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寿桂尼物語 第1章 東への花嫁 第一話 出立(いでたち)

本作は、石田源志による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

寿桂尼物語 今川を支えた都の姫君 第1章 東への花嫁

 

※本作は史実を題材とした創作小説です。登場人物「桂子」は作者による創作設定です。


第一話 出立いでたち




 都の春はまだ浅い。

 中御門家の屋敷では、早朝から人の声が絶えなかった。襖が開けば白衣の女房が行き交い、香の匂いが廊に流れる。輿の支度、供の名簿、衣の確認。あらゆる手が慌ただしく動いている。

 この日、当主・中御門宣胤の娘、桂子が、駿河の今川家へ輿入れする。

 京の公家と東国の守護大名――。

 その婚姻は、ただの縁組ではない。明応の乱から十年、戦乱の続くこの時代、朝廷の権威を保つためにも、地方の有力家との結び付きは必要だった。今川氏親は駿河、遠江を治める守護として力を伸ばし、都の文化を強く求めていた。朝廷もまた、東国に安定した後ろ盾を必要としていた。

 桂子は十六。生まれて初めて屋敷の門を出る。

 父・宣胤は几帳の奥に座し、出立の報を待っていた。桂子は母とともにその前に進み、膝をつく。

「桂子。」

 父の声は低く、よく通った。

「今川殿は礼を重んずる家だ。武の家ではあるが、都の作法を学びたいと申しておられる。お前が向こうで示すべきは、この家の品だ。才や容ではなく、血の品格だ。」

 桂子は深く頭を下げた。

 父の言葉は冷静に整えられていた。だがその奥に、娘を誇るわずかな温度があった。それは涙や慰めではなく、公家としての矜持に包まれた信頼だった。桂子もまた、それを感じ取っていた。

 母は黙っていた。袖の奥で扇を握りしめ、ただ一度、桂子の手を包んだ。

「身体を大切に。無理をしてはなりません。」

 その一言に、京の家の柔らかい匂いが宿っていた。香と白粉と、春の庭に咲く梅の花。桂子はそれらをすべて胸に刻もうとした。母の指は細く、震えていた。だがその顔には涙の影さえなかった。

 廊の外から声がかかる。

「今川家よりの使者、門前に。」

 供回りを率いる男の報告だ。

 京から駿河までは十日を超える。だが今回は都を出て伊勢まで陸路、その先は船で駿河へ渡ることになっていた。女の身には山越えより安全で、格式にもかなう道のりである。港まで四日、船路は三日。中御門家の娘が、戦国の守護大名の妻となる旅路としては、これが最も慎重な選択だった。




 玄関口に出ると、すでに今川家の迎えの一行が控えていた。

 鎧の音を立てず、甲冑の金具だけが朝日に光る。その統制は、武家でありながら礼儀を重んじる今川家の作法そのものだった。先頭には使者の伊勢兵部少輔。三十過ぎの武人で、顔には古い傷跡があった。深く頭を下げ、文を差し出した。

「今川氏親様より。中御門家御息女、御輿入れの儀、滞りなくと仰せです。」

 父・宣胤は文を受け取り、形式どおりに一礼を返した。

「遠路ご苦労。娘をよろしく頼む。」

 それだけ言うと、背を向けた。父としての言葉より、公家としての礼が先に立つ。それが中御門の流儀であり、桂子もまたその姿を見て育ってきた。

 そのやり取りを、二人の女が見守っていた。

 一人は志乃。二十歳。薙刀を背に、姿勢を崩さない。

 幼いころから桂子に仕え、父の代に家の用人を務めた家の娘だった。今は桂子の警護を一身に担う。その面差しには女房らしい柔らかさよりも、武人のような鋭さがあった。桂子が幼い頃、屋敷の者に薙刀の稽古を願い出たとき、志乃だけが一緒に立ち会い、その身を守った。以来、二人の間には主従を超えた、深い信頼があった。

 もう一人は深雪。十八歳。文と礼法を司る若い侍女で、桂子の教育係のような存在だ。

 その目は細やかで、所作のわずかな乱れも見逃さない。だが厳しさの裏には、桂子を見守る優しさがあった。都で生まれ、書物と香を愛し、いつか姫様とともに学びの場を持ちたいと夢見ていた。駿河という遠国へ赴くことを、不安よりも好奇心で受け止めているように見えた。

 志乃が警護の確認を終えると、深雪は袖の端を整えながら言った。

「姫様、裳裾が少し短うございます。駿河の人々の目は侮れません。」

「このままでよいわ。」桂子は微笑んだ。

「道中で何度も裳を汚すでしょうから。」

 深雪は口をすぼめて小さく首を振る。

「都を離れる前に、そのようなことを言われては、女房たちが泣きます。」

「泣かれても仕方がないでしょう。私は駿府の人となるのですから。」

 志乃が一歩進み、短く言う。

「出立の刻、まもなく。」

 その声に、二人の女房が頷いた。桂子は深く息を吸い、心の中で繰り返す。「駿府の人となる」――この言葉は、もう後戻りのできない決意の証だった。




 午の刻、すべての支度が整う。

 中御門家の門前には、見送りの家人たちが並んでいた。白衣の女房たちは袖で顔を隠し、年老いた用人は固い顔で列を見送る。その視線の先に、桂子の姿があった。

 桂子は父母の前に進み出る。

 母は涙を見せず、扇を開いて「行ってらっしゃいませ」と言った。その声は静かで、僅かにかすれていた。だが顔を上げることはなかった。

 父は頷き、一言。

「桂子、これよりは都の娘ではない。今川の妻として恥をかくな。」

「はい。」

 それだけを答え、桂子は輿に乗った。

 内部は狭く、香の匂いが充満していた。膝を折り、背をまっすぐにして座る。簾越しに見える景色が揺れる。今、自分が何をしているのか、どこへ向かっているのか、それがまだ実感として湧かない。ただ父と母の顔だけが、鮮明に心に残っていた。

 志乃が外に立ち、行列の合図を送る。

 深雪は文箱を抱え、最後尾に控えた。

 門が開き、列が動き出す。白砂の上に車輪が軋み、春の光が瓦に跳ねた。

 やがて屋敷の塀が途切れ、京の町が広がる。

 桂子は薄く開いた簾の隙間から、都の屋根を見た。

 香の煙が空に上がり、遠くで鐘の音が響いている。寺の鐘か、それとも門の鐘か。都の音は、何もかもが柔らかく響いた。だがそれも、もうじき遠ざかっていく。

 深雪がそっと囁く。

「姫様、これが都の見納めでございますね。」

 桂子は短く答えた。

「ええ、でも振り返ることはいたしません。」

 志乃の声が前方から届く。

「姫様、前が開けます。」

 桂子は目を閉じ、深く息を吸った。

 列は東へ向かう。

 賀茂川を渡り、山科を抜け、近江へ。伊勢の津へ着くまでに、幾つもの峠を越えねばならぬ。

 輿の揺れの中で、桂子は父の言葉を思い出していた。

 "血の品格"――。

 その意味を、まだ知ることはできなかった。だが駿河へ着くころには、きっと分かるだろう。自分が何者であり、何を背負い、何を為すべきかを。

 桂子は目を開け、揺れる簾の向こうに広がる道を見つめた。

 都の春は遠ざかっていく。そして、新しい季節が待っている。

 駿河の地で、桂子は寿桂尼となる。

 その名は、やがて戦国の世に深く刻まれることになる。


本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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