第83話 毒された故郷
【サジスの町の長老トマ視点】
『アヴァロン帝国暦2年 4月上旬 サジスの町 曇り』
アヴァロン帝国軍が陽気に撤退していってから数日後。
私たちサジスの住人は、身を隠していた避難先の森から、ようやく自分たちの故郷へと足を踏み入れた。
町は、恐れていたような惨状にはなっていなかった。
家々は焼かれておらず、広場には空になった酒樽がゴロゴロと転がっているだけだ。どうやら、帝国軍はここでしこたま酒を飲んでから帰ったらしい。
「長老! 家は無事でした! 何も壊されていません!」
血気盛んな若者のリュックが、顔をほころばせて駆け寄ってきた。
私は深く安堵の息を吐き、杖をつきながら頷いた。
「おお、そうか。アヴァロンの兵どもは、野盗のように町を荒らしたりはしなかったのだな。……さあ、皆も疲れただろう。まずは井戸の水を汲んで、喉を潤そうじゃないか」
長旅で喉はカラカラだった。
リュックが木の桶を手に持ち、広場の中央にある大きな井戸へと駆け寄る。
「おい、待て! その水を飲んではならん!」
その時、鋭い制止の声が響いた。
見ると、ダリウス小王国の正規軍の鎧を着た男が、数人の部下を引き連れて広場に入ってくる。この国境の町を管理するために派遣された、サジスの代官ゲイルであった。
「ゲイル様。飲んではならんとは、どういうことですか?」
私が尋ねると、ゲイルは冷ややかな目で私たちを見下ろした。
「ゼノス陛下とシオン軍師の偉大なる策により、帝国軍を干上がらせるため、この町のすべての井戸に致死量の毒を投げ込んだのだ。飲めば血を吐いて死ぬぞ」
その言葉に、広場に集まっていた住人たちが一斉に息を呑んだ。
「ど、毒を……? それでは、私たちはこれからどうやって水を飲めばいいのですか!?」
リュックが青ざめた顔で抗議する。
水は命だ。井戸が使えなければ、この町で暮らしていくことなど不可能なのだ。
「町から一時間ほど歩けば、川があるだろう。当分はそこから水を汲んでこい。帝国軍を撃退するための、尊い犠牲だ。お前たちもダリウスの民ならば、誇りに思え」
ゲイルはそれだけ言い捨てると、スタスタと踵を返して去っていった。
広場には、絶望的な沈黙だけが残された。
(誇りに思え、だと……?)
ふざけるな。
私の胸の奥で、ドス黒い怒りが沸々と湧き上がってきた。
アヴァロン帝国軍は、私たちの家を焼かなかった。それどころか、ただ酒を飲んで帰っていっただけだ。
だというのに、私たちが信じるべき自国の王は、自分たちの策のために、我々の命綱である井戸をあっさりと潰したのだ。
「……ふざけやがって。俺たちを囮にした挙句、水まで奪うのかよ」
リュックが桶を地面に叩きつけ、ギリッと歯ぎしりをした。
「長老。俺は行商人の噂で聞いたことがあります。アヴァロン帝国じゃ、あのカール皇帝って人が、民に仕事を与え、兵士には腹いっぱい飯を食わせているって」
「ああ、私も聞いたことがある。あそこの兵は、皆が笑顔で撤退していったとな」
私は、転がっている空の酒樽を見つめた。
あちらには活気があり、こちらには毒にまみれた井戸と、我々を切り捨てる冷酷な王しかいない。
「……長老。俺たちの国が、俺たちを見捨てるって言うならさ」
リュックが、声を潜めて周囲を見回した。
他の住人たちも、暗い怒りを宿した目で、リュックの次の言葉を待っている。
「フェルグラント……アヴァロン帝国についた方が、よっぽどマシなんじゃないか?」
その危険な言葉を、誰も否定しなかった。
むしろ、皆の瞳に「その通りだ」という強い同調の光が宿るのを、私ははっきりと見た。
サジスの町に落とされた毒は、井戸の水だけでなく、我々ダリウスの民の心までも深く蝕み始めていた。
これは、遠からず大きな反乱の火種となる。
そんな予感が、暗い雲の下で確信へと変わっていくのだった。
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