第60話 アウステルの業火、そして天の涙
『ヴァルゼン公家歴11年 8月下旬 アウステル 夕暮れ』
【教皇軍総司令官チェーザレ枢機卿視点】
夏の日照りは、一ヶ月近くも続いていた。
大地は乾ききり、アウステルの街を囲む草木は枯れて茶色く変色している。城壁の内側にある木造の家々もまた、極限まで乾燥していることだろう。
私は、無能な軍隊による遅々として進まぬ包囲戦に、ついに堪忍袋の緒を切らしていた。
正面から攻めれば隊列が乱れ、自滅する。ならば、戦わずに殺すしかない。
「……風が出てきたな」
夕暮れ時、乾いた風が街の方角へ向かって吹き始めた。
私は、副官に短く命じた。
「準備はいいな。放て」
合図と共に、無数の火矢と、油を詰めた壺が、カタパルトから放たれた。
乾ききったアウステルの街に、紅蓮の華が咲くのに、時間はかからなかった。
ゴオオオオッ……!
またたく間に、街は巨大な松明と化した。
火は風に煽られ、家から家へ、壁から壁へと飛び火し、生きとし生けるもの全てを飲み込んでいく。
城壁の中から、絶叫が響き渡った。
男の怒号、女の悲鳴、子供の泣き声。それらが全て、炎の爆ぜる音と混じり合い、地獄の釜の蓋が開いたような騒音となる。
だが、真に異様だったのは、焼かれる街ではなかった。
それを囲む、我が軍――『教皇軍』の姿だった。
彼らは、目の前で人が焼き殺されていく光景を見ても、歓声を上げるわけでもなければ、顔を背けるわけでもなかった。
ただ、祈っていたのだ。
「おお……穢れが焼かれていく……」
「アウローラ女神よ、彼らの魂に救済を……」
「浄化だ、これぞ神の浄化なり……」
数千の信徒兵が、武器を捨て、炎に照らされた顔で恍惚とした表情を浮かべ、一斉に祈りの言葉を呟いている。
その声は、低く、重く、地鳴りのように響き渡り、炎の中で死にゆく人々の断末魔をかき消していった。
(……なんだ、これは)
私は、燃え盛る炎の熱風を受けながら、背筋が凍りつくのを感じた。
私は、この軍を「張りぼて」だと思っていた。訓練もできず、規律もない、烏合の衆だと。
だが、違った。
こいつらは、兵士ではない。「信仰」という名の狂気に侵された、意思なき怪物だ。
目の前の虐殺を、彼らは「正義」だと信じ、微塵も心を痛めていない。それどころか、神の御業として感動すらしている。
(……私は、こんな化け物を率いているのか?)
胸の奥が、締め付けられるような痛みを覚えた。
作戦を命じたのは私だ。この虐殺の責任は私にある。罪悪感が、喉元までせり上がってくる。
だが、こいつらは平然としている。
私は初めて、自分の部下たちに恐怖した。
この狂信の群れは、私が指を差せば、どんな残酷なことでも「神のため」と信じて実行するだろう。
それが、どれほど恐ろしいことか。
夜が明ける頃には、アウステルはただの灰の山となっていた。
生存者は、一人もいなかった。
城門から逃げ出そうとした者たちは、祈りを捧げる信徒兵たちによって、慈悲深く、そして無表情に槍で突き戻され、炎の中へと消えていったという。
「……全軍、撤収だ。帰還する」
私は、灰になった街を直視することができず、逃げるように背を向けた。
勝利したはずなのに、口の中には灰の味しかしない。
軍がアウステルを背にして歩き出した、その直後だった。
ポツリ、と頬に冷たいものが当たった。
見上げれば、あれほど晴れ渡っていた空が、厚い雲に覆われている。
ザアアアアッ……!
まるで天が決壊したかのような、激しい雨が降り始めた。
それは、焼き尽くされた街を遅すぎて濡らす、天の涙のようだった。
あるいは、私の犯した罪を洗い流そうとする神の皮肉か。
信徒たちは「恵みの雨だ!」「浄化の仕上げだ!」と口々に叫び、雨を浴びて喜んでいる。
私は、濡れるに任せて馬を進めた。
この冷たい雨でさえ、私の心にこびりついた恐怖と罪悪感を、洗い流してはくれそうになかった。
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