが、父の姿をじっと見つめている。

「剣を用いず、言を携えて敵陣に入ること、命を賭するに等しゅうございます」

 兵部少輔の言葉に、志乃は息を呑んだ。

 桂子が廊下に現れ、静かに言った。

「あなたの言葉が、戦を止める火種になりますように」

 兵部少輔は深く頭を下げた。

「御台所様のお言葉、胸に刻みます」

 兵部少輔は篠丸の頭を撫でた。

「篠丸、強く育て。母を支えよ」

「はい、父上」

 篠丸は涙を堪え、深く頭を下げた。兵部少輔はその小さな背を見つめ、志乃の頬に触れた。

「篠丸を頼む」

 志乃は涙を堪え、頷いた。

「はい……どうか、ご無事で」

 兵部少輔は廊下を進み、御所を出た。志乃と篠丸はその背を見送り、立ち尽くした。桂子が志乃の肩に手を置いた。

「大丈夫。きっと戻ってきます」

 志乃は何も答えず、ただ兵部少輔の背を見つめていた。その背が門を出て、やがて見えなくなった。

 深雪が傍らに立ち、そっと呟いた。

「兵部少輔様は、立派な方ですね」

「ええ……」

 桂子は頷いた。

「理を知り、情を理解する。そんな人が、この世には少なすぎる」


四 篠丸、駿府へ


 兵部少輔が出立した数日後、篠丸が駿府小屋敷へ召された。

 氏親の小姓として、初めて母の手を離れる日である。

 志乃は篠丸の髪を整えながら、言葉をかけた。

「強くあれとは言わぬ。ただ、まっすぐに立ちなさい。曲がらぬ心こそ、父の遺したものです」

 篠丸は小さく頷いた。

「はい、母上」

 志乃は篠丸の手を取り、桂子のもとへ導いた。桂子は膝を折り、篠丸と目線を合わせた。

「ここから先は、あなたの道です。……学びなさい、そして忘れぬこと」

 その声はやわらかく、志乃の震える心を静めていた。

 篠丸は深く頭を下げた。

「はい、御台所様」

 桂子は篠丸の頭を撫で、微笑んだ。

「あなたの父は立派な武人です。あなたもきっと、立派な武人になります」

 志乃は涙を堪え、篠丸を見送った。篠丸が小屋敷へ向かう背中を見つめながら、志乃は深く息を吐いた。まだ五歳の小さな背中が、遠ざかっていく。

 深雪がその様子を見守りながら、そっと呟いた。

「この屋敷は、女と子で支えられているのですね」

 桂子は小さく微笑み、答えた。

「戦の間だけでも、それでよいのです」

 志乃は頷いた。

「男たちが戦場で剣を振るう間、女たちは屋敷を守る。それもまた、戦なのですね」

 桂子はその言葉に深く頷いた。



 春が深まり、駿府は緑に包まれていった。

 桂子は毎日、政所で書状を整理し、氏親を支えた。氏親は遠江の情勢を注視し、家臣たちと協議を重ねている。

 兵部少輔からの報は、まだ届いていなかった。

「和議は難航しているのでしょうか」

 桂子が尋ねると、氏親は頷いた。

「大河内は頑固な男だ。簡単には折れまい」

「でも、兵部少輔様なら……」

「ああ、彼なら成し遂げる。理を知る男だからな」

 氏親の言葉に、桂子は安堵した。

 志乃は毎日、御所の警護を続けていた。薙刀を背に、夜な夜な見回りをする。その姿は凛々しく、だが胸の奥には不安が渦巻いていた。

 篠丸は小屋敷で、小姓としての務めを果たしていた。まだ幼いが、その目には父の理が宿っていた。氏親も篠丸を気に入り、時折声をかけている。

 穏やかな日々が続いた。

 だが、その穏やかさは、嵐の前の静けさだった。


六 遠雷


 ある夜、遠くで雷が鳴った。

 春には早すぎる雷――不吉の兆し。

 雨が強まり、風が御所を揺らした。桂子は円、竜王丸、竹若丸を寝かしつけ、廊下に出た。志乃が外を見回り、深雪が灯を整えている。

「春雷とは珍しいですね」

 深雪が言うと、桂子は頷いた。

「ええ……何か良くないことが起こる予感がします」

 その予感は、的中した。

 使者が駆け込み、息を切らして告げた。

「曳馬、開戦! 大河内勢、吉良を巻き込み乱戦に!」

 桂子は立ち上がり、灯を強くした。

「兵部少輔は――」

 深雪が問うた。

 使者は息を整え、答えた。

「まだ、消息は分かりませぬ」

 桂子は深く息を吸い、政所へ向かった。氏親が家臣たちと協議している。その顔は険しく、だが冷静だった。

「遠江へ出兵の準備を。だが、まだ動くな。兵部少輔の報を待つ」

 家臣たちが深く頭を下げた。

 桂子は廊下の端から、その様子を見守った。

 雨は一晩中降り続けた。桂子は眠れず、円、竜王丸、竹若丸の寝顔を見ながら過ごした。志乃も同じく眠れず、薙刀を抱いて座っていた。

