第95話 黒パン祭り
【若き商人レオ視点】
『アヴァロン帝国暦2年 7月上旬 帝都フェルグラント 晴れ』
地鳴りのような車輪の音が、帝都フェルグラントの石畳を震わせていた。
北方の都市ハーグから帰還した我々を先頭に、帝都の北門から延々と続く荷馬車の列。その数は優に数百台を超え、最後尾は地平線の彼方に霞んで見えないほどだ。
重そうな幌馬車の列を護衛する屈強な兵士たちと、御者台で誇らしげに鞭を振るう商人たち。彼らが運んできたのは、黄金でも宝石でもない。帝国の窮地を救うための「命の糧」であった。
「すげえ量だ……」
「おい、あの馬車の中身はなんだ? まさか、小麦か!?」
沿道には、長引く小麦の高騰でやせ細り、絶望的な目をしていた帝都の市民たちが群がり、ざわめきを交わしている。
彼らの虚ろだった瞳に、わずかな期待の光が宿るのを横目で見ながら、私とバルザフは一足先にグレン公の待つ帝城へと馬を走らせた。
◇◆◇
「――見事だ、レオ! バルザフ殿! まさかこれほどの量を、これほど短期間でかき集めてくるとはな!」
執務室に駆け込んだ我々を、グレン公は立ち上がって大声で出迎えた。
無精髭の顔には、この数週間の心労を吹き飛ばすような、会心の笑みが浮かんでいる。
「へへっ、北方のヴァルデマール将軍は話のわかる御仁でしてね。帝国の金貨の威光と、これから開ける巨大な市場の魅力を見せつけたら、穀物庫の底をさらう勢いで売ってくれやしたよ!」
バルザフがもみ手をしながら、誇らしげに報告する。
実際、ハーグの備蓄量は我々の想像を遥かに超えていた。買い付けたライ麦の総量は、数万の帝国軍が半年間進軍を続けても有り余り、なおかつ帝都の全市民の胃袋を賄えるだけの途方もない規模である。
「これで軍の兵糧は完全に確保できた。フィオラヴァンテの商人どもの小賢しい兵糧攻めも、これで終わりだ。……だが、一つ問題がある」
グレン公がふと真顔になり、腕を組んだ。
私も、密かに抱えていた懸念を口にする。
「ええ。軍の兵站は問題ありませんが、帝都の市民たちにこの『ライ麦』をどう流通させるか、です。帝都の民は、温暖な平野部で育った白く柔らかい『小麦のパン』に慣れきっています。酸味が強く、黒くて硬いライ麦のパンを、彼らは『貧者の食べ物』や『家畜の餌』と見なして敬遠する傾向があります」
「うむ。いくら市場に安く放出したところで、『こんな黒くて硬い石ころみたいなパンが食えるか! 貴族たちはこっそり白いパンを食っているんだろう!』と暴動になりかねん」
飢えは人を狂わせるが、それ以上に「不公平感」と「プライド」が民衆の怒りに火をつけるのだ。
「強制的に配給しても反感を買うだけでしょう。どうやって、この黒パンを市民に『喜んで』食わせるか……」
私が思案に暮れていると、グレン公はニヤリと、猛禽類のような凶悪な笑みを浮かべた。
「簡単なことだ、レオ。人間というのはな、『祭り』と『権威』に弱い生き物なんだよ」
「祭り……ですか?」
「ああ。強制するから反発する。ならば、これを最高に美味い『ご馳走』として振る舞う大宴会を開けばいい。皇帝陛下直々の、大盤振る舞いのな!」
◇◆◇
数日後。帝都フェルグラントの中央広場は、これまでにない異様な熱気と、強烈に食欲をそそる匂いに包まれていた。
広場を埋め尽くすように、数十の巨大な大鍋が設置されている。
グレン公の命を受けたお抱え料理長と、なぜか楽しそうに腕まくりをしている毒見役のメイド・リタの指揮のもと、帝国軍の炊事兵たちが総出で鍋をかき混ぜていた。
鍋の中でグツグツと煮込まれているのは、塩漬けの豚肉と、たっぷりの豆、そしてクズ野菜を豪快に煮込んだ濃厚な肉のシチューだ。
そしてその横には、北方から届いたばかりのライ麦で焼き上げられた、巨大な『黒パン』が山のように積み上げられていた。
『これより、アヴァロン帝国皇帝カール陛下主催による、戦勝祈願の大宴会を開催する! 市民たちよ、腹いっぱい食い、大いに飲め!』
広場に集まった数万の市民たちの前に、真紅の外套を羽織ったカール皇帝が姿を現した。
皇帝は広場の中心に立つと、山積みにされた黒パンの塊を無造作に鷲掴みにし、それを大鍋の濃厚なシチューにドップリと浸した。
「見よ! これが北方の豊かな大地が育んだ、帝国の新たな力だ! 白くひ弱なパンなど、戦う男の食うものではない! この黒く分厚いパンこそが、アヴァロンの強靭な肉体を作るのだ!」
