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劣勢の戦場で敵将を討ち取った俺、気づけば公の右腕にされた件  作者: 塩野さち


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第89話 闇バーにて~皇帝とチェーザレとグレンと~

【皇帝の右腕グレン視点】


『アヴァロン帝国暦2年 5月下旬 帝都フェルグラント・裏路地の酒場 夜』


 帝都の裏路地の、さらに地下深く。

 看板すら出ていない、知る人ぞ知る薄暗い酒場――通称『闇バー』には、安酒の匂いが立ち込めていた。


 円卓を囲んでいるのは、三人の男。

 一人は、真紅の外套を脱ぎ捨て、ラフなシャツ姿でジョッキを煽るカール皇帝。

 一人は、目立たぬ黒い服をまとい、静かにグラスを傾ける闇の宗教の司祭チェーザレ。

 そして、皇帝の右腕である俺、グレンだ。


 帝国の最高権力者たちがこんな薄汚い地下で飲んでいるなど、誰も想像すらしないだろう。だが、誰の目も届かないこの場所だからこそ、俺たちは腹を割って「物騒な話」ができるのだ。


「――ダリウス公国を完全に組み込んだことで、東方への道は開けました。来年、このままさらに東の奥地へと侵攻することも十分に可能です」


 最近はアヴァロンの裏工作をも束ねるチェーザレが、氷の入ったグラスを揺らしながら淡々と告げた。

 彼の配下である草の者たちは、すでに東方の更なる奥地へと潜入し、情報を集め始めている。


「どうされますか、陛下。このまま東の覇権を握りに行きますか?」


 俺が尋ねると、カール皇帝はジョッキの酒をゴクリと飲み干し、ドンッ!と乱暴に円卓に置いた。


「いや、東への進軍は一旦保留だ」


「保留、ですか? では、次はどこへ?」


「決まっておる」


 カール皇帝は、猛禽類のような鋭い瞳を細め、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。


「我がアヴァロン帝国のすぐ傍にふんぞり返っている、西のフィオラヴァンテを攻め落とす」


「フィオラヴァンテ……あの、商業都市国家連合!」


 俺とチェーザレは、思わず顔を見合わせた。

 フィオラヴァンテは、帝都からそう遠くない位置にある厄介な勢力だ。だが、今はまだこちらに対して明確な敵対行動を見せているわけではない。


「理由をお聞かせ願えますか?」


 チェーザレが、元枢機卿らしい理知的な声で問うと、カール皇帝は自身のこめかみをトントンと指で叩いた。


「俺の勘だ」


「……勘、ですか」


 チェーザレは深くため息をつき、頭痛を堪えるように眉間を押さえた。真っ当な常識人である彼からすれば、国家の命運を分ける決断の理由が「勘」というのは頭の痛い話だろう。


「ああ。東へ全軍を向けている最中に、あの得体の知れないフィオラヴァンテの連中に背後から襲われたらたまらんからな。背中を預けられない奴は、先に完膚なきまでに叩き潰しておく。それだけのことだ」


 論理や理屈ではない、野性の直感。

 だが、この男の「勘」ほど、戦場において恐ろしく正確なものはないことを、俺たちは骨の髄まで知っている。


「なるほど。理不尽ではありますが、背後の憂いを絶つという目的には同意いたしましょう。それにあいつらは、金で傭兵を何万と動かせますからな」


 俺が肩をすくめると、チェーザレも諦めたように薄く笑い、グラスを掲げた。


「承知いたしました。では、我が配下の者たちも、フィオラヴァンテへの工作へとシフトいたしましょう。……次なる戦いに、乾杯を」


「フハハハッ! よき響きだ! 飲め、グレン! チェーザレ!」


 そこからは、ただの男たちの酒盛りだった。

 強い度数の酒が次々と空けられていく。いつもは厳格で真面目なチェーザレでさえ、顔を赤くして珍しくくだを巻き始め、カール皇帝は上機嫌で大声で笑っている。

 俺もまた、二人のペースに巻き込まれ、意識が深い泥の中へと沈んでいくのを感じていた。


◇◆◇


「…………ん」


 どれほどの時間が経っただろうか。

 ……杯を受けたところまでは覚えている。そこから先が、ぼやけている。

 俺は、ズキズキと痛む頭を押さえながら、重い瞼をゆっくりと開けた。


 薄暗い店内は、水を打ったように静まり返っていた。

 隣ではカール皇帝が豪快なイビキをかいて突っ伏しており、対面のチェーザレも腕を組んだまま気絶するように眠りこけている。

 あの三人組が、揃いも揃って完全に酔いつぶれてしまったのだ。


(……飲みすぎた。少し、水をもらおう)


 俺が重い体を起こそうとした、その時だった。


 コツ、コツ、コツ……。


 地下酒場の奥、光の届かない完全な暗闇の中から、微かな足音が近づいてくるのが聞こえた。

 マスターの足音ではない。もっと軽く、静かな歩み。闇の中で金色の瞳が怪しく光る。

 酒の匂いの中に、春の花みたいな甘い匂いが、一筋混じった


 俺は酔った頭のまま、警戒心を跳ね上げ、腰の剣に手を伸ばそうとした。

 だが、闇の中からふらりと姿を現したその人影を見て、俺は思わず息を呑み、動きを止めた。


「……お前は」


 薄暗いランプの光に照らされたのは、一人のあどけない少女だった。

 見間違えるはずがない。かつて、チェーザレに闇の宗教を創設するように勧め、光のような祝福を与えたあの不思議な少女だ。


(いつから、ここにいた?)


 驚愕で声を出せない俺を見下ろし、その少女は静かに、ただ真っ直ぐにこちらを見つめ返していた。


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