 深雪は灯を絶やさぬよう、夜通し見回っていた。

 三人の女は、それぞれの場所で、夜明けを待った。

 夜半、雷鳴が轟いた。その音が、何かの終わりを告げているようだった。


七 悪夢の報


 夜明け前、再び使者が駆け込んできた。

「伊勢兵部少輔、曳馬城下にて討死!」

 桂子は言葉を失った。深雪は声を上げて泣いた。志乃は顔を上げず、ただ膝を折ったまま動かなかった。

 雷鳴が轟き、灯が一瞬だけ揺れた。その瞬間、駿府の屋敷全体が、静まり返った。

 桂子は深く息を吸い、志乃の部屋へ向かった。廊下を歩く足が重い。一歩ごとに、胸が締め付けられる。

 志乃の部屋の障子を開けると、志乃は薙刀を抱き、座っていた。その顔は蒼白で、涙の跡があった。

「志乃……」

 桂子が声をかけると、志乃は小さく頷いた。

「聞きました……」

 桂子は志乃の隣に座った。二人は何も言わず、ただ雨の音を聞いていた。雷鳴が遠ざかり、やがて静寂が戻った。

 志乃が小さく呟いた。

「あの人は……理のために死にました」

 桂子は頷いた。

「はい……」

「けれど、理は私を救ってくれません」

 志乃の声は震えていた。

 桂子は志乃の手を握った。

「理は人を救わない。けれど、情は人を支える。私たちがここにいます」

 志乃は涙を流し、桂子の手を握り返した。

「ありがとうございます……」

 二人は抱き合い、泣いた。深雪が部屋に入り、二人を抱きしめた。三人の女は、静かに泣き続けた。

 夜が明け、雨は上がった。だが、三人の心には、まだ雨が降り続けていた。


八 沈黙の誓い


 翌朝、庭の土が濡れて光っていた。

 志乃は兵部少輔の佩刀を胸に抱いていた。刀身に映る空は白く、風が竹林を揺らしていた。

 桂子が近づき、静かに言葉を探した。

「あなたを失った今、政所は静かになりました」

 志乃はかすかに首を振った。

「静かでよいのです。声を上げれば、あの人の言葉が消えてしまいます。沈黙こそ、私の祈りです」

 桂子はその言葉に深く頷いた。

「ならば、あなたの沈黙を、私の言葉で支えましょう」

 二人は目を合わせた。陽の光が障子を透かし、薄金の帯のように床を照らした。

 志乃は小さく微笑み、佩刀を抱きしめた。

「篠丸は……」

「篠丸は立派に育ちます。私が見守ります」

 桂子の言葉に、志乃は深く頭を下げた。

「ありがとうございます……」

 桂子は志乃を抱きしめた。二人は庭に出た。桜はもう散り、若葉が芽吹き始めている。その緑の中に、新しい命の息吹があった。

 深雪が茶を淹れ、三人は縁側に座った。

「この国は、まだ泣いていますね」

 深雪が呟くと、桂子は頷いた。

「ええ……でも、いつか泣き止む日が来ます」

「その日まで、私たちは待つのですか」

 志乃が問うと、桂子は首を振った。

「いいえ、待つのではなく、作るのです。泣き止む日を」

 その言葉に、二人は静かに頷いた。


九 影の朝


 その日の午後、深雪は庭で竜王丸を抱き、志乃は竹若丸の袖を整えていた。篠丸は小姓の装束を着て、母の影に立っている。

 桂子はその姿を遠くから見つめた。

 男たちの影は消えたが、命の声はここにある。戦は遠くで続く。だが、女たちの心には、すでに新しい朝が芽吹いていた。

「声を上げぬ者たちが、この国を支えているのですね」

 桂子の言葉に、志乃は静かに微笑んだ。

「声は風に消えましょう。けれど、沈黙は残ります」

 桂子は目を閉じ、竹のそよぎに耳を傾けた。その音は、亡き兵部少輔の言葉のように穏やかだった。

 夕暮れ、桂子は筆を取った。震える手で、紙に記す。

 ――理のために死す者あり。

 ――情のために生きる者あり。

 ――されど、沈黙の中にこそ、真の理宿る。

 その一文は、兵部少輔への追悼であり、同時に志乃への励ましでもあった。

 桂子は筆を置き、窓の外を見た。遠江の方角に、まだ煙が上がっている。曳馬の戦は続いている。氏親は出兵の準備を進めているが、まだ動いていない。

 ――影は消えても、志は残る。

 曳馬の煙が空に薄れ、駿府の朝が白く広がっていった。

 戦はまだ終わらない。だが、女たちの祈りは続く。

 その祈りが、いつか戦を終わらせる日が来ることを信じて。

本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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