第78話 ダリウスの黒狐
【ダリウス小王国国王ゼノス視点】
『アヴァロン帝国暦2年 3月中旬 ダリウス小王国 王都カストル 曇り』
王都カストルの上空には、墨を流したような分厚い黒雲が渦を巻いていた。
昼間だというのに、街は夜のように薄暗い。冷たい突風が吹き荒れ、広場の旗をバタバタと乱暴に揺らしている。
道行く民衆たちは、不安げな顔で空を見上げ、足早に家路へと急いでいた。遠くでゴロゴロと雷鳴が轟き、嵐の気配が王都全体を重苦しく包み込んでいる。
城壁の上に立つ見張りの兵士たちも、無言で槍を握りしめていた。
彼らの視線の先にあるのは、西の空――すなわち、アヴァロン帝国軍が迫りくる国境の方向である。強大な軍勢がこちらに向かっているという噂は、すでに末端の兵にまで知れ渡っており、陣地には張り詰めた空気が漂っていた。
王城の奥深く。
石造りの冷たい広間では、壁に掲げられた松明の炎が、風もないのにジリジリと揺らめいている。
巨大な円卓の上に広げられた一枚の地図を、三人の若者が見下ろしていた。
一人は、屈強な体格に歴戦の傷跡を刻んだ、若き将軍バラン。
一人は、冷徹な知性を思わせる細身の青年、軍師シオン。
そしてもう一人は、豪奢な王衣を身にまとう私、ダリウス小王国国王ゼノスである。
いずれもまだ二十代の若さだ。周辺の老獪な諸侯からは「若造ばかりの国」と陰口を叩かれることもある。
だが、我々ダリウスの首脳陣は、誰一人として怯えてなどいなかった。
「――アヴァロン帝国軍、接近」
沈黙を破り、私が静かに口を開いた。
報告をもたらした伝令はすでに下がらせている。円卓の上の地図には、帝国軍の進軍ルートを示す赤い駒が、国境の町サジスへと迫っていた。
「よし、作戦通りに動くぞ。国境の町サジスを放棄しろ」
私の言葉に、将軍バランが眉をピクリと動かし、好戦的な笑みを浮かべた。
「街から食料をすべて引き上げろ、ということですね? 陛下」
「そして、井戸には毒を投げ入れろ、と?」
「フッ、お主、分かっているではないか。軍師シオンよ」
私が地図上のサジスの町を指先でトントンと叩くと、シオンは薄く笑いながら眼鏡の位置を直した。
その瞳には、恐怖ではなく、獲物を前にした冷酷な狩人の光が宿っている。
「ははっ。ただちに全軍を、サジスの周囲にある森と丘陵地帯に伏せさせます」
シオンは滑らかな手つきで、青い自軍の駒をサジスの町の周囲へと配置していく。
「敵は空っぽの街に入り、兵糧の現地調達もできず、水さえも飲めない。疲労と混乱が頂点に達した瞬間……一気に逆包囲いたします」
「うむ、それで良い」
私は深く頷き、背もたれに体を預けた。
(確かに、アヴァロン帝国は強い)
カール皇帝というカリスマに率いられ、一騎当千の将が揃っていると聞く。個人の武勇において、我々が正面からぶつかれば、ひとたまりもないだろう。
だが、軍隊とは大きくなればなるほど、弱点もまた巨大になるのだ。
数万の兵が動けば、毎日膨大な量の食料と水が消費される。
個人の剣技がどれほど優れていようと、腹が減り、喉が渇けば、剣を振るうことすらできなくなる。戦いが大規模になればなるほど、個人の武勇は戦局に与える影響を狭められるのだ。
(さて、ハマってくれればよいが……)
私は細めた目で、地図上の赤い駒を見つめた。
獅子を自称する帝国軍を、この冷たい罠の底へ引きずり込んでやる。
ピシャァァァン!
その時、ひときわ大きな雷鳴が城を揺らした。
それを合図にしたかのように、重い雲がとうとう破れ、ザァァァッと激しい豪雨が大地を打ち据え始めた。
窓の外は、一寸先も見えないほどの白い雨の壁に覆われている。
ダリウスの紋章である「黒狐」の旗が、雨に打たれながらも、暗闇の中で妖しく翻っていた。
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