寿桂尼物語 第2章 散りゆく命、生まれる命 第四話 甲斐の嵐
本作は、石田源志による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
一 春雷の報
春の雨が上がった翌朝、駿府の空は淡く霞んでいた。
桂子は御所で娘・円を抱き、窓の外を見つめていた。円はもう二歳になり、小さな手で桂子の袖を掴んでいる。その無邪気な笑顔を見ながら、桂子は穏やかな日々がいつまでも続くことを願っていた。
「まどか、お花がきれいですね」
桂子が窓の外の梅を指すと、円は目を輝かせて笑った。円――まるく、穏やかに。遠江の炎の夜に生まれたこの子に、平和への願いを込めて名づけた。
だが、その願いは脆く崩れた。
政所に報が届いた。
「甲斐の山々にて、武田との境が乱れ申した!」
使者の声が、静かな朝を引き裂いた。
桂子は娘を深雪に預け、廊下に出た。政所の方向から、家臣たちの慌ただしい足音が聞こえる。鎧の音、馬の嘶き、命令の声。駿府が再び戦の色に染まっていく。
氏親が政所から出てきた。その顔は厳しく、だが冷静だった。
「甲斐へ出陣する」
その一言に、桂子は深く頷いた。
「お気をつけて」
氏親は桂子の手を握り、静かに言った。
「駿府を頼む。そして、円を」
「はい」
桂子は涙を堪え、微笑んだ。
氏親は廊下を進み、出陣の支度を整える。家臣たちが次々と集まり、甲冑を身に着けていく。その中に、伊勢兵部少輔の姿があった。
二
兵部少輔は氏親の命を受け、従軍の支度を整えていた。
志乃は幼子を抱き、黙ってその背を見つめている。息子はもう二歳になり、父の姿をじっと見ている。その小さな目には、まだ別れの意味が分からない。
「理を立てて戦に臨む。それが我が道だ」
兵部少輔は静かに言い、志乃の頬に触れた。
「勝ち負けより、帰ってくることを望みます」
志乃の声は、雨上がりの空のように淡かった。
兵部少輔は息子の頭を撫で、小さく笑った。
「この子が、いつか理を知る日まで、私は生きねばならぬ」
「はい……」
志乃は涙を堪え、深く頭を下げた。
兵部少輔は廊下を進み、氏親の元へ向かった。その背中は頼もしく、だが同時に遠く見えた。志乃は息子を抱きしめ、その背を見送った。
桂子は廊下の端から二人を見つめていた。
夫・氏親の留守を預かる身として、出陣する男たちを見送る女たちの姿を胸に刻むように。
――理に生きる男と、情で支える女。
その均衡が、この国を支えていた。
三
氏親たちが出陣した後、駿府は静かになった。
だが、その静けさは不安に満ちていた。桂子は毎日、政所で書状を整理し、領内の治安を保つために奔走した。氏親の留守を預かる御台所として、駿府を守る務めがあった。
志乃は息子を育てながら、御所の警護を続けた。薙刀を背に、夜な夜な見回りをする。その姿は凛々しく、だが胸の奥には不安が渦巻いていた。
深雪は桂子の娘・円の世話をしながら、炊事や洗濯をこなした。戦に出た男たちのために、駿府を守る女たちの日々が続いた。
春が過ぎ、夏が来た。
そして夏の終わり、氏親が一時帰陣した。甲斐の戦は膠着状態にあり、冬を前に一度駿府に戻ってきたのである。
桂子は氏親を出迎え、涙を流した。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻った」
氏親は円を抱き上げ、その顔を見つめた。円は父の顔を覚えていたのか、嬉しそうに笑った。
その夜、氏親と桂子は久しぶりに二人きりで過ごした。戦の話、駿府の政の話。そして、未来の話。
「まだ戦は続く。だが、必ず勝って戻る」
「はい、お待ちしています」
桂子は氏親の手を握った。
その温もりが、胸に染み入った。
氏親は一月ほど駿府に滞在し、再び甲斐へ向かった。桂子は円と共に、その背を見送った。
秋が深まるころ、桂子は身重の体になっていることに気づいた。
甲斐からの報は少なく、戦の様子は分からない。桂子は毎日、香を焚き、氏親の無事を祈った。その香りは御所を満たし、やがて駿府の町にも流れていった。
四
桂子は身重の体で政を助け、書状を整え続けている。腹が大きくなり、動くのが辛くなっていたが、それでも筆を握り続けた。
「御台所様、お体が……」
深雪が心配そうに言うが、桂子は首を振った。
「大丈夫です。氏親様が戦っておられるのに、私が休むわけにはいきません」
その決意は固かった。
そのころ、深雪に縁談が持ち上がった。
駿府の家臣の一人が、深雪に求婚したのである。桂子は深雪を呼び、静かに言った。
