自転車でハグされた日
「なーんで私が漕がなきゃいけないのよ!」
自転車のペダルがいつもより重い。海沿いの道はなだらかな上り坂だけど、晴れていて風が気持ちいい。
「いーじゃん。お前パワフルだし」
タケルは私の幼馴染。隣の一軒家に住んでいる彼とは生まれる前からの仲だ。覚えてないけど。
「なんでこんな寒い日に海に行きたいのよ」
「いーじゃん。そんな日があったって」
「まあ、いいけどさ」
「俺、引っ越すことになったんだ」
「え、いつ? 聞いてない」
「昨日決まった」
「そんな急に?」
「離婚したから俺と母さんが出てくことになった」
「まじ?」
「こんな嘘つかないよ」
「そっか」
「うん」
自転車の音だけが聞こえる。心臓が悲鳴を上げそうだ。いつも優しかったおばさん。自分の家のように入り浸ったあの家。喪失感。
「わぁ!」
急にタケルが背中から抱きついた。
「俺、いつかヒマリのこと迎えにいくから」
「は?」
「待ってて」
私の背中にタケルの重み。
「待たないよ」
「なんで!」
「待つ理由がないもん」
「……好きだから待ってて。結婚しよ」
「やだよ。こんな時まで冗談ばっかり」
「本気だよ? ヒマリのこと、ずっと好きだった」
「嘘ばっか。だって薫子さんと付き合ってたじゃん!」
「あーれはさー、薫子さんに告られたから仕方なく」
「サイテー」
「あの状況でヒマリに行ったらヒマリヤバいじゃん」
「えー。信用できませんー」
「めっちゃ考えたのに」
「次のサヤカは?」
「あの人も一軍女子だからヒマリが困ると思ってオッケーした」
「次はアツコだっけ?」
「……その前にミサトとキヨエ」
「……そうなんだ」
「おかげで俺、最低男だってさ」
「全部振らせたってこと?」
「めっちゃ頑張った」
「努力の方向が微妙」
「だって俺が好きなのはヒマリなのに」
「うーん」
「ヒマリは俺のこと嫌い?」
「嫌いではないけど」
「じゃあ好き?」
「イケメン過ぎて隣に立ちたくない」
「えー。それは俺のせいじゃないじゃん」
「どう頑張っても無理だってば」
「ヒマリ可愛いけどなー」
「そう言われてもなー」
「俺、ヒマリがいいのに」
お腹を抱きしめる手に力が入る。
「……そう言われたら嬉しいけど、さ」
「よし! 言質!」
その後、本当に引っ越したタケルはフランスでモデルに。遊びにおいでよー、で私も母親と渡仏。良い教会があると言われて観光に行ったはずが自分の結婚式だった。そして今、私はタケルとフランスで暮らしている。実はちゃんと幸せだ。人生の転換期って急に来るんだね。
完




