寿桂尼物語 第2章 散りゆく命、生まれる命 第三話 斯波の炎
本作は、石田源志による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
一
駿府の夜は、静かな雨に包まれていた。
灯籠の火が雨粒に揺れ、庭の松葉がしずくを溜める。春から初夏へと移ろう季節の境目、駿河の空は重く垂れ込めていた。
桂子は御所の奥で、膝に手を置いていた。
腹が、わずかに張っている。もう六月に入ったばかりだが、身ごもってからすでに九月が過ぎようとしていた。深雪が傍らで茶を淹れ、志乃が薙刀を磨いている。
「姫さま、いえ、御台所様。お身体の具合は」
「ええ、大丈夫です」
桂子は微笑んだ。
だが、その微笑みの奥には、静かな緊張があった。初めての出産を前に、心の奥底で何かが蠢いている。それは不安ではなく、むしろ覚悟に近いものだった。
この腹の中の命が、やがて駿河の未来を担う血となる。その重みを、桂子は日々感じ取っていた。
外では雨が強くなり、風が松を揺らした。
その雨音の奥から、急な足音が響いた。
二
「斯波義達、遠江刑部城に攻め寄す!」
使者の声が、政所を震わせた。
桂子は障子越しにその声を聞き、息を呑んだ。深雪が顔を上げ、志乃が薙刀を握り直す。
廊下を駆ける音、甲冑を纏う音、馬の嘶き。駿府の夜が、一瞬にして戦の色に染まった。
桂子は立ち上がろうとしたが、腹の重さに膝が震えた。深雪がすぐに支え、座らせる。
「御台所様、どうかお座りください」
「いいえ、氏親様にお会いしなければ」
桂子は深雪の手を振り払い、廊下に出た。政所の方向から、氏親の声が聞こえる。家臣たちに指示を出す声は、冷静だが力強い。
桂子が廊下を進むと、氏親が甲冑を身に着けているところだった。その背中は頼もしく、だが同時に遠く見えた。
氏親が振り返り、桂子を見た。
「桂子殿……」
「お気をつけて」
桂子は深く頭を下げた。
氏親は小さく頷き、一歩近づいた。その手が、桂子の肩に触れる。
「駿府を頼む」
その一言だけを残し、氏親は出陣した。
桂子は廊下に立ち尽くし、雨の中を駆けていく氏親の背を見送った。兵たちの足音が遠ざかり、やがて静寂が戻る。
だが、その静けさは偽りだった。
桂子の胸の奥には、重い鼓動が宿っていた。それは己のものだけではなく、腹の中の命が小さく身じろぎをする音だった。
――戦と命。
この世で最も遠くにあるものが、今夜は同じ時を刻んでいる。
三
桂子は御所に戻り、筆を取った。
墨をすり、紙に向かう。手が震えていたが、それでも筆を握った。
「理は剣にあらず。言葉で国を治める道もあるはず」
その呟きは、誰にも聞こえなかった。
深雪が湯を沸かし、志乃が外を見回っている。御所の警護には、伊勢兵部少輔が残っていた。氏親の命により、桂子の身を守るためである。
兵部少輔は政所の隣室で、書状を整理していた。戦の最中でも、駿府の政務は止まらない。年貢の記録、領民への通達、同盟国への書状。その一つ一つが、国を支える糸だった。
桂子は筆を走らせた。
遠江の領主たちへの書状。戦火を避け、民を守るための言葉。氏親が剣で戦うなら、自分は言葉で国を守る。その決意が、筆の先に込められていた。
そのとき、志乃が部屋の隅で小さく呻いた。
桂子が顔を上げると、志乃が壁に手をついている。その顔は青白く、額に汗が浮いていた。
「志乃……」
桂子は立ち上がろうとしたが、自分の腹の重さに座り込んだ。深雪がすぐに志乃に駆け寄る。
「志乃様、お腹が……」
「いえ、大丈夫です。まだ……」
志乃は薙刀にすがりながら、必死に立っていた。だが、その顔は明らかに苦しみに歪んでいた。
桂子は息を呑んだ。
志乃もまた、身ごもっていた。伊勢兵部少輔の子である。二人は密かに契りを交わし、志乃の腹には命が宿っていた。桂子はそれを知っていたが、誰にも言わなかった。
同じ屋根の下で、二人の女が命を宿している。
そして今夜、その二つの命が、戦火と共に産まれようとしていた。
四
雨脚が強くなり、雷が遠くで鳴った。
桂子は筆を置き、深く息を吸った。腹の奥に、鋭い痛みが走る。それは小さな痛みだったが、確かに命の動きだった。
「深雪……」
「はい、御台所様」
深雪はすぐに桂子の傍に座った。志乃も、別室に移された。兵部少輔が戸口に立ち、祈るように空を見上げている。
雷鳴が走り、雨が激しく降った。
そのとき、使者がまた駆け込んできた。
「刑部城、火の手上がる! 遠江一帯、炎に包まる!」
桂子は息を止めた。
その瞬間、腹の奥に激しい痛みが走る。深雪が手を握り、桂子の額を拭う。
「御台所様、もうすぐです。お力を」
桂子は歯を食いしばり、深く呼吸した。
外では雷、内では命。
その二つが、同じ夜に交錯していた。
五
夜半、雷鳴が最も激しく響いた。
桂子は声を上げ、深雪の手を握りしめた。痛みが波のように押し寄せ、視界が白く染まる。だが、その痛みの奥に、確かな生命の息吹を感じた。
「もう少しです、御台所様。もう少し……」
深雪の声が遠くに聞こえる。
桂子は目を閉じ、心の中で祈った。
――氏親様、どうかご無事で。そして、この子も……。
雷鳴のあと、最初の泣き声が響いた。
それは小さく、か細い声だった。だが、その声は確かに生命の叫びだった。
「女の子です」
深雪が告げると、桂子は目を開けた。
