第9話 ヴァルゼン公のぼやき
『ヴァルゼン公家歴10年 9月上旬 公都アイゼンブルク 晴れ』
【ヴァルゼン公視点】
戦が終わり、公都アイゼンブルクに平穏が戻ってから、どうにも退屈でならなかった。
だが最近、その退屈さに、奇妙な苛立ちが混じるようになってきた。
(……それにしても、静かすぎるな)
以前であれば、俺の執務室には、新たな利権を求める商人や、領地の問題を訴える貴族たちが、ひっきりなしに訪れていたはずだ。
それが、この頃はどうだ。陳情に来る者の数が、明らかに減っている。
その代わり、側近の報告書には、ある一つの地名が頻繁に登場するようになっていた。
――グレンフィルト。
あの雑兵上がりが築いている、国境の街だ。
「ダリオを呼べ! 今すぐにだ!」
俺は、我慢ならずに叫んでいた。
この国の金の流れを最もよく知る男ならば、この奇妙な変化の理由を知っているはずだ。
ほどなくして、呼びつけられた大商人ダリオ・ボラーニが、顔色一つ変えずに俺の前に現れた。
「ダリオよ、貴様も知っておろう。最近、俺に会いに来る者が減った。代わりに、誰も彼もがグレンフィルトへ向かっておるそうではないか。一体どういうことだ。俺を差し置いて、あの雑兵に媚びを売るのが、貴様ら商人の新しいやり方か!」
俺の苛立ちを含んだ詰問に、しかしダリオは動じない。
その商人らしい顔に、ただ、やんわりとした笑みを浮かべるだけだった。
「とんでもございません。公への忠誠は、このダリオ、いささかも揺らぎませぬ。ですが……」
ダリオは、そこで言葉を区切ると、まるで世間話でもするかのような口調で続けた。
「公の威光は、時に人を萎縮させます。雷鳴轟く玉座へ直接赴く前に、まずは麓の社で雨宿りを、と考えるのが人の性というもの。グレン男爵は、公のお考えを拝聴する前の、良き『取次役』として、皆に大変重宝されているご様子ですな」
その言葉は、遠回しにこう言っていた。
お前の気性が荒すぎるから、皆が怖がって、話しやすいグレンを間に挟んでいるのだ、と。
(……この俺が、雷鳴だと?)
面白いことを言う。
だが、否定はできんかもしれんな。
ダリオを下がらせたあと、俺は重い椅子にもたれ、天井を見上げた。
長い戦の日々で、怒号と剣の音に囲まれて生きてきたこの身には、静けさがどうにも落ち着かない。
「また誰かを怒鳴りつけたのですか、あなた」
振り向けば、部屋の入り口に一人の女が立っていた。
淡い青のドレスに、黒髪をきちんとまとめた姿。
我が妻――カタリーナ・フォン・ヴァルゼンである。
「聞いていたのか」
「城中に響いていましたわ」
彼女は小さくため息をつくと、窓辺に歩み寄り、陽光の差すテーブルに紅茶を置いた。
湯気の向こうで、紫の瞳がやわらかく光る。
「あなた、最近はずいぶんと苛立っておられるようね。皆が避けるのも無理はありませんわ」
「……お前まで、ダリオのようなことを言うか」
「いいえ、ただ事実を申し上げているだけです。あなたは雷鳴。人々は、雷の下に立つより、少し離れた場所で雨音を聞きたいのです」
その言葉に、俺は思わず吹き出した。
「ならばグレンは、俺の雨音というわけか」
「ええ、そして今や、領民にとっての晴れ間でもあります」
カタリーナは、微笑を浮かべながら机の上に一通の封書を置いた。
薄紫の封蝋には、彼女の印章が押されている。
「グレン男爵宛てに、ささやかな贈り物を。公妃としてではなく、あなたの妻としての思いつきです。雷鳴の後には、必ず虹がかかる――そう伝えてくださいな」
俺はその封書を手に取り、思わず口元をほころばせた。
戦場では誰よりも恐れられた俺だが、こいつの前ではどうにも敵わぬ。
「……お前はいつも、俺より先を読む」
「それが妻の務めでしょう?」
紅茶の香りが、執務室の重い空気を和らげていく。
俺は立ち上がり、命じた。
「グレンを呼べ。至急、アイゼンブルクへ参上せよ、とな」
窓の外では、遠雷のような太鼓の音が鳴っていた。
退屈な日々に、また一つ、愉快な風が吹き始めた気がした。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




