第72話 乱心の教皇と、苦渋の密書
『アヴァロン帝国暦元年 12月上旬 ユニテス教会総本山・浄火の都 吹雪』
【聖槍軍総司令官、セラフィオン枢機卿視点】
帝都フェルグラント近郊での和睦を経て、私は『浄火の都』へと帰還した。
カリストとの別れ際、雪原に投げ捨てた安酒の味を思い出す。あの一瞬だけが、この狂った時代における唯一の正気だったのかもしれない。
大神殿の重い扉をくぐると、鼻をついたのは神聖な香の匂いではなく、腐りかけた果実のような、濃密な酒の臭気だった。
「――チェーザレめ! あの裏切り者めがぁぁっ!」
教皇の私室から、硝子が砕け散る音と、獣のような咆哮が響いてくる。
私は、控えていた怯える侍従たちを手で制し、一人で部屋へと足を踏み入れた。
そこは、惨状だった。
高価な調度品はなぎ倒され、床にはワインが血溜まりのように広がっている。
その中心で、教皇イグナティウス猊下が、乱れた法衣のまま肩で息をしていた。
その目は血走り、焦点が定まっていない。
「……帰還のご報告に上がりました、猊下。聖槍軍総司令官、セラフィオン枢機卿です」
私が膝をつくと、教皇は弾かれたようにこちらを向き、よろめきながら詰め寄ってきた。
「おお、セラフィオンか! 遅い、遅いぞ無能め!」
酒臭い息が顔にかかる。
「聞いたか! あのチェーザレが! 我が息子同然に目をかけてやったあの男が! あろうことか『影の宗教』などというふざけた教団を作りおった! しかも、帝都の民がそちらへ流れているだと!? 許さん、許さんぞ……!」
「……事実は確認しております」
「ならば話は早い! セラフィオン、ただちに出撃せよ! 帝都フェルグラントへ取って返し、チェーザレを、そしてそれを匿うグレンとかいう小僧を、火あぶりに処すのだ! アヴァロン帝国ごと焼き払え!」
私は、床に視線を落としたまま、奥歯を噛み締めた。
正気ではない。
アヴァロン帝国は、今や大陸最強の軍事国家だ。旧アードラー帝国の精鋭を吸収し、北と南、東を束ねている。
対する我々はどうか。長引く対陣で疲弊し、給金も滞り、士気は地に落ちている。
今、戦を仕掛ければ、教会そのものが消滅する。
「……猊下。兵たちは疲労困憊しております。それに、冬の行軍は……」
「言い訳など聞きたくないわ! 神の威光を示さねばならんのだ! 行け! 行かんか!」
教皇が、空になった酒瓶を私に投げつける。
瓶は私の肩当てに当たって砕けたが、私は身じろぎもしなかった。
「……承知いたしました。出撃の準備を整えます。しかし、物資の調達に数日は要しましょう」
「ええい、さっさとせよ! グズグズしていると、貴様も異端として吊るすぞ!」
私は一礼し、逃げるように私室を後にした。
自分の執務室に戻った私は、重い溜息をつき、椅子に深く沈み込んだ。
終わっている。
トップが狂えば、組織は死ぬ。このまま教皇の乱心に従えば、ユニテス教会は歴史から消え去るだろう。千年の歴史が、一人の老人の酒乱で終わるのだ。
(……だが、私は聖職者だ。教会を守る義務がある)
教会を守るためには、教皇を裏切らねばならない。
なんたる皮肉か。
私は、一枚の羊皮紙を取り出し、ペンを執った。
宛先は、帝都フェルグラント、『影の教会』教祖、チェーザレ。
かつての同志であり、今は討伐対象となっている男。
『――教皇、乱心せり。これ以上の自浄作用は望めず。このままでは、教会は自滅の道をたどるのみ』
筆が震える。
これは、明白な利敵行為だ。
だが、他に道はない。
『チェーザレよ。貴殿が作った新しい道が、あるいは我らの救いになるやもしれん。……時を稼ぐ。どうか、最悪の事態を回避する手立てを』
私は、苦渋の決断と共に署名をした。
他宗教へ助けを求めるなど、枢機卿としてあるまじき行為。
だが、カリストと交わした「殺し合わなくて良かった」という安堵を、無駄にはしたくなかった。
私は封蝋を施し、最も信頼できる部下を呼んだ。
「これを、帝都へ。……命に代えても、チェーザレに届けろ。教会の存亡がかかっている」
窓の外では、吹雪が吹き荒れている。
浄火の都は、その名の通り、自らの業火で燃え尽きようとしていた。
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