小さな娘が、深雪の腕の中で泣いている。その顔はまだ赤く、小さな手が空を掴んでいた。桂子は涙を流し、その手を握った。
「ありがとう……ありがとう……」
深雪が娘を桂子の胸に置く。桂子は娘を抱きしめ、その温もりを感じた。
そのとき、隣の部屋から声が上がった。
志乃の産声である。
兵部少輔が戸口で立ち尽くし、その声を聞いていた。その顔には、安堵と緊張が混じっていた。
深雪が急いで隣室に向かう。しばらくして、深雪が戻ってきた。
「志乃様も、無事に……男の子です」
桂子は微笑んだ。
「そう……よかった」
二つの産声が、雨の夜を照らした。
一つは娘、一つは息子。
戦火の夜に、二つの命が駿府に生まれた。
六
夜明け前、雨がやんだ。
庭の水面に薄い光が差し、松の葉が雫を落とす音が響いた。桂子は娘を抱き、窓の外を見つめていた。
深雪が傍に座り、静かに言った。
「遠江の火は、殿が鎮められました。斯波勢は退きました」
「そう……」
桂子は深く息を吐いた。
「この子が生まれた夜、遠江が燃えたのですね」
「はい。しかし、もう炎は消えました」
桂子は娘を見つめた。小さな顔、閉じた瞼、柔らかな呼吸。その一つ一つが、愛おしかった。
「この子はいずれ、遠江を結ぶ光になるでしょう」
その言葉は、未来を見ていた。
やがてこの娘が吉良に嫁ぎ、駿河と遠江を結ぶ礎となることを、このとき誰も知らなかった。ただ、桂子の胸には確かな予感があった。
この子の命が、国を繋ぐ。
七
隣の部屋では、志乃が息子を抱いていた。
兵部少輔が静かに座り、灯を見つめている。その顔には、父としての喜びと、武人としての決意が交錯していた。
志乃は息子の小さな手を握り、かすかに笑った。
「この子が、あなたの血を忘れずに生きられますように」
兵部少輔は答えず、ただ頷いた。
その目には、涙が浮かんでいた。武人は涙を見せぬものだが、この夜だけは許された。命の誕生は、どんな勝利よりも尊いものだった。
「名は……」
兵部少輔が初めて口を開いた。
「まだ決めておりませぬ」
志乃が答えると、兵部少輔は小さく笑った。
「ならば、殿に伺おう。この子は、駿府に仕える者となるのだから」
志乃は頷いた。
この息子が、やがて今川の小姓として氏親に仕えることになる。その未来を、二人は静かに見つめていた。
八
夜が明け、駿府に朝日が差した。
桂子の部屋の障子が開き、柔らかな光が流れ込む。外では、兵の帰陣の声が響いている。
氏親が戻ってきた。
甲冑を脱ぎ、疲れた顔で御所に入る。その目が、桂子と娘を見た瞬間、柔らかく緩んだ。
「桂子殿……」
「お帰りなさいませ」
桂子は微笑み、娘を差し出した。
氏親は小さな娘を抱き、その顔を見つめた。そして、静かに笑った。
「女子か……」
「はい」
「よく頑張った」
氏親は桂子の手を握った。その手は温かく、力強かった。
桂子は涙を流し、氏親の手を握り返した。
「遠江は……」
「鎮めた。もう炎は消えた」
氏親は娘を桂子に返し、窓の外を見た。
「この子が生まれた夜、遠江が燃えた。ならば、この子の命が、遠江との縁となる」
桂子は頷いた。
氏親の言葉は、いつも未来を見ていた。
九
その日の午後、桂子は筆を取った。
震える手で、紙に記す。
――戦の夜に、二つの命、光を得たり。
――理は剣にあらず。命こそ、国を繋ぐ。
その一文は、後に"政の心"と呼ばれ、今川の家法に息づく理の源となる。
桂子は筆を置き、娘を抱いた。
外では、兵たちが疲れた体を休めている。戦の傷を癒し、明日への備えをする。その姿を見ながら、桂子は思った。
命を産み、国を思う。
それが女の戦であると。
剣を持たずとも、国は守れる。言葉を紡ぎ、命を育て、未来を見据える。それが、御台所としての己の役目なのだと、桂子は悟った。
十
雨の翌日の空は、透き通るように青かった。
桂子は庭に立ち、風を吸い込む。娘を抱き、その顔に朝日を浴びせる。小さな目が、ゆっくりと開いた。
戦の煙はもう見えない。
けれど胸の奥には、あの夜の炎がまだ揺れていた。
遠く、遠江の地に朝日が差す。
その光は、やがて一つの血脈を結び、駿府の未来を照らすことになる。
桂子は深く息を吸い、胸に駿河の風を刻んだ。
この子と共に、この国を守る。
氏親と共に、理と情の国を築く。
そして、志乃の息子と共に、新しい時代を作っていく。
その決意が、静かに胸に満ちていった。
――だが、この穏やかな日々は、長くは続かない。
戦国の世は、容赦なく彼らを試すことになる。
それでも桂子は、この朝の光を忘れなかった。
命が生まれた夜の雷鳴も、氏親の帰還の安堵も、娘の小さな手の温もりも。
そのすべてが、桂子の中で生き続けることになる。
第四話へ続く
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
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設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
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本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




