第92話 小麦、高騰する
【若き商人レオ視点】
『アヴァロン帝国暦2年 6月中旬 帝都フェルグラント 晴れ』
商売とは、時として研ぎ澄まされた剣よりも鋭く、静かに人の命を刈り取る。
ダリオ商会から独立し、自身の商会を立ち上げたばかりの私は、初夏の陽射しが照りつける帝都フェルグラントの穀物市場で、その恐ろしい真理をまざまざと見せつけられていた。
「おい! 小麦の価格が、また跳ね上がっているぞ!」
「馬鹿な、昨日からさらに三割増しだと!? これじゃあパンを焼くための粉が買えない!」
「農村からの荷馬車はどうした! 川の港に船は着いていないのか!」
普段は活気に満ちている市場の広場が、今日は怒号と悲鳴にも似た騒騒しさに包まれていた。
商取引の価格が掲示される黒板の前には、顔面を蒼白にしたパン屋の主人や、青ざめた仲買人たちが群がり、天文学的な数字へと書き換えられていく小麦の価格表を絶望的な目で見上げている。
一国の経済の中心地において、主食である小麦の高騰は死活問題だ。
天候不順による不作ならば、まだ理解できる。だが、今年は春から天候に恵まれ、どこも豊作の見込みであるはずだった。
にもかかわらず、帝都に入ってくるはずの小麦が、まるで魔法のように忽然と姿を消しているのである。
(……間違いない。西の商業都市国家連合、フィオラヴァンテの仕業だ)
私は市場の喧騒から少し離れた日陰に立ち、手元の帳簿に視線を落としながらギリッと奥歯を噛み締めた。
独自の情報網を辿った結果、信じられない事実が判明したのだ。フィオラヴァンテの十人評議会は、莫大な黄金に物を言わせ、アヴァロン帝国周辺の穀倉地帯の領主や大商人に「先物買い」の契約を持ちかけていた。
秋の収穫分まで、現在の市場価格の数倍という法外な値段で買い叩き、あるいは港に停泊している穀物船を船ごと丸抱えで西へ向かわせている。
彼らは武器を持たずして、帝国の首根っこを真綿で締めるように「兵糧攻め」を開始したのだ。
◇◆◇
「――ということで、現在の帝都における小麦の市場価格は、平時の二倍にまで跳ね上がっております。このままでは今月末には、さらに上がる恐れも十分に考えられます」
帝城の一室、グレン公の執務室。
私が重苦しい報告を終えると、皇帝の右腕と呼ばれる大男は、深い深いため息をついて頭を抱えた。
「二倍、だと……? 冗談ではないぞ。これでは戦どころか、帝都の民の胃袋すら満たせなくなる」
グレン公の机の上には、軍の兵站に関する膨大な書類が山積みになっていた。
アヴァロン帝国は、大陸最強と謳われる強大な武力を誇る。しかし、兵士も馬も、霞を食べて戦えるわけではない。数万の軍勢を西へ向けて進軍させるためには、膨大な量の干し肉、そして何より主食であり保存の利く「パン、つまり小麦」が絶対不可欠なのだ。
「フィオラヴァンテの奴らめ。先日、二万もの精鋭傭兵を金で買い占めただけでは飽き足らず、我々の食料まで買い漁って兵糧攻めを仕掛けてきたというわけか。……レオ、商人として何か手はないのか? 別の国から輸入するとか、帝国内の農家から直接買い上げる手筈を整えるとか」
すがるようなグレン公の視線に対し、私は無力感に苛まれながら首を横に振った。
「彼らの資金力は、桁が違います。我々が新たな供給ルートを開拓しようとしても、必ずその倍の金額を提示して先回りされるでしょう。まさに底なしの金庫です」
「では、帝国内の商人から強制的に徴発するか? 法外な値段で売り渋っている連中から、軍の権限で適正価格で買い上げる」
「それも危険です、グレン公。強権を発動して価格を統制し商品を奪えば、商人たちは帝都の市場を見限ります。商品は地下の闇市場に流れ、表の市場からは小麦が完全に姿を消すでしょう。結果として、帝都の経済は麻痺し、民は飢え、内部から暴動が起きます」
それが、経済という魔物の恐ろしいところだ。
無理やり力で押さえつけようとすれば、必ず別の場所から血が噴き出す。フィオラヴァンテの評議会は、商取引という絶対的なルールの範疇で、我々を完璧に包囲していた。
「くそっ……! 剣も槍も使わず、ただ安全な場所から金貨を動かすだけで、大帝国を身動きとれなくさせるとはな。商人の戦い方というのは、本当に胸糞が悪い」
ドンッ!と、グレン公が苛立ち任せに拳を机に叩きつけた。
分厚い無垢材の机が悲鳴を上げ、積み上げられていた書類がハラハラと床に舞い散る。
私も一人の商人として、同業者である彼らの鮮やかすぎる経済封鎖の手法に、ただ唇を噛むしかなかった。
金で二万の壁を築き、さらに食料を絶つ。
これでは、カール皇帝がどれほど強大な軍事力を持っていようと、西へ向けて進軍の号令をかけることは不可能だ。兵糧を持たずに進軍すれば、数万の軍隊は敵と交戦する前に自壊してしまう。
「申し訳ありません、グレン公。現在の私の商会の力では、彼らの資金網を突破して十分な小麦を確保することは……不可能です」
私は深く頭を下げた。
沈黙が、執務室に重くのしかかる。
窓の外からは、初夏の明るい日差しが差し込んでいるというのに、この部屋の中だけは暗い暗雲が立ち込めているようだった。
打つ手はない。
アヴァロン帝国の破竹の快進撃は、西の巨大な黄金の鎖によって、完全に封じ込められてしまったかに見えた。
「…………いや、待てよ」
不意に、グレン公がポツリと呟いた。
彼は机の上に広げられた大陸の地図をじっと見つめ、自身の無精髭の生えた顎を撫でている。その目は、先ほどの苛立ちから一転し、奇妙な光を宿していた。
「グレン公?」
「……なあ、レオ。フィオラヴァンテの奴らが躍起になって買い占めているのは、『小麦』だけだな?」
「はい。彼らは我々の主食であり、兵糧の要である小麦に狙いを絞って、集中的に資金を投入しています。……それが、何か?」
グレン公は地図からゆっくりと顔を上げると、いつもの、あの戦場で獲物を見つけた猛禽類のような、獰猛で不敵な笑みを浮かべた。
「おっ、そうだ」
武力ではなく、金でもない。
かつて数々の絶望的な戦場を、常識外れの奇策でひっくり返してきた「皇帝の右腕」の脳内に、とんでもない閃きが舞い降りた瞬間であった。
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