「深雪、あなたも幸せになる権利があります」
「姫さま……」
「私はもう大丈夫です。志乃もいます。だから、あなたは自分の幸せを掴んでください」
深雪は涙を流し、深く頭を下げた。
「ありがとうございます……」
その年の春、深雪の祝言が行われた。
五
祝言の日、桂子は深雪の白小袖の裾を整えながら、微笑んだ。
「命をつなぐことは、戦よりも大きな務め。戦は人を奪うけれど、命は続くのね」
深雪は涙を流し、桂子の手を握った。
「姫さま、いえ、御台所様。あなたに仕えることができて、私は幸せでした」
「これからも、共に駿府を守りましょう」
桂子は深雪を抱きしめた。
祝言は静かに、だが温かく行われた。志乃も息子を連れて参列し、深雪の門出を祝った。御所に太鼓の音が響き、笑い声が溢れた。
だが、その午後、甲斐からの報が届いた。
「雪深き山道にて、味方多く討たる!」
使者の声が、祝言の場を凍らせた。
桂子は息を呑み、深雪の手を握った。祝言の太鼓と、戦死者を弔う鐘が、駿府の空で同時に鳴った。
桂子は御所に戻り、香を焚いた。
「この香が、甲斐の山にも届きますように……」
その呟きは、誰にも聞こえなかった。
六
秋の終わり、桂子は急に腹の張りを覚えた。
政所で書状を整理していたとき、突然の痛みに襲われた。深雪が駆け寄り、桂子を支える。志乃が湯を運び、部屋を整える。
外は雨、遠雷が鳴っている。
桂子は娘が生まれた夜を思い出した。あの夜も雨だった。雷が鳴り、遠江が燃えた夜。そして今夜もまた、雷が鳴っている。
「また……雷の夜なのですね」
桂子は微笑んだ。
そのとき、使者が駆け込み、報を告げた。
「甲斐の山中にて敵を退けました! 殿、御無事にございます!」
その声を聞いた瞬間、桂子の痛みは頂点に達した。
深雪が手を握り、志乃が額を拭う。桂子は深く呼吸し、痛みに耐えた。
「……命を奪う戦の中で、命が生まれる。この世は、理よりも情で回っているのね」
桂子の呟きが、雨音に溶けた。
七
夜半、長男が生まれた。
その産声は雷鳴を越えて響き、雨音に溶けた。桂子は息子を抱き、その顔を見つめた。小さな顔、閉じた瞼、柔らかな呼吸。その一つ一つが、愛おしかった。
「名を……竜王丸と号します」
桂子の声は震えていた。
竜王――雷を司る神。この雷の夜に生まれた息子に、相応しい名だった。深雪が涙を流し、志乃が頷いた。
だが、その静かな喜びは長く続かなかった。
同じ夜、深雪の夫の戦死の報が届いた。
甲斐の山中で、敵の矢に倒れたという。深雪は息を呑み、その場に座り込んだ。志乃が駆け寄り、深雪を抱きしめる。
産声と葬鐘が、ひとつの屋敷に重なった。
桂子は赤子を抱きながら呟いた。
「この泣き声が、誰かの死を包んでいる……それでも、命を産むしかないのですね」
深雪は涙を流し、桂子の手を握った。
「御台所様……私は……」
「泣いてもいいのです。あなたは十分に頑張りました」
桂子は深雪を抱きしめた。
命と死が、同じ夜に交錯した。喜びと悲しみが、同じ屋根の下にあった。それが戦国の世だった。
八
冬が来て、駿府は雪に包まれた。
桂子は円を連れて庭に立った。円が雪に手を伸ばし、笑っている。桂子は微笑み、円を抱き上げた。竜王丸は桂子の胸で眠っている。その穏やかな寝息を聞きながら、桂子は思った。
この子たちが、戦のない世で育つことを。
その願いは、まだ遠かった。
冬が過ぎ、春が来た。
そして春の半ば、氏親が再び一時帰陣した。冬の間に戦況が変わり、和議の準備のために駿府に戻ってきたのである。
桂子は円と竜王丸を連れて、氏親を出迎えた。氏親は二人の子供を抱き、その成長を喜んだ。
「円も大きくなったな。竜王丸もすくすくと育っている」
「はい、二人とも元気です」
桂子は微笑んだ。
氏親は桂子を抱きしめ、その温もりを感じた。久しぶりの再会に、二人とも涙を流した。
氏親は二月ほど駿府に滞在した。その間、政務を整え、家臣たちと協議し、次の戦への準備をした。そして、桂子と共に過ごす時間も大切にした。
初夏、氏親は再び甲斐へ向かった。桂子は円と竜王丸と共に、その背を見送った。
そして夏の終わりごろ、桂子は再び身重の体になっていることに気づいた。
「御台所様、お体が心配です」
志乃が言うが、桂子は首を振った。
「大丈夫です。もうすぐ氏親様が戻られます。それまで、私が駿府を守らなければ」
その決意は揺るがなかった。
九
秋、甲斐の山から今川勢が戻った。戦は和議により終結し、氏親は勝利を手にして帰還したのである。
