寿桂尼物語 第2章 散りゆく命、生まれる命 第二話 春霞の道
一
翌朝。
駿府の空は、春の霞にけぶっていた。
城下を囲む山の端には梅がほころび、遠くには香積寺の瓦が淡く光る。朝の光が柔らかく地を照らし、まだ冷たい空気の中に、春の訪れを感じさせる温もりが混じっていた。
桂子は、浅葱の小袖に薄絹を重ねていた。都よりもまだ冷える駿河の風に、肩をすくめる。
その隣を歩く氏親が、ふと笑った。
「寒いか。都の春より遅いからな」
「ええ……けれど、香の香りが違いますね。湿り気があって、少し重たい」
桂子がそう答えると、氏広が横から静かに言った。
「駿河の土は水を多く含みます。人の心もまた、乾かぬようできている」
菊寿丸がその言葉に小さく笑った。
「兄上は、何でも理に結びますね」
昨日の政所での堅苦しさはない。四人だけの道行きは、まるで古い友人同士のような和やかさがあった。氏親も普段の当主としての構えを解き、従兄弟と語り合う青年の顔を見せている。
桂子は、この空気が心地よかった。
都では決して味わえなかった、親しい者同士だけの時間。政治も格式も離れて、ただ春の道を歩く。それだけのことが、こんなにも穏やかなのだと知った。
二
「理にせねば、国は回らぬ」
氏広は笑みも見せずに言う。
「情に寄れば争い、欲に寄れば乱れる。理を立ててこそ秩序が生まれるのです」
氏親がその後ろ姿を見ながら、軽く肩をすくめた。
「そうは言うがな、理ばかりでは人は動かぬ。民は腹が満たされてこそ、理を聞く耳を持つ」
「だからこそ理を示すのです」
氏広がすぐに返す。
「理を見せぬ主に、民はついては参りませぬ」
二人のやり取りは、まるで長年続けてきた問答のようだった。どちらも譲らず、だが互いの言葉を否定することもない。それは対立ではなく、補い合いだった。
桂子は二人のやり取りを聞きながら、そっと口を開いた。
「理と情……、まるで水と香のようですね。どちらも欠ければ、香は立ちません」
氏親が振り向き、やわらかく笑った。
「なるほど、御台の言葉は美しい。われらの言で言えば――政に香を添えよ、ということか」
菊寿丸が目を細める。
「香は目に見えぬゆえに、誤魔化しもできぬ。……心に香があるかどうかで、人の理は変わります」
その言葉に、桂子は深く頷いた。
香は形がない。だからこそ、真実が問われる。表面だけを繕っても、香は立たない。心からの誠意があってこそ、人は動く。菊寿丸はそれを、十五にして理解している。
三
氏広が、わずかに歩調をゆるめた。
「菊寿丸、理に香を通すなど、聞いたことがないな」
「兄上が理を立て、御台様が香を焚かれ、殿がその風を導く。――それで駿府は整います」
十五の少年の言葉に、三人とも足を止めた。
菊寿丸の瞳は静かに澄み、光の粒を映している。その目には、年齢を超えた洞察があった。まるで、すでに未来を見通しているかのような静けさだった。
氏親が小さく息を吐いた。
「おぬし、十五とは思えぬことを申すな」
菊寿丸は首を傾げた。
「父上が申しました。"理は人に宿る"。……ならば、人の心を見ずして理を語るな、と」
桂子はその言葉に頷いた。
「まこと……その通りですわね」
伊勢盛時の教えは、息子に深く根付いている。理は机上の学問ではなく、人の中に生きるものだ。その真理を菊寿丸、は父から学んだのだろう。
氏広が弟を見つめた。その目には、厳しさと同時に、深い愛情があった。
「菊寿丸、おぬしは学僧として生きると決めたが……」
「はい」
「だが、おぬしの言葉は、政を動かす力がある」
菊寿丸は静かに首を振った。
「私は血を継ぐ者ではありません。ただ、理を学び、人を見る者でありたいのです」