カール皇帝はそう咆哮すると、シチューの染み込んだ黒パンにガブリと噛みつき、猛獣のように咀嚼して、ゴクリと飲み込んだ。
「うむ! 美味い!! 食え、貴様らも残さず食らい尽くせ!」
皇帝陛下自らが、誰よりも美味そうに黒パンを頬張る姿。
それは、飢えに苦しんでいた市民たちのプライドと偏見を、一瞬にして吹き飛ばすのに十分すぎる光景だった。
「おおおおおっ!! 陛下万歳!!」
「俺にもくれ! その黒パンとやらを食わせてくれ!」
市民たちが怒涛のように配給の列へと殺到する。
私も、リタが取り分けてくれた黒パンとシチューを受け取り、口に運んだ。
「……! これは、美味しい……!」
驚いた。そのままでは硬く、強い酸味のあるライ麦パンだが、塩気の強い濃厚な豚肉のシチューに浸すことで、その酸味が絶妙な旨味へと変化しているのだ。
スープをたっぷりと吸い込んだ黒パンは、口の中でホロリと崩れ、噛むほどに深い穀物の甘みが広がる。柔らかいだけの白パンでは、この強烈なシチューの味に負けて溶けてしまうだろう。黒パンだからこそ成立する、究極の野戦料理だった。
「ふふん! どうよレオさん! これがあたしと料理長の考えた『黒パンの最強の食べ方』よ! 栄養満点、腹持ち最高!」
煤で顔を汚したリタが、お玉を片手に得意げに胸を張る。
広場のあちこちから、「美味い!」「酸っぱいのがクセになる!」「腹にドスンと溜まるぞ!」という歓喜の声が爆発するように上がっていた。
もはや「貧者のパン」などと馬鹿にする者は誰もいない。帝都の民は、この日を境に、力強き黒パンの虜となったのだ。
◇◆◇
広場が歓喜の渦に包まれている頃。
帝都の穀物市場では、別の意味で阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられていた。
「ば、馬鹿な……! 小麦の価格が、暴落しているだと!?」
「誰も買わないんだ! 皇帝陛下が無料で極上の黒パンを配りまくっているせいで、あんなバカ高い小麦の粉なんて、誰も見向きもしない!」
フィオラヴァンテの評議会から裏金を渡され、小麦を不当に買い占めていた悪徳商人たちが、黒板の前で頭を抱え、絶望の悲鳴を上げている。
経済のルールは冷酷だ。
彼らは「価格はさらに上がる」と信じ、借金をしてでも法外な値段で小麦の先物契約を結んでいた。
しかし、市場に安価で美味い「ライ麦」という完全な代替品が大量に溢れかえったことで、高すぎる小麦の需要は完全にゼロになった。
「う、売ってくれ! 買値の半額……いや、三分の一でいい! 誰かこの小麦を買ってくれえええっ!」
売り手だけが市場に溢れ、買い手は一人もいない。
バブルは弾けた。
昨日まで平時の数倍の値をつけていた小麦の価格は、一日で底なし沼のように暴落し、タダ同然と化した。
フィオラヴァンテの評議会がアヴァロン帝国を兵糧攻めにするために投じた、数百万とも言われる莫大な黄金。
それは帝国に一切のダメージを与えることなく、ただ一部の投機家たちを破産させ、西の商業都市国家連合の金庫に修復不可能な大穴を開けただけで終わったのである。
◇◆◇
「フハハハッ! いい気味だ! 金に溺れた豚どもめ、自分の抱え込んだ小麦の山に埋もれて首を吊るがいい!」
帝城のバルコニーから、大暴落する市場の方角を見下ろしながら、グレン公が腹を抱えて大笑いしている。
その隣で、私は背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
武力を持たない商人の戦いは、時に剣よりも残酷だ。
グレン公は、一滴の血も流さず、ただ大量の「ライ麦」を市場に持ち込むという単純な一刺しで、フィオラヴァンテの誇る『金の壁』を見事に打ち砕いてみせたのだ。
「さて、レオ。お前たちの働きのおかげで、我が軍の胃袋は完全に満たされた。敵の金庫もカラッポになったことだしな」
グレン公は笑いを収めると、西の空――フィオラヴァンテの方角を、鋭い猛禽の目で睨みつけた。
「腹ごしらえは済んだ。……さあ、来年には西への進軍を開始しようか」
アヴァロン帝国の恐るべき反撃の準備が、着々と進んでいた。
帝都では、夕焼けの中、市民たちが黒パンを食する、楽し気な宴が続いていた。
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