桂子は政所の前に立ち、氏親を待った。円と竜王丸を連れて、夫の帰還を待つ。腹は大きく張り、もうすぐ三人目が生まれる。その胸は高鳴り、涙が溢れそうになった。
やがて、氏親の姿が見えた。
甲冑を脱ぎ、疲れた顔で駿府に入る。その目が、桂子と子供たちを見た瞬間、柔らかく緩んだ。
「桂子殿……」
「お帰りなさいませ」
桂子は涙を流し、氏親の手を握った。
氏親は円を抱き上げ、竜王丸の頭を撫でた。そして、桂子の大きな腹を見て、静かに笑った。
「また……身重か」
「はい」
桂子は微笑んだ。
氏親は桂子を抱きしめた。その腕は温かく、力強かった。桂子は氏親の胸で涙を流し、その温もりを感じた。
「よく頑張った」
氏親の声が、桂子の耳に優しく響いた。
十
兵部少輔も駿府に帰陣したが、頬はこけ、咳が止まらなかった。
志乃は息子を連れて、兵部少輔を出迎えた。兵部少輔は息子を抱き上げ、その顔を見つめた。だが、その目には疲労の色が濃く浮かんでいた。
「お帰りなさい。甲斐の風は厳しかったでしょう」
「はい……風よりも、人の心が冷うございました」
桂子は静かに頷いた。
「理に生きた者は、情を抱いて帰るものですね」
兵部少輔は微笑みを浮かべた。
「理は人を救わぬと知りました。けれど理を捨てれば国は滅びる。その狭間で生きるほかありません」
桂子はその言葉を胸に刻んだ。
理と情。その両方が必要なのだと、改めて悟った。理だけでは人は救えない。だが、情だけでは国は治まらない。その均衡を保つことが、為政者の務めなのだと。
十一 新しい命(1515年晩秋)
晩秋、桂子は次男を産んだ。
その日は穏やかな晴れの日だった。雷も鳴らず、雨も降らず、ただ静かな朝だった。桂子は次男を抱き、その顔を見つめた。
「名を……竹若丸と記します」
桂子の声は穏やかだった。
竹――しなやかに風を受け、折れぬ草。戦乱を生き抜く子への願いを込めて。氏親が頷き、竹若丸の頭を撫でた。
「よい名だ」
桂子は微笑んだ。
円、竜王丸、竹若丸。三人の子供たちが、桂子の腕の中で眠っている。その顔を見ながら、桂子は思った。
この子たちが、戦のない世で育つことを。
その願いは、まだ遠い。
だが、いつかは実現する日が来る。
その日を信じて、桂子は生きていく。
十二
ある夜、志乃は幼子を寝かせ、廊下に立った。
兵部少輔が月を見上げている。その背中は以前よりも小さく見えた。甲斐の戦で、何かを失ったのだろう。
「遠江での交わりを、再び整えねばなりません。次は戦ではなく、言葉での和議です」
兵部少輔の声は静かだった。
志乃は黙って彼の背を見つめた。胸の奥で、何かが静かに崩れる音がした。
「この子は、おぬしの情で生かせ。私は理の果てを、もう一度だけ見に行く」
志乃は涙を堪え、ただ頷いた。
「あなたが帰る場所を、私は守ります」
兵部少輔は微笑み、闇の向こうへ消えた。
志乃はその背を見送り、息子の部屋に戻った。息子は静かに眠っている。その顔を見ながら、志乃は思った。
この子を、立派な武人に育てる。
父の理を継ぎ、母の情を知る、立派な武人に。
その決意が、静かに胸に満ちていった。
十三
翌朝、駿府は霞に包まれていた。
桂子は竜王丸と竹若丸を両腕に抱き、庭に立った。円が傍らで花を摘んでいる。その姿を見ながら、桂子は微笑んだ。
志乃は息子の小姓の支度を整えている。いずれこの子が、氏親に仕える日が来る。その日のために、今から準備をしているのだ。
深雪は喪服を解いて戻ってきた。夫を失った悲しみは深いが、それでも前を向いて生きていく。桂子の傍で、再び仕える決意をした。
三人の女、それぞれが抱く命と失ったものを胸に、同じ空を見上げていた。
「戦は、遠く離れても妻たちの腹を痛める。それでも命を産み、育てねばならない。それが、私たちの戦なのです」
桂子の言葉に、二人は静かにうなずいた。
甲斐の風が駿府に届き、若葉を揺らした。
その風は冷たく、だが同時に新しい命の息吹を運んでいた。桂子は深く息を吸い、胸に駿河の風を刻んだ。
戦は終わった。
だが、次の嵐が近づいていた。
――曳馬の影が、遠江の地で動き始めていた。
第五話へ続く
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
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設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