その謙虚さに、桂子は胸を打たれた。
四
道の先に、香積寺の屋根が見えた。
春霞の中に、梅と桜がまだらに咲き始めている。白と淡紅の花が風に揺れ、その香りが漂ってくる。
桂子は歩きながら、そっと呟いた。
「理も情も、香のように混じり合って初めて国を包むのかもしれません」
氏親が微笑し、ゆっくりと歩を進めた。
「その言葉、政所にも飾っておこう」
氏広が小さく笑った。
「殿、それでは政所が香の間になってしまいます」
「それもよかろう。理ばかりの場では、人が息苦しくなる」
菊寿丸が静かに言った。
「香の間で語られる理こそ、人の心に届くのかもしれませぬ」
四人は並んで歩いた。
氏親と氏広、従兄弟にして盟友。桂子と菊寿丸、都から来た者と学問を究める者。立場も年齢も違う四人が、この春の道で同じ歩幅で歩いている。
桂子は、この瞬間が永遠に続けばいいと思った。
政治も戦も、すべてを忘れて、ただ春の霞の中を歩く。それがどれほど贅沢な時間なのか、この時の桂子にはまだ分からなかった。
五
香積寺の門をくぐると、境内は静かだった。
僧侶が一人、庭を掃いている。その箒の音だけが、静寂を満たしていた。
四人は本堂に向かい、手を合わせた。
桂子は目を閉じ、心の中で祈った。
――この国の安寧を。氏親の治世が続くことを。そして、この四人の絆が、いつまでも続くことを。
祈りを終えて目を開けると、隣で氏親も同じように目を開けた。二人の視線が合い、氏親が微笑んだ。
「何を祈った」
「秘密です」
桂子が微笑み返すと、氏親は小さく笑った。
「ならば、私も秘密にしておこう」
氏広と菊寿丸も祈りを終え、四人は縁側に座った。
庭には梅が咲き、その向こうに駿府の町が見える。屋根が連なり、煙が上がっている。人々の暮らしが、ここから見渡せた。
「美しい景色ですね」
桂子が呟くと、氏親が頷いた。
「この景色を守るのが、私たちの務めだ」
「ええ」
桂子は頷いた。
氏広が静かに言った。
「理を立て、情を添え、香を焚く。それで国は治まる」
菊寿丸が続けた。
「そして、風を導く者がいれば、その香は国中に広がります」
氏親が笑った。
「おぬしたち、すでに詩人だな」
四人は笑い合った。
その笑い声が、春の霞に溶けていった。
六
帰り道、桂子は振り返った。
香積寺の屋根が、霞の向こうに小さく見える。あの場所で過ごした時間が、すでに遠い記憶のように感じられた。
「また来たいですね」
桂子が言うと、氏親が頷いた。
「ああ、また来よう。四人で」
氏広が静かに言った。
「次は夏に。青葉の頃がよろしいかと」
菊寿丸が微笑んだ。
「その頃には、私も少しは成長しているでしょうか」
「おぬしはすでに十分に成長している」
氏親が菊寿丸の肩を叩いた。
「ただ、もう少し背が伸びればよいがな」
宗哲が苦笑し、四人はまた笑い合った。
――その日、駿府の空を包んだ春の霞は、四人の若き日の記憶として長く残ることになる。
それが、後の「理と情の政」の始まりであった。
桂子は、この日のことを生涯忘れなかった。
理を語る氏広、情を理解する氏親、そして香を知る菊寿丸。その三人と共に歩いた春の道が、自分の人生の中で最も穏やかな時間だったと、後に振り返ることになる。
だが、この穏やかな時間は、長くは続かない。
戦国の世は、容赦なく彼らを試すことになる。
※菊寿丸・・・のちの北条幻庵
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
本文の連載は note版 にて公開しています。
設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




