第93話 小麦が無ければライ麦を食べればいいのでは?
【若き商人レオ視点】
『アヴァロン帝国暦2年 6月中旬 帝都フェルグラント 晴れ』
「おっ、そうだ」
絶望的な小麦の高騰と兵糧不足を前にして、グレン公はぽんと手を打った。
そして、まるで今日の昼飯のメニューでも決めたかのような、あっけらかんとした口調でこう言い放ったのである。
「小麦がないなら、ライ麦を食べればいいのでは?」
「……はい?」
私は思わず、間の抜けた声を漏らしてしまった。
ライ麦。主に寒冷地で育つ、黒パンの原料となる穀物だ。小麦で作る白パンに比べれば酸味があり、食感も硬いが、栄養価は高く腹持ちもいい。戦場を駆ける荒くれ者の傭兵や帝国兵たちにとっては、むしろ馴染み深い食料である。
「フィオラヴァンテの商人どもが買い占めているのは、あくまで主食である『小麦』だろう? 奴らは気位の高い西の都市国家の連中だ。貧乏人が食うようなライ麦の市場までは、まだ手が回っていないはずだ」
「た、確かに……! 盲点でした。ライ麦であれば、現在の小麦の異常な価格に比べれば、はるかに安価で大量に買い付けることが可能です!」
私は弾かれたように顔を上げ、商会の情報網の記憶を辿った。
だが、すぐに一つの巨大な壁にぶち当たり、再び表情を曇らせた。
「しかし、グレン公。ライ麦の主要な産地は、北方の都市ハーグや、さらにその奥のスカルディアといった極寒の地です。我々アヴァロン帝国は、西方や東方への進出を優先してきたため、北方とは未だに正式な『国交』がありません。未知の地へ赴き、いきなり大量の穀物を買い付けるなど……」
「国交がないなら、これから結べばいいだけの話だ」
グレン公はニヤリと笑い、椅子から勢いよく立ち上がった。
「ちょっと、皇帝陛下の許可をとってくる。ここで待っていろ」
「えっ? あ、グレン公!」
私の制止も聞かず、大男は嵐のように執務室を飛び出していった。
国交を開くというのは、国家間の重大事である。いくら右腕とはいえ、そう簡単に許可が下りるものだろうか。私は胃の痛む思いで、一人残された執務室で待つことになった。
◇◆◇
それからしばらくして。
バンッ! と勢いよく扉が開かれ、満面の笑みを浮かべたグレン公が戻ってきた。その手には、皇帝の印璽が押された真新しい親書が握られている。
そして、彼の背後には、見知った顔がもう一人立っていた。
「お待たせしましたな、若き俊英殿! いやあ、また面白そうな儲け話があると聞いて、飛んできましたぜ!」
東方の商人であり、かつて私と共にサジスの町へ武器を密輸した男、バルザフだ。
彼はもみ手をして、いかにも強欲そうな笑みを浮かべている。
「バルザフ殿まで……?」
「ああ。レオ、お前一人では心細いだろうと思ってな。百戦錬磨のこのタヌキを呼んでおいた」
グレン公は私の肩をバンと叩き、皇帝の親書を私の胸に押し付けた。
「お前たち二人にミッションを与える。北方と国交を開き、ライ麦をありったけ仕入れてこい! 金庫の底が抜けるほどの黄金を持たせてやる。フィオラヴァンテの金持ち共に、帝国の底力を見せつけてやれ!」
「へへっ、お任せくだせえ! 北方の未開拓市場を独占できるなんて、商人冥利に尽きるってもんでさぁ!」
バルザフが金貨の匂いに鼻をヒクつかせながら、大げさに頭を下げる。
一方の私は、手渡された親書の重みと、国交すらない未知の北方への長旅という重圧に、ただただ眩暈を覚えるしかなかった。
(スパイとして処刑されるリスクもあるというのに、この人はなぜこんなに楽しそうなんだ……)
「さあ、そうと決まれば善は急げだ! レオ殿、すぐに出立の準備でさぁ!」
「あ、こら、バルザフ殿、引っ張らないでください!」
私は陽気なバルザフに腕を引かれ、嵐のような執務室を後にした。
◇◆◇
その日の午後。
大量の金貨を積んだ厳重な荷馬車と共に、私とバルザフはフェルグラントの北門をくぐった。
「いやあ、素晴らしい! 未開の地への商戦、血が騒ぎますな!」
御者台で手綱を握るバルザフは、まるでピクニックにでも行くかのように鼻歌を歌っている。
対する私は、分厚い外套を膝に抱え、深くため息をついた。
「呑気なものですね。相手が野蛮な部族だった場合、親書を破り捨てられて首を刎ねられる可能性もあるのですよ?」
「へへっ、相手が人間である以上、酒と金が通じない相手はいやせんよ。それに、ダメなら逃げ足だけは速いのが俺たち商人でしょう?」
「……まったく、あなたといると調子が狂う」
私は苦笑し、荷馬車の揺れに身を任せた。
目指すは北方の都市、ハーグ。
フェルグラントの空から降り注ぐ初夏の日差しは、ぽかぽかと暖かく心地よかった。
しかし、これから向かう果てしない北の空には、どんよりとした鉛色の雲が立ち込めているのが見えた。
(……北方は、寒そうだな)
私はぼんやりと空を見上げながら、これから始まる過酷な商戦と厳しい寒さに思いを馳せ、そっと身震いをするのであった。
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