第74話 正気を取り戻すためのコンクラーベ
『アヴァロン帝国暦2年 1月上旬 浄火の都 昼 小雪』
【教皇イグナティウスの息子、影の教会教祖チェーザレ視点】
久しぶりに袖を通した枢機卿の深紅の法衣は、きれいにしてはいたが、ひどく重く、どこかしっくりこなかった。
鏡に映る自分を見る。そこには、帝都で愛する妻ルチアと暮らす「影の教祖」ではなく、かつての冷徹な策士、チェーザレ枢機卿の姿があった。
「……似合わんな。今や、この赤は血の色にしか見えん」
私は自嘲気味に呟き、部屋の隅で待機していた男に振り返った。
聖槍軍総司令官、セラフィオン枢機卿。彼もまた、久しぶりに軍服ではなく、式典用の法衣をまとっている。
「準備はいいか、チェーザレ。……いや、今はこう呼ぶべきか。『影の教祖』殿」
「よしてくれ、セラフィオン。今は、腐った実家を掃除しに来た、ただの掃除屋だ」
私たちは視線を交わし、短く頷き合った。
計画は、あまりにも単純で、そして強引なものだった。
大神殿の最奥、教皇の私室。
そこには、朝から酒の匂いが充満していた。
教皇イグナティウス猊下は、いつものように女を侍らせることもなく、ただ一人、恐怖と怒りを紛らわせるために酒瓶を抱えていた。
「おお……チェーザレか! 戻ったか! 我が息子よ!」
私を見るなり、教皇はよろめきながら抱きついてきた。
酒と垢の混じった不快な臭いが鼻を突く。
「軍はどうした! 聖槍軍は動いたのか! 帝都を、あの忌々しいアヴァロン帝国を焼き払う準備はできたのか!」
「ええ、猊下。すべて順調です。……まずは、戦勝の前祝いといきましょう。極上の年代物を、帝都からくすねてまいりました」
私が合図をすると、セラフィオンが恭しく一本のワインボトルを差し出した。
中身は確かに極上のワインだ。ただし、即効性の強い睡眠薬がたっぷりと溶かし込んである。
「おお、気が利くではないか! どれ!」
教皇は疑うこともなく、ボトルをラッパ飲みした。
ゴク、ゴク、ゴク……プハァッ!
「うまい! これぞ神の血……う、む……?」
数分もしないうちに、教皇の目が虚ろになり、その巨体がドスンと床に崩れ落ちた。
高いいびきが聞こえ始める。
「……あっけないものだな」
「ああ。権力の頂点に立つ者が、これほど無防備とはな」
私たちは、教皇を担ぎ上げると、神殿の地下深くにある、かつて異端審問に使われていた堅牢な独房へと運んだ。
鉄の扉を閉め、重い鍵をかける。
これで、終わりだ。
教皇が目を覚ました時、彼はただの「監禁された老人」となっているだろう。
神殿の奥深くから、夜な夜な「ここから出せぇ!」「わしは教皇だぞぉ!」という老人のうめき声が聞こえるという怪談が流れたのは、半分は事実である。
さて、掃除の第一段階は終わった。
次は、新しい主を決める番だ。
私たちは、大神殿の大広間に、各地から招集した枢機卿たちを集めた。
重厚な扉が閉ざされ、鍵がかけられる。
教皇選挙――『コンクラーベ』の開始だ。
円卓を囲むのは、教団の幹部たち。
彼らは皆、教皇イグナティウスの不在(「急な病による療養」と伝えてある)と、突然の会議に動揺を隠せないでいた。
「し、しかしチェーザレ殿。猊下が不在のまま、次期教皇の選出などと……時期尚早ではありませんか?」
口火を切ったのは、最年長のバルトロメオ枢機卿だ。
保守派の筆頭であり、規則と伝統を何よりも重んじる石頭の老人である。
「バルトロメオ枢機卿。猊下のご病気は重い。心の病です。もはや正常な判断は下せません。北のアヴァロン帝国との関係修復、そして疲弊した教団の立て直しには、新しい指導者が必要なのです」
「それは分かりますが……。伝統に反するやり方は、信徒の動揺を招くのでは……」
ブツブツと言うバルトロメオの横から、でっぷりと太った男が身を乗り出した。
財務担当のジュリアーノ枢機卿だ。彼の関心事は、信仰よりも金庫の中身にある。
「伝統などどうでもいい! 問題は金だ、金! いいですか皆さん、帝都からの寄進が先月比で四割も減っているのですぞ! これもあれも、あの『影の教会』とかいうふざけた新興宗教のせいです! 新しい教皇には、何としても財政を立て直してもらわねば困る!」
私を目の前にして、よくもまあ言えたものだ。平静を装いつつ、表情を崩さずに聞き流した。
「ひぃぃ……。金どころではありませんよ……」
震える声で発言したのは、外交担当のマリウス枢機卿だ。彼は極度の心配性で、常に何かに怯えている。
「あのアヴァロン帝国ですよ? 『雷鳴』と呼ばれるカール皇帝と、その右腕『常勝』のグレン公爵……。もし彼らが本気で攻めてきたら、我々などひとたまりもありません! 一刻も早く、彼らに頭を下げて許しを請える方でないと、皆殺しにされます!」
「なんだと貴様! 神の軍隊が負けると言うのか!」
机を叩いて立ち上がったのは、強硬派のドミニク枢機卿だ。彼は現実が見えていない典型的な狂信者タイプである。
「我々には聖槍軍がある! 異端者どもなど、神の鉄槌で粉砕すればよいのだ! 次期教皇には、もっと強気な方を推すべきだ!」
議論は紛糾した。
伝統を重んじるバルトロメオ。
金を欲しがるジュリアーノ。
恐怖に怯えるマリウス。
好戦的なドミニク。
彼らの主張は平行線をたどり、罵り合いになり、やがてただの口喧嘩へと堕していった。
これが、今の教会の姿だ。
腐敗し、分裂し、己の欲望と保身しか考えていない。
私は、冷めた目でその光景を眺めていた。
やがて、頃合いを見計らって、静かに、しかしよく通る声で言った。
「……皆さん。議論は尽くされたようですね」
私の声に、枢機卿たちが一斉にこちらを見る。
「伝統を守り、財政を立て直し、帝国との和平を結び、かつ軍を統率できる。……そんな都合の良い人物が、一人だけいます」
私は、隣に座っていた男の肩に手を置いた。
「聖槍軍総司令官、セラフィオン枢機卿です」
一瞬の沈黙の後、枢機卿たちが顔を見合わせた。
「セラフィオン殿か……。確かに、軍の統率は彼にしかできん」
「帝国軍ともパイプがあると聞く。彼なら和平交渉も可能か……」
「軍事費の無駄遣いも減らしてくれそうだな……」
「むぅ……軍人上がりの教皇か。悪くない」
それぞれの思惑が、カチリと噛み合った音がした。
もちろん、私が事前に裏で根回しを済ませていたこともあるが、彼らにとっても、セラフィオン以外にこの沈没船の舵を取れる者がいないことは明白だったのだ。
投票が行われた。
結果は、満場一致。
第百代教皇として、セラフィオン・マルケドが選出された。
大神殿のバルコニーへの扉が開かれる。
外には、白い煙――教皇決定の合図――を見て集まった数万の信徒たちが、固唾を呑んで見守っていた。
新しい純白の法衣に身を包んだセラフィオンが、バルコニーへと進み出る。
彼は、信徒たちを見下ろし、力強く宣言した。
「我が子らよ! 本日、古き悪習は去った! 我々は生まれ変わる!」
セラフィオンの声が、都に響き渡る。
「本日より、この教団の名を『ユニテス教会』から『女神教』と改める! そして、業火の記憶を背負うこの都の名も、『聖都アウグスタ』とする! これより始まるのは、浄化の炎ではなく、慈愛の光の時代である!」
『『『ウオオオオオオオオオッ!!!』』』
地鳴りのような歓声が上がった。
人々は、狂信的な戦争の日々に疲れていたのだ。新しい教皇が示した「変化」を、彼らは熱狂をもって受け入れた。
バルコニーから手を振るセラフィオンの背中を見ながら、私は小さく息を吐いた。
「……やれやれ。貧乏くじを引かせたな、友よ」
セラフィオンは、これから腐った組織の改革という、地獄のような日々を送ることになるだろう。だが、彼ならやれる。
そして、それを見届けるのは、もはや私の役目ではない。
私は、枢機卿の赤い法衣を脱ぎ捨てた。
下に身につけていたのは、愛する妻が縫ってくれた、漆黒の法衣。
『影の教会』の正装だ。
「……フッ」
私は、歓喜に沸く広場に背を向け、影のように静かにその場を立ち去った。
外へ出ると、冷たい雪が頬を打った。
だが、その寒ささえも心地よい。
私は、待たせている妻と、そして厄介だが頼りになるパトロン――グレン公のいる帝都フェルグラントへ向けて、馬を走らせた。
私の帰る場所は、もう、この光の当たる場所ではない。
愛に生きる者たちが集う、あの温かい影の中なのだから。
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